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なんでもない日
(5)両手にいっぱいの牡丹一華を③
しおりを挟むコチコチ、とやけに時計の秒針が働く音が大きく聞こえる。そして遠くの方ではひっきり無しに鳴き続ける蝉の声。風に乗って炊事モサ達が後片付けに追われる声も聞こえてきた。
「ッ…………」
「仙、参謀本部に来い。幸いにも俺の上官は広幼出身で、ある程度人事にも口出しできる立場にいる。お前、たしか母国語を含めて五ヵ国語に精通していただろ。それならどの班でも引く手あまたに決まってる。海軍側がまだ気付いていないか、穏便に済ませている内にあの男から離れるんだ。なんだったら、陸地測量部に……」
「……………それは、上層部からの指示でありますか?」
「!」
ひゅぐっ、という空気と少量の水が掠れるような音。それを聞いて密かにほくそ笑む。ようやく形勢逆転だ。
冷静になって考えてみれば今の話にはおかしな点がいくつも散見されているのが判るのに、何を焦ったのだろう。
戸田が言うように尾坂が海軍士官と幾度となく派手な喧嘩をしているなんて不祥事が中央の耳に入ったのならば、今ごろは問答無用で召還命令が出されているはずだ。当然、行き着く先は参謀本部に栄転ではなく、大陸か僻地の部隊への左遷。最悪の場合は軍法会議の後に罷免だろう。そこに本人の意思も選択肢もない。なぜなら命令だからだ。バレた時点で煮るも焼くも全ては上層部次第。
なのに広島にやってきた戸田は、尾坂に理由を問い質した。その上、まるで尾坂に選択肢があるようなことを言うではないか。
ということはつまり、上層部はこの件に気付いていないか半信半疑。まだこちらの身の振り方次第でどうにかできる段階なのだろう。
「よくよく思い返して見れば、上層部が米国留学経験者である私を引き抜こうとしている話も、少佐殿が仰っただけで確たる証拠は存在しない。そも、国の中枢部に近い立場である陸軍上層部ともあろうものが、いくら海外留学をしてきた特別抜擢組とはいえ一介の工兵大尉でしかない私を特別扱いするなんて有り得ません。そして私があの男と毎度毎度派手な喧嘩を繰り広げているということは、広島から呉にかけて知らぬ者など新兵くらいと言われるほど有名な話。元々少佐殿は広島幼年学校出身で市内には面識のある者もごまんとおりますもの……ここにお見えになる前に昔馴染みにでも会われて、その時耳にした話が信じられなくて私に鎌掛けするためにあのような戯れ言を?」
「っ…………」
「沈黙は肯定……と受けとってよろしいでしょうか。私を参謀本部に引き抜きたいのは上層部ではなく少佐殿、貴方なのでは?」
「仙………」
「ご不愉快ですか、少佐。私が特定の誰かと度々喧嘩をしているということが……私が、貴方の知らない誰かに執着をしているという事実が」
息を呑む音。一瞬──焦りで揺れる戸田の瞳の奥に宿った、嫉妬とも取れる感情を見逃すほど尾坂は鈍いわけではない。
目の前に佇む戸田の厚い胸板にとん、と頬を寄せてしなだれかかり、長い脚をするりと伸ばして彼の足にゆるく絡める。そのままゆっくりと上目遣いで戸田の顔を見上げた。
「………私に言うことを聞かせたいのでしたら、正式な書類をご持参の上で上官としてご命令下さい。それまで私は誰になんと言われようと広島を離れるつもりはありませんので悪しからず」
「仙、」
「何も難しいことでは無いでしょう? 私はただの隊附大尉で貴方は陸大卒の参謀本部附少佐。上官から下された命令であるならばそれがどのような屈辱的なことであろうとも従う所存でありますよ。ええ、私だって軍人の端くれですから。たとえ今すぐここで『脱げ』と命令されても迷わず素っ裸になりますし、その上で『這いつくばって尻を上げろ』と命じられても、命令であるならば喜んでこの身を差し出します。上の意向に逆らっても良いことは無い、と……あの一件で身をもって理解させられましたから」
薄ら笑いを浮かべながら指先で戸田の身体をつつ……となぞりあげる。臍から硬く割れた腹筋、さらに鍛えられた厚い胸板を軍服の布越しに、ゆっくりゆっくり………
思わせ振りな態度で、何が……とはハッキリ言わずに。無言のままの静かな攻撃に、戸田が次第に追い詰められていくのを感じながら尾坂はなおも追い立てる。
まるで、そう───獲物を追い詰めたずる賢い狼のように。
「……少佐。国の中枢の皆様が仰る通りに、我が国が亜細亜の果てで黒船だ開国だと大騒ぎしている弱小国家から脱却して、欧米列強と肩を並べるほどの近代国家に成長した……と、仰るのならば。なぜいまだに都市部と農村でこれほどの格差が存在するのでしょう」
「……確かに格差があるのは否めないがな。仙……いったい、何が言いたい?」
「さあ……果たして、我が国は本当に近代国家の仲間入りを果たしているのでしょうか」
ちらりと真っ赤な舌が口から覗く。それに視線が釘付けになりながら、戸田は何とか言葉を探して会話を続ける。
「しているに決まっておろう。明治以来我が国は近代化を押し進め、亜細亜初の国軍を創設した。そして同盟国であった英国を初めとした国々の支援はあったとはいえ白人国家である露西亜に勝利した唯一の有色人種国家だ。それだけでも充分、我が国は世界で大きな存在感を持っていると証明できている」
「ええ、そうですね。しかし、同時に我が国は近代国家としてはいまだ発展途上にあると言えるでしょう」
「なぜだ。帝国は亜細亜諸国で唯一植民地になることもなく欧米列強と肩を並べている独立国だぞ」
「ええ、そうです。少佐もご存じでしょう。我が国が近代国家となるべく掲げた富国強兵を成し遂げるためには、近代化に必要不可欠な機械や武器類を輸入しつつ、欧米列強に付け入る隙を与えないために外資を獲得しなければならなかったことを」
「そのための生糸の輸出だろう。開国の時には既に養蚕技術が確立して外貨を獲得できるほど生糸か大量生産ができたからこそ、帝国はその強い輸出力によって世界有数の貿易大国となった。これくらい専門家でなくてもある程度判る」
「ですが、それは裏を返せば生糸以外に輸出できる物が存在しないということ。そして製糸業に力を注ぐあまりにその他の産業、特に農業に対する公共の投資を蔑ろにしてしまった。それが我が国の現状です。生糸の需要が減っているというのに生産量が減らなければ当然、製品の価値は下落していく一方。売れないのですから当然でしょう。そして作っても売れないということは、材料を売る養蚕業従事者や桑農家……作った製品を売る小売業者の首も締めていくことになります。そうなれば産業そのものだけでなく国家そのものに大打撃を与えるのは自明の理であったのでは? 現に此度の恐慌で多くの失業者を出し、挙げ句金本位制などという愚策で物価収縮を加速させて経済に大打撃を喰らわせ、国民が更なる貧困に苦しめられる切欠さえも作ったではありませんか」
「あッ、こら馬鹿!! 誰かに聞かれたらどうするんだ!」
尾坂の政治批判とも受け取れる発言にぎょっとした戸田は大慌てで周囲を見渡す。ほとんど脊髄反射のようなものだったが、万が一にも誰かに聞かれて特高に密告でもされたら拙い。
だが中隊長室周辺に人の気配はなかった。開け放たれた窓の向こうの外は人気の無い場所で、強いて言うなら遠くの方から風に乗って炊事モサ達の声と昼食後の片付けをする音が届いてくるだけ。近くには誰もいない。
ホッと一息吐いた戸田にいまいち感情の読めない視線を向けて尾坂は口を開く。
「別に……構いませんよ。誰かに聞かれた所で……どうせ皆、侯爵が怖くて何も言えないでしょうし」
「仙……」
弟分の随分となげやりな態度を非難するようにじっとりと睨む。しかし尾坂はこの期に及んで涼しげに構えているだけだった。
「たとえ私が特高にしょっぴかれても侯爵が裏で手を回して即日釈放させますよ。いえ……むしろ大喜びするでしょうね、あの方は。それを口実にして私を自分の手元に戻すことができるので」
「……お前、いつの間にそんなに九条院侯爵のことが嫌いになったんだ。自分の親父さんだろ? 大事にしろよ」
「……………そうですね」
ここで反発したところで無駄だということは経験上、嫌というほど知っている。なので心にも無いことをしれっと返しておいた。
「此度の恐慌で都会では失業者が溢れることとなりましたが、農村の現状はそれよりも更に悲惨なものです。参本勤務とはいえバタである貴方は鳶の私よりもその現実を身近に感じておられるのではないでしょうか」
「ああ、俺の原隊は農村出身の兵が比較的多かったからな………風の噂程度だが、酷い話を伝え聞くことは何度かあったよ」
「近代化を進め、発展していくのは都会だけ……しかしそこからほんの少し離れれば目を覆いたくなるような現実がそこにあります。そして今回の恐慌で、製糸業以外の産業に対する投資がおざなりだった弊害がついに凶作に襲われた農村の困窮という形で現れた。当然の結果です。我が国の農村の生活は都市部のそれと比較して一世紀かそれ以上遅れているとしか言いようがありません。文明の恩恵など僅かな数の猟銃くらいで、インフラの整備でさえ手付かずのまま。農耕民族である我が国において農村の問題は都市の問題に直結します。農村が貧困から脱しない限り、我が国は見かけ倒しの貧乏国家のままです。農作物の収穫量は自然現象に大きく左右され、農家はいつ破産するかと怯えながら生活しなければならない………そして、その場しのぎの金銭を得るためだけに二束三文で娘を遊郭に売り飛ばす親もいる始末。これでは貧困の悪循環から抜け出すことさえままならない。無論、優秀な兵卒の多くを農村から調達している我が陸軍とて、農村の貧困と衰退は無関係ではありません」
「仙……俺達は軍人だ。国の方針に逆らうことなど許されない」
と口では言うものの、戸田の声は少し震えていた。
……この現状について何も感じていないわけではない。何もできずに見ていることしかできない自分の無力さへの怒りくらい持っている。彼には彼なりの考えがある。だが、その上であえてその怒りを必死で呑み込んで自分に課せられた職務を粛々とこなさなければならない。
……それが、軍人というものだから。
「ええ、そうですね。我々は国家の犬です。ですがそれを十全に理解した上であえて口を挟ませて頂きます。我が国は確かに兵の動員速度と支給品の手配については他国を圧倒しておりますが、その兵を支えるために必要な継続的かつ安定的な補給能力など、国内での後方支援については完全に遅れを取っていると言わざるをえないかと。人力だよりで不安定な食料供給……機動性の無い輸送手段に未舗装の道路………各所で目立つ機械化の遅れ……そして職人技でひとつひとつを手作りしていくやり方。全てにおいて非効率的かつ非合理的です」
「確かにそうだがな……」
「近代戦は国力を上げての一大消耗戦でもあります。先の世界大戦後、平和を謳歌してきた我が国といえども一度有事が起きれば嫌でも改革を余儀なくされるでしょう。いえ、むしろ平時の今こそ補給や輸送路・輸送手段を初めとした足下を充実させるべきです。いかに我が陸軍が世界でも屈指の練度と不敗の戦歴を誇る最強の軍隊と言えども、足下を疎かにして自滅したとあらば世界中の笑い者です。それに、三年前には満州で某重大事件があったばかり………大陸での対日感情は悪化していく一方ではないですか。常日頃から隙あらば南下を目論むソ連がその絶好の機会をみすみす逃す筈も無いでしょう。中央三官衙の皆様におかれましてはそろそろ危機感を募らせた方がよろしいのでは?」
そこまで言ってから尾坂はちらりと戸田の様子を窺う。彼はなんとも言えない表情をしていた。彼の中で漠然と思っていたことが言語化されたためなのか。それは尾坂には読み取れなかったが。
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