海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(4)両手にいっぱいの牡丹一華を②

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「───尾坂大尉、貴公はもう少し上手いこと立ち回る技術を学んだ方が良い」


 工兵第五聯隊第一大隊第二中隊の中隊長室にて。その日はこの部屋の主である尾坂大尉に来客が見えていた。
 客人は陸軍の軍服を着てはいるが、襟章の兵科色は緋色。つまりは歩兵だ。何も知らない人が見れば歩兵少佐が工兵大尉になんの用かと思うだろう。そう、二人がかつて同じ広島幼年学校に通っていた二期違いの先輩後輩であり、なおかつ同じ寝室で寝台を並べて生活していた仲であると知らなければ。

「……いきなりやって来たかと思えば、開口一番それでありますか。戸田とだ少佐」
「ああ、もう。すまん。俺が悪かったよ、仙。だからそんなに拗ねないでくれって」

 破顔一笑。戸田と呼ばれた歩兵少佐が、固く引き締めていた顔を緩めてはにかんだ。

「少佐殿。いくら私がかつて貴方と同じ広島陸幼で寝台を並べた同室の後輩であったとしても、今はお互いに立場・・と言うものがあります。本来はまだ勤務時間中でありますがゆえ。過度の馴れ合いは慎んだ方がよろしいかと」
「まあ、うん。そうだな」
「聯隊長も交えた会談を行う前に二人だけで話をしたいと仰られたので時間を調整させて頂きましたが、それが説教のためだったと言うのでしたら事務作業をしながらでもよろしいでしょうか」
「いやいや、違うぞ。俺はお前と腹を割って話をしたくて遠路はるばる広島までやって来たんだ」
「そうでありますか。では遠慮などせず直球にどうぞ。明日は私用があるため面談を本日に回して頂いた身でありますから、真面目に拝聴させていただくであります」
「うん、急に言ってすまんかったな。ところで私用ってなんだったんだ?」
「…………大したことはありません。養父から頼まれた御使い・・・をこなすだけでありますが、心身への負担が中々重いものですから丸一日潰れる覚悟で挑むだけであります。それで、先程の発言はいったいどのような意図で仰られたものでしょう」

 官僚のように回りくどい言い方などせず、意見は簡潔かつ率直に言ってほしいと促すと、彼は本題に入ろうとばかりに真剣な表情をした。

 戸田とだ 誠治せいじ。それが尾坂の前に座っている歩兵少佐の名前だ。陸大をかなりの好成績で卒業して今は参謀本部に勤務している俊英である彼と、砲工学校の特別抜擢組ではあるが陸軍内で煙たがられている節のある尾坂。一見なんの接点も無いように見える二人だったが、実の所、彼らは同じ広島幼年学校の出身だ。彼らの母校である広島地方幼年学校は、今は軍縮の煽りを受けて廃校となってしまったが、それでも広島幼年学校は出身者同士の結束が固い。通学していた当初ははみ出しものであったはずの尾坂でさえも、本科入学後からは幾度となく広島幼年学校出身者に庇われたのだから、その結束力は推して知るべし……という奴だ。

「よし、単刀直入に言おう。上層部に対して何か言いたいことがあるのなら、もう少し八つ橋にくるんだ言い方をしろ。俺が言いたいのはそれだけだ」
「要するに日本式の曖昧な言葉遣いを心がけよということでありますか………それは、自分の意見を率直には言わず書かずに相手に悟らせるようなやり方を私が最も不得手としているとご理解しておられる上での発言でしょうか」
「当たり前だ。お前も天保銭てんぽうせん組(※陸軍大学卒業者)と肩を並べる特別抜擢組なら、それくらいできるようになれ。じゃ、ないとこの先色々と厳しいぞ」
「それくらい理解しておるつもりです」
「米国留学中のお前から定期的に送られてくる報告書と一緒に送られてきた意見書を読ませてもらったけどなぁ………書き方が直球過ぎるんだよ。書き方が。おかげでお前からの定期報告が送られてくる頃になると、参謀本部のお偉いさんがピリピリし始めて空恐ろしいものだったさ」

 ああ、あれ・・か。と戸田が何を言っているのか心当たりあった尾坂はそっと視線を反らす。
 意見書、とは米国留学中に学業の報告書とは別で送ったあれのことだろう。自分にとっては報告書兼論文のつもりで送ったのだが、どうやら本国の者にとっては単なる意見書に見えたらしい。何てことはない、米国での生活で痛感した現在の日本が抱える脆弱性について指摘したものだ。平時であればまだギリギリ平衡を保てるだろうが、有事が起きたらあっという間に瓦解して国民に致命的な打撃を与えるであろう箇所について書いたのだが……

「俺を含めた広島幼年学校出身者や、お前が書いた新型発動機エンジンの論文を高く評価している工兵科や砲兵科の重鎮……そして何より陸軍省次長が庇っていなかったら、今頃大陸に飛ばされていたぞ。危ない橋を渡ってたって自覚しろ」
「それにつきましてはご迷惑とご心配をおかけして申し訳ありませんでした。ですが、まさかそのような文句を仰るためだけにわざわざ広島まで来たわけではないでしょう」
「お前なぁ………」

 はあ、と溜め息。昔は──今も十分可愛いが──もっと素直で可愛げがあった弟分が、ちょっと見ない内にすっかりグレてしまった所を見てしまった戸田は脳裏に工兵第五聯隊の聯隊長の姿を思い浮かべてそっと同情の念を寄せる。

奥池おくいけさん、えらい苦労してるんだろうな……)

 彼ら工兵第五聯隊の聯隊長である奥池俊雄としお工兵中佐はその昔、広島幼年学校で生徒監を務めていたために広幼出身の二人とは以前からの顔見知りだった。それに尾坂が工兵科を強く志望していると知れ渡った際に、戸田を含めた多くの陸軍関係者が「考え直せ」と口煩く言う中で唯一奥池だけが手を叩いて大歓迎したくらい、奥池は尾坂の事がお気に入りだったのだ。今の彼は、例えるなら「信じて送り出した清純派の可愛い部下兼かつての教え子が……」の状態だろう。

「……これ、まだ確定した訳じゃないから内密にしておいてほしいんだけどな…………今年の十二月を目処に、お前の事を東京に呼び戻そうって動きが出てきたんだよ」
「……………はい?」

 思っても見なかった事を言われ、尾坂がきょとんと目を瞬かせた。普段、一目で切れ者と判る風貌をしているのに、こういう時だけ酷く幼い。そういうふとした瞬間に見せる隙というものがまた良いのだが。それについては空気を読んで触れてやらず、戸田は続けた。

「お前の親父さん……九条院くじょういん侯爵の方な。あの人は若い頃から欧州社会のあっちこっちで人脈を作っていたらしくてな。前に駐英大使になったときにお前の顔を英国で売りまくっていたみたいなんだ。欧州出張で一番驚いたのがそれだ。英国で貴族階級の軍人に会うたびに、彼らが必ずと言って良いほど思い出したように話題のひとつに出すのが『マーキス・クジョウインの寵児』のこと。つまりお前のことな」
「………ああ、そういえば。私にとっては迷惑極まりない話ですが、そのようなこともありましたね」
「お前な……あんまり自分の親父さんのこと悪く言うなよ。まあそれは横に置いとくとしてだ……」
「英国の貴族社会で侯爵はたいへんな人気のようですね。私にとってはあの男のどこが良いのか解りかねますが………それで、参本(※参謀本部)は私が侯爵からその人脈を引き継いでいるとでも思ってもおられるのでしょうか」
「そりゃなぁ!! あれだけ何度も何度も『マーキス・クジョウインの寵児』の話を耳にタコができるくらいに聞かされたら、誰だってそう思うだろ!」

 その時の事を思い出したのか、うんざりしたような半目で戸田は言い放った。
 欧州出張中に訪れた英国で、貴族階級の英国人に会うたび会うたび遅くとも最後には「ウメツグが溺愛している放蕩息子が陸軍にいたのなら、君と面識があるのでは」と聞かれたこっちの身にもなってほしい。と、これはある意味理不尽とも言える八つ当たりのようだ。

「つまるところ、少なくとも参謀本部にとっては私は利用価値があると認められた訳でありますか……侯爵の存在が前提であるというところが非常に不本意ではありますが」
「上層部の腹の内なんて判らんがそれもあるかもな。加えて、今後は海外事情に詳しい者が必要になるやもしれんから米国留学経験者のお前を手元に置いておきたいって言うのが上層部の弁なんだが……………」
「その言い方、何か裏があると?」
「────派手にやりすぎたな」
「…………」

 何が、だなんて考えるまでもない。派手に、その一言目ですべてを悟った。だが一応はかまととぶってシラを切っておく。

「はあ……何が、でありますか」
「海軍呉鎮守府第五戦隊所属、重巡「古鷹ふるたか」砲術科第一分隊分隊長の瀧本たきもと零士れいじ大尉」
「………」

 やはりそうか、と溜め息を吐きつつ……ついに来たかと、唇をぎゅっと引き結んだ。

「……黙るって事は覚えがあるんだな」
「さあ、どなたでしょう」
「惚けるな。お前の“喧嘩相手・・・・”じゃないか」
「そのような名の海軍士官に覚えはありません」
「言っただろ、派手にやりすぎたなって…………お前が瀧本大尉と派手な喧嘩を繰り返しているって話が、中央の耳に入ったってことだよ」

 舌打ちをしそうになったのを堪えて座っていたソファからおもむろに立ち上がる。靴底が床を叩く度にコツコツと音が鳴った。窓辺近くの壁を背にして腕を組み、皮肉げに口の端を吊り上げながら薄ら笑いを浮かべる。と、戸田はその精悍な顔をたちまちしかめてガタッと立ち上がった。
 侍とはこうあるべし、というのを体現したような男が戸田 誠治という男だろう。事実、彼の生家は高知にある武士の家系の傍流だ。爵位は拝命されなかったようだが。

(やっぱり…………改めて見ると、似ている……)

 参謀本部附将校として海外を飛び回るためか、それとも切りに行っている暇が無いのか、戸田の髪は丸刈りが基本の陸軍では珍しく長めだ。別に尾坂のように櫛が通るくらいに長いという訳ではないが、それでも丸刈りだらけの場所では目立つと思うくらいには長い。それに武骨で精悍な顔立ち。意思の強い鋭い目にスッと通った鼻筋。太めの眉に引き締まった口元。
 かつて陸幼に通っていた頃、つまり戸田と尾坂に肉体関係があった頃の姿を残しつつも大人の男の色香を備えている。

 そう、今も当時と変わらず──その面影に、どこか“あの男・・・”を感じさせられて調子を狂わされた。

「ああ、まったく……口の軽い者もいたようですね。いったいどこの誰なのやら……少なくとも我が工兵第五聯隊の者では無さそうですね。お互いを庇い合うことで有名な工兵科の者が、身内を売るようなマネをするはずがありませんから。ということは、密告者は近所にいる歩兵聯隊かその他の大隊の者か、はたまた我々を何度も捕まえ損ねてとうとう業を煮やした憲兵の誰かか……いずれにしても、私の事をあまり良く思っていない者でしょう。ああ、それとも………情報提供者は海軍の者ですか? なにせあの男は海軍内で広く慕われ、上官からも特に目をかけられて可愛がられていますから。出世頭であるあの男の将来を憂いてお節介をかける者も中にはいるでしょうね」
「………お前がここまで饒舌になるってことは、つまり……本当のこと、だったんだな」

 ハッとなって戸田を見ると、彼は底冷えするような暗い光をその目に宿してこちらをじっと見ていた。その目は、獲物に飛びかかる前の猛禽類のそれに似ている。

「っ………!」

 今度こそ、舌打ちをしそうになった。だがギリギリで堪えて、ぎゅっと唇を噛むだけに留める。

(しまった………鎌掛けだったか)

 軽率だった。相手は参謀本部勤務の天保銭組、つまり情報収集や作戦立案に関する玄人なのだ。その可能性を考慮すべきだったのに、つい苛立ちが勝って口を滑らせてしまった。普段の尾坂ならありえないようなミスだ。迂闊にも程がある。あの言葉も態度も、すべては尾坂に口を割らせるためのハッタリだったことに気付けなかったなんて。

「……それが、どうしたというのでしょうか」
「なぜだ………大尉! 士官学校、砲工学校と首席で卒業して特別抜擢組にまでなった貴公ともあろうものが、たった一度の挫折でここまでの自暴自棄を起こすなど………」
「───挫折だったら、今まで何度も味わいました!!! 何度も何度も………ッ自分ではどうしようもできないような理由で!!!」

 たった一度の挫折。その言葉に、反射的に叫んだ。挫折なんてもの、今の今まで、何度も何度も経験してきたと。
 誰もが尾坂のことを努力知らずの天才肌だと思っているようだが、それは正確ではない。確かに記憶力は良い方で、耳で聞いたことや目で見たことは頭にスルスル入ってくることは事実だ。
 だが、それ以上に──それ以上に、それらを理解して噛み砕き、自分の血肉にするための努力を惜しまなかった。その努力が実った末に、尾坂は特別抜擢組という一握りの俊英エリートにしか与えられない名誉を手に入れたのだ。
 努力も、研鑽も。その全ては陸軍に対して自分がまだ利用価値があるということを訴え掛けるためのもの。そう、まるでまだ首輪に繋いでおいてくれ、と手を伸ばして飼い主に腹を見せながら必死になって尻尾を振る犬のように。
 なぜならそうしないと……あの家に、侯爵が用意している鳥籠の中に戻されてしまうから………

 それでも認めてもらえないことなどいくらでもあった。報われないことなど数えきれないくらいあった。

───その大半は、瞳の色が“普通じゃない”なんていう、自分ではどうしようもできないような理由によるものだった。

「だがそれでも、この程度で動じるなどお前らしくもない!! いったい何があったんだ? なにか退っ引きならない訳でもあるんだろ? 頼む、答えてくれ!!」
「貴方には関係の無いことです!! この答えに納得ができないというのなら、私の事を軍法会議にでもなんでも掛ければよろしいでしょう……!」
「仙!」

 戸田が切羽詰まったように叫んだ。板張りの古い床を蹴る勢いで足音も荒く大股で近付き、壁を背に直立していた尾坂の顔の横にバンッと手を付く。資料を入れてある観音開きの棚がすぐ横にあったため、戸田の大柄な体躯が目の前にあるこの状態では逃げるに逃げられない。
 必然的に二人の間に距離は無くなり、相手の心臓の音まで聞き取れるほどの緊張が訪れた。
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