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なんでもない日
(1)ある夏の日、布袋葵と①
しおりを挟む「────いや、どう考えてもおかしいだろ」
ドン、と腕を組んでふんぞり返りながら、重巡「古鷹」機関科所属の大尉が言い放った。
「……何が?」
「そんなモン、決まっているだろ。瀧本の事だよ」
貴重な休憩の時間に何を言い出すんだと、向かいに座っていた同階級の兵科士官が胡乱そうな目を向ける
「大川内さんや。あんた、うちの出世頭の何がおかしいって言うんだい?」
「だってよぉ……この前、あいつとバスですれ違ったんだけどよぉ………あいつの肩と背中にどー考えても誰かとPOSって来たとしか思えねぇ噛み傷と引っ掻き傷があったんだよ」
「ほーん……それで?」
「いや、だっておかしいと思わないか? 呉にいるエスに聞いてもだーれも瀧本のこと知らねぇって言うのに、なんであいつにそんな傷があるんだよ」
「そんなの、エンゲとでも会ってき……そう言ゃあいつ、こないだもルッキングの話を断ってたな」
「だろ?」
自分が投げた話に相手が乗ってくれたのが嬉しかったらしい。機関科の大尉こと大川内 衛がずずいっと身を乗り出して、向かいにいた水雷屋の神田 彰通に熱く語り始める。
「俺が調べた限りなんだが……ここいらのエスに片っ端から当たっても誰も瀧本を見たことねぇって言うんだ。横須賀じゃあ上陸したら毎晩のようにレスに行っては毎回毎回身が持たないんじゃないかってくらいMっていたあいつが、呉に来た途端にエスプレイをパッタリ止めたってとこがまたな……こんなの絶対におかしいだろ」
「確かに……」
「それで考えてみたんだよ。あいつがおかしくなったのはいつ頃からかって」
「へぇ、それで」
「覚えているか? 呉に異動してすぐの初上陸の日に、俺と貴様がラウンド(※呉の料亭「徳田」)近くを通りかかった時のことを……」
「ああ、あれな。例の出戻り坊っちゃんとの記念すべき初対面の日」
第五戦隊が呉に移籍した昨年の十二月のことを思い出しながら、神田がしんみりとした表情をする。
この二人、何を隠そうなんと「古鷹」ワードルームで一番最初に件の陸軍将校に遭遇した二人組なのだ。
「あのときゃ、本当にびっくりしたよなぁ。何も知らずに黙って見てりゃ、男装の麗人もかくやっていう美人だもん。おまけに実家が侯爵家なんだって後から知って本当に訳が判らんくなったよ。あの坊っちゃんはなんでまた陸軍の、それも工兵科なんぞに行ったんだろうな。歩兵か騎兵か、せめて砲兵にでも行ってりゃ今頃東京で良いポストに就けていただろうに」
「どーせ陸士の時にいらんこと言って総スカンでもくらったんだろ。雉も鳴かずば撃たれまい、ってな。なにせあのボンボン、米国留学してきたことを傘に着て調子に乗ってお上にいらんこと言ったせいでこっちに飛ばされたって話だし」
「あれ? 出戻りになった原因って女関係じゃなかったか?」
「さあ……知らんよ」
「それでも侯爵の息子……いや、今は陸軍次長の養子か。まあどっちでもいいけどそんな家柄の奴を輜重兵なんぞに入れたら後が怖いとか思ったんだろうなぁ、陸軍のお偉いさん方。それで妥協案として工兵に入れたとか」
士官学校を卒業した将校が配属される、れっきとした陸軍の兵科のひとつであるのに兵站を専門としているが故なのか輜重兵が冷遇されているのは有名な話だ。中枢に入れたくない、だから主要な兵科に配属させるわけにはいかないが輜重兵はさすがにマズイ。それなら輜重兵と同じく後方支援専門であり、華々しさとは遠く離れた地味で目立たない工兵科が最適解だろう。という陸軍側の思惑が透けて見えるようだった。
「だろうなぁ。それが一番納得………おい、そんな話をしてるんじゃねえ。重要なのは、瀧本がおかしくなったのは俺達があいつに出戻りボンボンの事を話した後からだってことだよ」
「!」
それまで億劫そうに会話をしていた神田が急にハッとなって、世界の真理に気付いたような表情をしながら大川内の方を向き直る。
「そ、そういやそうだった……瀧本があれだけ熱中していたエスプレイをパッタリ止めたのって、その辺りが境目だよな」
「ああ。ちなみにこれは鎮守府にいる知り合いから聞いた話なんだがな…………そいつ、俺達がその話をした日の夜、瀧本があの坊っちゃんと連れ立ってどこかに行くのを見たって言うんだよ」
「お、おいおいおい……こいつぁキナ臭くなってきたじゃねえかよ………ええ?」
いよいよ面白くなってきた、とばかりに神田がごくりと息を飲んだ。その表情は強張っており、艦内帽を被っているこめかみにもじっとり冷や汗が伝っている。
「さらにそいつから聞いた話なんだがな……あくまで噂話だから真相は判らん。だが火の無いところに煙は立たんってな。あの坊っちゃんが“恩賜組”なのに出世コースから外されて原隊に出戻りになった原因も問題だったって話だ」
「え、なんだって? あの坊っちゃん、女関係でやらかしたからほとぼりを冷ますために出戻りになったんじゃねえの?」
「そう言われているが違うらしい。あの坊っちゃんが出戻りになった本当の原因、それはな………」
「そ……それは………?」
「───男だ」
男、と神田が口の中で復唱した。
「………男ォ!?」
「シッ! 声がデカイ!!」
仰天した神田の絶叫にぎょっとした大川内が大慌てで掌を使って相手の口を塞ぐ。そのまま周囲をキョロキョロと見回して誰にも聞かれていないか確認したが、幸いにも士官室には現在この二人しかいなかった。
ホッとして大川内が手を離すと、ようやく解放された神田がゼェゼェと息を切らしながら目を見開く。
「男、男って………ど、どっちなんだ……どっち役なんだ………?」
「バカヤロウ、あのご面相なんだ。年長者の稚児どんになるのが自然だろう。どうやらあのボンボン、米国留学中に現地の情報局員だか英国から派遣されていた諜報員だか知らんが、どっかから回されてきた間諜(※スパイのこと)──しかも男に一服盛られて関係を持っちまったらしい。そんで帰国直前にそれが発覚したから、養父である次長がその不祥事を揉み消すために人事局に働きかけてほとぼりが冷めるまで原隊に戻したとかなんとかってもっぱらの噂だ」
「へえ、それでそのボンボンの不祥事と瀧本と何が関係あるんだい、大川内さん」
「ここからは完全に俺の推測なんだがな………俺ぁあの大喧嘩は偽装のための物じゃないかと考えた」
「は、なんだって?」
大川内の話が核心にせまりつつあると判り、神田の表情がみる間に険しくなっていく。
「男も女もとっかえひっかえで派手に遊んでるのは、向こうで盛られた薬の後遺症が抜けずに少しでも苦痛を和らげるためにやってることなんじゃないのかって推測したんだ。それで、ここいらのは粗方食い終わったから次は海軍内に……って目を着けて瀧本に狙いを定めたんじゃないかってな」
「な、なんでまた瀧本なんだ?」
「そりゃな、あいつら府立一中出身だろ? 一中でも喧嘩する仲だったってのは有名だが……それ、単なる偽装だったんじゃないのか? ほら、あのボンボンは幼年学校に入る前まで九条院家の三男坊だっただろ。で、瀧本はサラリーマン家庭の次男坊。どうしようもねぇ身分差を越えて恋に落ちた二人は、自分達の関係を悟られねぇよう不仲を装って逢い引きを繰り返していたが……ある日その関係が九条院侯爵にバレて、坊っちゃんが養子に入る形で東京から遠く離れた広島の幼年学校に放り込まれたために、その関係は一旦強制的に終止符を打たれた……と。そして大人になったある日、偶然にも二人は再会して焼け木杭に火が着いてそのまま………」
「なんちゅう壮大な想像を膨らましとるんかね、大川内さんや。うちの出世頭である瀧本がひた隠しにしている意中のお相手兼最近ずっとハマってる床の相手がよりにもよってあの出戻りボンボンだなんて。そんなこと………うん、十分あり得るわ」
件の陸軍将校の、妙に艶っぽい赤い唇と珍しい灰色の瞳を携えた美貌を思い出しながら、神田は一度否定しようとしたことを思い直した。あのボンボンなら十分あり得るわ、と。
「だろ? つまるところ、あのボンボンはかつて関係を持ってた瀧本の事をつまみ食いするつもりでハンドパイプの限りを尽くして床に引きずりこんだんだが、逆に瀧本のアームが凄すぎた上にあいつの“砲身”も予想外にラッパラ(※「男性の象徴がとても立派」という意味の海軍隠語)だったもんですっかり夢中になっちまったんだ。で、瀧本も瀧本で燃え上がって乗り気になったと………でもな、さすがに男関係で既に不祥事を起こしていた坊っちゃんが、よりにもよって海軍の瀧本を誘ってベキられてたって話が表沙汰になったら今度こそ罷免されること(※クビになること)になるなんて火を見るより明らか。だから昔と同じように不仲を装って本当の関係を偽装したってのが俺の推理だ」
なんの偶然か、大川内のこの推測は当たらずしも遠からず……という所であった。真相はまったく違うのだが、彼らがそれを知る術など今のところ無い。
「なるほど、筋が通ってる。つまり、なんだい大川内さん。あんたはこう言いたいんだな。瀧本とあの坊っちゃんは──」
「───瀧本大尉とあのお坊ちゃんが……何です?」
唐突に、二人の間に割って入った第三者の声。
あまりにも突然過ぎる出来事だったため、大川内と神田はそろって変な声を出しつつ飛び上がった。
カツン……と妙に響く靴底の音、のっぺりとした印象の抑揚の無い声。
ギギギ…………と二人の大尉が声のした方を振り向くと、そこには「古鷹」軍医長である赤岡軍医中佐の姿が。
「ぐっ、軍医長!? 敬礼っ!」
「敬礼は結構。それより続きをどうぞ。瀧本大尉があの坊ちゃんと……何です」
真性サド野郎として多くの将兵から畏怖を集める赤岡のまさかの登場に、口から心臓が飛び出るのでは無いかというほど緊張しながら大尉二人は直立不動の体勢でカチカチに固まった。
「よもや兵科と機関科の士官、それも分隊長という責任ある立場である者が娑婆に流れる根も葉もない変な噂を信じて流言蜚語を垂れ流し、艦内の風紀を乱そうとしているつもりでは無いでしょうね」
「め、めめめめ、滅相もございません!」
「我々はただ単に同期の桜である瀧本大尉の将来を心配して……」
「神田大尉、大川内大尉」
もういい黙れ。とばかりに神田の弁明をピシャッと遮って、赤岡はにっこりと微笑んだ。そう、深淵のような闇を抱えて瞳孔をかっぴらいた目が全く笑っていない所が恐怖を誘う微笑みを……
「────雉も泣かずば撃たれまい、という諺をご存じで?」
スッ……と赤岡が取り出して来たのは……注射器。それも先端に換装してあるのは艦内……いや、海軍の軍医科が使っている中で最も太いとされる注射針だった。それを見た大尉二人の顔色が、面白いくらいに青ざめていくのを見届けて、赤岡はこてんと首を傾げる。
「ひっ………せ、赤岡中佐ァ!? それで俺たちに何をなさるんですかい!!?」
「かわいそうに。余計な噂を耳にさえしなければこんなことにはならなかったのに………さあ神田大尉、大川内大尉───腕を出しなさい。予防注射のお時間ですよ」
ぴゅ、と軽く注射器の中の空気を押し出す音。赤岡が微笑から一転、正面からではまともに見れないほど恐ろしい表情をしながら静かに命じた。
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