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昭和六年広島
(23)善界草②─追想、昭和五年東京府─
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それは昨年の六月のこと。尾坂は三年ぶりに米国から帰国して、横須賀の港に降り立ったその足で報告とその他の手続きを済ませるために陸軍省に向かっていた。そこで次は原隊で中隊長だという辞令を受け取り、その日は養父への報告も兼ねて東京郊外にある尾坂中将の邸宅に泊まる予定だったため陸軍省を出てから真っ直ぐそちらに向かったのを覚えている。
新しく制定された軍服を仕立てるなどの所用もあってか休暇を与えられ、東京にしばらく滞在してから次の赴任先に向かうことになっていた尾坂は、それほど急ぐこともなく夕焼けに染まる帝都を歩いていた。
行李を手に、帽子を目深に被って歩く。その時はまだ少尉任官時に仕立てた改四五式の軍服で、なんの遊びも無い地味さだけを追求して仕立てたものを着ていた。同期達が自由主義的な時代の流れに合わせて洒落た格好を競い会う中であっても、尾坂はなるべく自分の身体的特徴が目立たないように注文を付けて仕立てていたのだ。個を殺して全体に溶け込みたい、という心理も働いたのだろう。少尉時代の尾坂は時代の流れに逆らうように地味で垢抜けない野暮ったさを求めて大人しい格好をしていた。ついでに今は長い髪も他の陸軍将校と同じように丸刈りにしていたのだ。
そのせいで同期だけでなく上官や軍服を仕立てたテーラーにまで「せっかく素材が良いのにもったいない」と散々言われたが知ったことではない。
その時の尾坂にとって重要だったのは、自分がいかに目立たずに周りに溶け込めるかどうかだったのだ。なぜなら尾坂が少尉の時は──今も残ってはいるが──自由主義的・民主主義的な風潮や軍縮も相まって軍人はとにかく肩身が狭かった。その上で暗く灰色かかった青い瞳なんていう、まず日本じゃ滅多にお目にかかれない珍しい色の瞳だ。何かにつけては槍玉に上げられることが多かった。ただし“ショーネン”として鳴らしていた陸軍内では多少はマシだったが、問題は外での話だ。表通りを歩いているときはすれ違い様の罵倒で済んだが、もしも人気の無い場所に一人で行ったらどんな目に合っていたかと考えるとゾッとする。陸幼陸士時代も原隊附将校時代も、そして砲工学校時代も外に出る時は同期や上官達に紛れて行動するのが一番安全だった。
尾坂が自衛の意味も込めて地味で野暮ったい格好をするのは当然の成り行きだ。
白い羊の中に紛れ込んだ黒い羊。黒曜石のような黒い瞳の中でこれでもかと浮いてしまう瑠璃細工のような灰色の瞳。そんな自分を隠して群れの中に入れてもらえるように……
少尉時代は丸刈りにしていた髪を伸ばした切っ掛けは、留学先で目立たないようにするためだった。海外で丸刈りは悪目立ちしてしまう。久し振りに伸ばした髪は、幼かったあの頃を嫌でも思い出して辛かった。帰国した今、もう髪を伸ばしている必要はない。早々床屋で切ってしまおうとぼんやり考えながら、足早に養父の邸宅に向かおうとしていた、その時だった。
通りの反対側の歩道に、数名の海軍士官の姿が見えたのだ。
陸軍とは違って海軍は士官は詰襟、兵はセーラーで軍服の形が大きく違うため分かりやすい。梅雨の時期であるためか、泥はね対策で下は紺色の第一種軍装、上は白色の第二種軍装だったが、これはこれでキリッとした凛々しい出で立ちだ。婦人方にモテるのも納得がいく。しかも彼らは陸軍とは違って特に軍服に細かい注文を付けずとも自然なスマートさが出せるのだから。なぜ同じ国の軍隊でもこれほど対照的なのかというのは度々話題に上がる。現にこの時も通り掛かった女学生達が陸軍と海軍の軍服を着た男たちを見比べて、野暮天ばかりの陸軍の中でも輪をかけて野暮ったさを押し出している尾坂を憐れみと嘲笑がまざった表情で一瞥した後で、向こう側の海軍士官の団体に頬を染めて黄色い声を上げていた。あからさまな態度を取られてきゅっと唇を噛む。
方や何もせずともスマートかつ垢抜けた格好で町を颯爽と歩く海軍士官達と、方や必死になって野暮ったさを押し出して軍帽を目深に被らないと外を安全に歩くこともできない自分。
羨ましい、と思った。別に陸軍を選んだことに後悔は無いし、海軍に憧れている訳でもないが。ただ何の努力もしないで集団に溶け込めて、なおかつ多少の個を出してもジロジロと好奇の目で見られない同期達や彼らのようになりたい、と思ったことが一度や二度じゃ数えられないほどあるだけ。自分では決して手に入らないものを持っている彼らが羨ましかったのだ。
これ以上同じ空間にいるのが辛くなって、彼らに目を付けられない内に足早にその場を去ろうとして………
「なんだ、今度は戦艦勤務なのか。しかも「長門」だと! そうかそうか、貴様は俺達同期の中でも出世頭だから当然だな。まあ気を引き締めていけよ───瀧本!」
その海軍士官たちの会話の中で飛び出した名前に雷に打たれたような衝撃を受けて思わず立ち止まった。
瀧本。
その名字を聞いた瞬間、頭の中に隠してあったかつての喧嘩相手の記憶が一気に鮮明な記憶となって駆け抜けていく。
反射的に車道を挟んで向こう側を歩く海軍士官達の方をバッと振り返った。
幼年学校時代からまったく衰えてない視力なら、そこそこ距離があっても相手の顔くらい認識できる。他の士官より頭ひとつ分抜き出て背の高い男の顔を見て息を呑んだ。
瀧本零士。
記憶の中にある彼よりずっとずっと大人びていて、苦み走った男の色気に満ち溢れた活動写真の俳優顔負けの男前に成長していたが、見間違えるはずがない。
その名を呼びそうになって、だが声に出せずに唇の動きだけになる。あの雪の日に別れてしまってからの出来事が頭の中を高速で過っていき、様々な感情が溢れかえって涙が漏れそうになって咄嗟に手袋を噛んで耐える。
──今すぐにでも彼にかけよって、あの日のようにその腕にすがり付きたかった。たとえ伸ばした手を払い除けられたとしても。
無意識の内に足がそっちに向きかけた───瞬間。
「そうだな、このまま次は海大だ。行けるとこまで行って、末は戦艦の艦長か。あわよくば連合艦隊の参謀長……いや、司令長官も狙ってやろう」
「いずれにしたって出世コースだな。その時は是非とも俺が副長を務めてみたいよ。いや、貴様は上に立つ才能があるからな。はははっ!!」
ひゅっ、と喉から妙な音が出た。帽子の下で整えていた髪が、ざんばらになって目元を覆う。
「今度ルッキングもするんだろ? 赤レンガ勤めのお偉いさんのコーペル。中々の美人で、しかもハートナイスって噂だぜ」
「ん……まあな。とりあえず会うだけあってみようって思ってるよ」
「そのままマリれば貴様もついにチョンガー卒業かァ」
「俺も良い歳だからなぁ。そろそろかあちゃん貰って家庭を構えなきゃならんだろ」
「そりゃそうだ。わっはっは!」
その会話を耳にした瞬間───心のどこかで何か、張り詰めていた糸がプツンと切れるような音がした。
振り返ったままの姿勢で石像のように固まって、そして息すらできないままで海軍士官の一団を見送る。その時、こめかみを伝った冷や汗の感覚を嫌に生々しく覚えていた。
どうやら海軍士官達の方は尾坂の方を認識してはいたが“野暮天”の陸助なんぞ眼中にも無いとばかりに綺麗に無視しているようだ。角を曲がってその姿が見えなくなるまで大きく目を見開いたまま、口許を押さえて固まる他無かった。
「………」
ふ、と夕日が鉄筋コンクリート性の建物の影に隠れて地平線の向こうに消えていき、辺りが薄暗くなる。肌に襲いかかる梅雨の蒸し暑い気候によるものだけではない嫌な汗が、襦袢を肌に張り付けて酷く不快だった。
ようやく硬直が解けたのは、道端に設置されていたガス燈の灯りが着いて往来に帰宅をする人々が増えてにわかにざわめき始めた頃。
行李の取っ手を手が小刻みに震えるほど強く握り締め、叫びたくなるのを必死に堪える。
心の内にある“聖域”がじわじわと黒い何かに侵蝕されていく感覚に気付き、尾坂は奥歯をギリ……と強く噛んだ。
黒く、澱んだ──それでいてこの身を焼き尽くすほど熱く、手足を凍えさせるほど冷たい感情が。腹の中をぐちゃぐちゃに潰しながら急速に育っていく。
産まれて初めて、だった。こんな胸を焦がすような思いをしたのは。
訳もわからないままゴミンに純潔を捧げた時も、一期上の先輩たちに集団で犯された時も、原隊にいたときに中隊長や大隊長達に毎晩のように寝台に引きずりこまれていた時も。こんな感情が湧いた事など一度たりとも無かったのに。
─────憎い
身体を戦慄かせて、震える唇が音の無い言葉を漏らす。
ああ、そうか。これが憎悪というものか。
自覚をすれば早かった。自分の中に産まれたばかりの感情の手綱を握り、押さえ込みながら踵を返してその場を去る。暴れ馬のように荒れ狂う心の内を悟られぬように軍帽を目深に被り、人混みの隙をスルスルと縫いながら一路養父の家へと向かった。
─────憎い、憎い……! あの男が憎い!
腹の中で燃える熱を吐き出すかのように肺の中の空気を追い出して、尾坂は軍服の上から心臓の辺りをぎゅっと掴む。
検討違いの怒りでしかないことくらい判っている。
ただの理不尽な逆恨みでしかないことくらい知っている。
初めての感覚に戸惑いを覚えつつも、この身でさえも高温で融かし蒸発させてしまいそうなほどの熱量を誇る激情に全てを支配された。
────私は、この十五年間!! お前の事を片時も忘れずに!! どんな汚濁の中であってもお前のことだけを心の拠り所として生きてきたのに!! お前は私の事などまるで存在していなかったように綺麗さっぱり忘れて生きてきたのか!!? ふざけるな!!
許せなかった。許せるはずなどなかった!
自分の事を綺麗さっぱり忘れて、輝かしい未来を生きるあの男が憎くて憎くてたまらなかった!あの男のせいで!自分はこんなにも苦しんだのに!!!
身勝手極まりない感情なんだってことくらい自分が一番よく判っている。だが自身の自制心さえ吹き飛ぶほどの激しい怒りで気が狂いそうになった。
カツン、と堅い軍靴の底が石畳とぶつかって軽い音を奏でる。
その時の自分の顔はきっと、酷く歪に──嗤っていたのだろう。
***
新しく制定された軍服を仕立てるなどの所用もあってか休暇を与えられ、東京にしばらく滞在してから次の赴任先に向かうことになっていた尾坂は、それほど急ぐこともなく夕焼けに染まる帝都を歩いていた。
行李を手に、帽子を目深に被って歩く。その時はまだ少尉任官時に仕立てた改四五式の軍服で、なんの遊びも無い地味さだけを追求して仕立てたものを着ていた。同期達が自由主義的な時代の流れに合わせて洒落た格好を競い会う中であっても、尾坂はなるべく自分の身体的特徴が目立たないように注文を付けて仕立てていたのだ。個を殺して全体に溶け込みたい、という心理も働いたのだろう。少尉時代の尾坂は時代の流れに逆らうように地味で垢抜けない野暮ったさを求めて大人しい格好をしていた。ついでに今は長い髪も他の陸軍将校と同じように丸刈りにしていたのだ。
そのせいで同期だけでなく上官や軍服を仕立てたテーラーにまで「せっかく素材が良いのにもったいない」と散々言われたが知ったことではない。
その時の尾坂にとって重要だったのは、自分がいかに目立たずに周りに溶け込めるかどうかだったのだ。なぜなら尾坂が少尉の時は──今も残ってはいるが──自由主義的・民主主義的な風潮や軍縮も相まって軍人はとにかく肩身が狭かった。その上で暗く灰色かかった青い瞳なんていう、まず日本じゃ滅多にお目にかかれない珍しい色の瞳だ。何かにつけては槍玉に上げられることが多かった。ただし“ショーネン”として鳴らしていた陸軍内では多少はマシだったが、問題は外での話だ。表通りを歩いているときはすれ違い様の罵倒で済んだが、もしも人気の無い場所に一人で行ったらどんな目に合っていたかと考えるとゾッとする。陸幼陸士時代も原隊附将校時代も、そして砲工学校時代も外に出る時は同期や上官達に紛れて行動するのが一番安全だった。
尾坂が自衛の意味も込めて地味で野暮ったい格好をするのは当然の成り行きだ。
白い羊の中に紛れ込んだ黒い羊。黒曜石のような黒い瞳の中でこれでもかと浮いてしまう瑠璃細工のような灰色の瞳。そんな自分を隠して群れの中に入れてもらえるように……
少尉時代は丸刈りにしていた髪を伸ばした切っ掛けは、留学先で目立たないようにするためだった。海外で丸刈りは悪目立ちしてしまう。久し振りに伸ばした髪は、幼かったあの頃を嫌でも思い出して辛かった。帰国した今、もう髪を伸ばしている必要はない。早々床屋で切ってしまおうとぼんやり考えながら、足早に養父の邸宅に向かおうとしていた、その時だった。
通りの反対側の歩道に、数名の海軍士官の姿が見えたのだ。
陸軍とは違って海軍は士官は詰襟、兵はセーラーで軍服の形が大きく違うため分かりやすい。梅雨の時期であるためか、泥はね対策で下は紺色の第一種軍装、上は白色の第二種軍装だったが、これはこれでキリッとした凛々しい出で立ちだ。婦人方にモテるのも納得がいく。しかも彼らは陸軍とは違って特に軍服に細かい注文を付けずとも自然なスマートさが出せるのだから。なぜ同じ国の軍隊でもこれほど対照的なのかというのは度々話題に上がる。現にこの時も通り掛かった女学生達が陸軍と海軍の軍服を着た男たちを見比べて、野暮天ばかりの陸軍の中でも輪をかけて野暮ったさを押し出している尾坂を憐れみと嘲笑がまざった表情で一瞥した後で、向こう側の海軍士官の団体に頬を染めて黄色い声を上げていた。あからさまな態度を取られてきゅっと唇を噛む。
方や何もせずともスマートかつ垢抜けた格好で町を颯爽と歩く海軍士官達と、方や必死になって野暮ったさを押し出して軍帽を目深に被らないと外を安全に歩くこともできない自分。
羨ましい、と思った。別に陸軍を選んだことに後悔は無いし、海軍に憧れている訳でもないが。ただ何の努力もしないで集団に溶け込めて、なおかつ多少の個を出してもジロジロと好奇の目で見られない同期達や彼らのようになりたい、と思ったことが一度や二度じゃ数えられないほどあるだけ。自分では決して手に入らないものを持っている彼らが羨ましかったのだ。
これ以上同じ空間にいるのが辛くなって、彼らに目を付けられない内に足早にその場を去ろうとして………
「なんだ、今度は戦艦勤務なのか。しかも「長門」だと! そうかそうか、貴様は俺達同期の中でも出世頭だから当然だな。まあ気を引き締めていけよ───瀧本!」
その海軍士官たちの会話の中で飛び出した名前に雷に打たれたような衝撃を受けて思わず立ち止まった。
瀧本。
その名字を聞いた瞬間、頭の中に隠してあったかつての喧嘩相手の記憶が一気に鮮明な記憶となって駆け抜けていく。
反射的に車道を挟んで向こう側を歩く海軍士官達の方をバッと振り返った。
幼年学校時代からまったく衰えてない視力なら、そこそこ距離があっても相手の顔くらい認識できる。他の士官より頭ひとつ分抜き出て背の高い男の顔を見て息を呑んだ。
瀧本零士。
記憶の中にある彼よりずっとずっと大人びていて、苦み走った男の色気に満ち溢れた活動写真の俳優顔負けの男前に成長していたが、見間違えるはずがない。
その名を呼びそうになって、だが声に出せずに唇の動きだけになる。あの雪の日に別れてしまってからの出来事が頭の中を高速で過っていき、様々な感情が溢れかえって涙が漏れそうになって咄嗟に手袋を噛んで耐える。
──今すぐにでも彼にかけよって、あの日のようにその腕にすがり付きたかった。たとえ伸ばした手を払い除けられたとしても。
無意識の内に足がそっちに向きかけた───瞬間。
「そうだな、このまま次は海大だ。行けるとこまで行って、末は戦艦の艦長か。あわよくば連合艦隊の参謀長……いや、司令長官も狙ってやろう」
「いずれにしたって出世コースだな。その時は是非とも俺が副長を務めてみたいよ。いや、貴様は上に立つ才能があるからな。はははっ!!」
ひゅっ、と喉から妙な音が出た。帽子の下で整えていた髪が、ざんばらになって目元を覆う。
「今度ルッキングもするんだろ? 赤レンガ勤めのお偉いさんのコーペル。中々の美人で、しかもハートナイスって噂だぜ」
「ん……まあな。とりあえず会うだけあってみようって思ってるよ」
「そのままマリれば貴様もついにチョンガー卒業かァ」
「俺も良い歳だからなぁ。そろそろかあちゃん貰って家庭を構えなきゃならんだろ」
「そりゃそうだ。わっはっは!」
その会話を耳にした瞬間───心のどこかで何か、張り詰めていた糸がプツンと切れるような音がした。
振り返ったままの姿勢で石像のように固まって、そして息すらできないままで海軍士官の一団を見送る。その時、こめかみを伝った冷や汗の感覚を嫌に生々しく覚えていた。
どうやら海軍士官達の方は尾坂の方を認識してはいたが“野暮天”の陸助なんぞ眼中にも無いとばかりに綺麗に無視しているようだ。角を曲がってその姿が見えなくなるまで大きく目を見開いたまま、口許を押さえて固まる他無かった。
「………」
ふ、と夕日が鉄筋コンクリート性の建物の影に隠れて地平線の向こうに消えていき、辺りが薄暗くなる。肌に襲いかかる梅雨の蒸し暑い気候によるものだけではない嫌な汗が、襦袢を肌に張り付けて酷く不快だった。
ようやく硬直が解けたのは、道端に設置されていたガス燈の灯りが着いて往来に帰宅をする人々が増えてにわかにざわめき始めた頃。
行李の取っ手を手が小刻みに震えるほど強く握り締め、叫びたくなるのを必死に堪える。
心の内にある“聖域”がじわじわと黒い何かに侵蝕されていく感覚に気付き、尾坂は奥歯をギリ……と強く噛んだ。
黒く、澱んだ──それでいてこの身を焼き尽くすほど熱く、手足を凍えさせるほど冷たい感情が。腹の中をぐちゃぐちゃに潰しながら急速に育っていく。
産まれて初めて、だった。こんな胸を焦がすような思いをしたのは。
訳もわからないままゴミンに純潔を捧げた時も、一期上の先輩たちに集団で犯された時も、原隊にいたときに中隊長や大隊長達に毎晩のように寝台に引きずりこまれていた時も。こんな感情が湧いた事など一度たりとも無かったのに。
─────憎い
身体を戦慄かせて、震える唇が音の無い言葉を漏らす。
ああ、そうか。これが憎悪というものか。
自覚をすれば早かった。自分の中に産まれたばかりの感情の手綱を握り、押さえ込みながら踵を返してその場を去る。暴れ馬のように荒れ狂う心の内を悟られぬように軍帽を目深に被り、人混みの隙をスルスルと縫いながら一路養父の家へと向かった。
─────憎い、憎い……! あの男が憎い!
腹の中で燃える熱を吐き出すかのように肺の中の空気を追い出して、尾坂は軍服の上から心臓の辺りをぎゅっと掴む。
検討違いの怒りでしかないことくらい判っている。
ただの理不尽な逆恨みでしかないことくらい知っている。
初めての感覚に戸惑いを覚えつつも、この身でさえも高温で融かし蒸発させてしまいそうなほどの熱量を誇る激情に全てを支配された。
────私は、この十五年間!! お前の事を片時も忘れずに!! どんな汚濁の中であってもお前のことだけを心の拠り所として生きてきたのに!! お前は私の事などまるで存在していなかったように綺麗さっぱり忘れて生きてきたのか!!? ふざけるな!!
許せなかった。許せるはずなどなかった!
自分の事を綺麗さっぱり忘れて、輝かしい未来を生きるあの男が憎くて憎くてたまらなかった!あの男のせいで!自分はこんなにも苦しんだのに!!!
身勝手極まりない感情なんだってことくらい自分が一番よく判っている。だが自身の自制心さえ吹き飛ぶほどの激しい怒りで気が狂いそうになった。
カツン、と堅い軍靴の底が石畳とぶつかって軽い音を奏でる。
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