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昭和六年広島
(22)善界草①
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チュン、チュン。と雀の声が遠くから聞こえてきた。
その雀の鳴き声の後ろで、八月も終わるとは言えまだまだ元気な蝉の鳴き声が伴奏を添えている。
「………」
朝日の眩しい光がまぶたを刺激して意識が浮上してきた。尾坂がむく、と起き上がると台所に立つ男の姿が目に入ってぼんやり目を瞬かせる。
「……………おはよう」
「おう」
海軍の夏服である二種軍装の白い軍袴と白いランニングだけを身に付けた後ろ姿。寝起きで録に回らない頭で挨拶をしておくと、なんともそっけない返事が。
「顔洗って服を着てこい」
「ああ」
昨夜の濃厚なやりとりは何だったんだというような淡白なやりとりをして、だるい腰に鞭打ちのろのろと布団から抜け出してくる。
体は既に清められていた。大方、先に目を覚ました瀧本が濡らした手拭いで拭いておいてくれたのだろうと検討を付けた。
今も台所に立っている瀧本に背を向けて、尾坂は枕元に置かれていた着替え一式を手に持ち全裸のまま脱衣場に向かう。
「…………」
カラカラと引き戸を開けて脱衣所の籠の中に着替えを放り込み、風呂場に足を向ける。しっとりと湿気った冷たい空気が肌を包む中、ペタリとタイル張りの壁に手を付いた。
「ん………」
そろりと長く優美な指先を後ろに伸ばし、昨夜の激しい交接で柔らかく解れたままになっていた蕾を広げていく。途端にナカで含んでいたぬるい精が内股を伝う感覚が、背骨を伝ってその痩躯を身震いさせた。
熱い吐息を漏らしたくなったのを堪え、指をくの字に曲げて散々中出しされた子種を掻き出していく。
「ぁっ……」
指先がイイ所を掠めてしまい、出しそうになった声を喉奥に呑み込み額を壁に付ける。
(あの馬鹿………どれだけ出して………)
掻き出しても掻き出しても胎の奥から白い精がひっきりなしに溢れてきてキリがない。じん、と甘い痺れが体の芯に宿りそうになったがなんとか耐えて、心の中で昨夜自分を抱いた男への悪態を吐く。
ただし心の中だけに留めて口には出さないように。何を言ったのか覚えていないが一番悪いのは彼を煽るだけ煽った自分だから。
(それにしたって出しすぎだろう! あの絶倫め!)
腹の中に籠っていた熱を吐き出すように深呼吸して、きゅうきゅう鳴き声を漏らしているように疼く種壺を意識しないようにぐっと力を込めて中に詰まった蜜を追い出す。
擬似的な排泄をしている倒錯した快楽で、頭がぼんやりと霞かかっていく。
「…………ふ、は……」
不意に笑いが漏れた。子を孕むことすらできない自分が、あの男の優秀な精を胎の奥で受け止めて歪んだ優越に浸っている、この状況に対して。
(……私は、とてつもなく卑怯な男だ)
海軍内で出世街道を邁進するあの男が、参本勤務でもない一介の聯隊附将校でしかない──しかも中央からは煙たがられている──自分一人に対してこれほどまでに心を砕いて尽くしてくれている。
この状況が、背筋が粟立つほどの快楽をもたらしてくれて──たまらない。
自己嫌悪に苛まれながらも、瀧本という男を自分の手の内で転がしているような感覚が癖になる。
(零士は……あいつはあの分だとすっかり忘れているようだがな、私は覚えている。いや……忘れてなるものか……!)
薄ら笑いを浮かべながら、ごつんと額を壁にぶつけた。
────あの男は、私と初めて言葉を交わした時に、自分が何を言ったかなんて綺麗さっぱり忘れ去っているのだろう。
加害者は自分がやったことを往々にして忘れてしまうが、やられた方はそういう訳にはいかない。被害者は加害者に対して、時に末代まで祟ってやるという勢いで恨み辛みを抱き続けるように……
(………お前が悪い。全部全部、お前が悪いんだぞ、零士)
お前さえあの時、余計なことを言わなければ、私はこんなにも苦しい思いを抱くことなんて無かった。父を───今でも純粋に、盲目的に信じることができたのに。
(なあ、零士。お前はきっと知らないのだろう。私がどれほど醜い男なのかを)
北欧の血が入った容貌と幼い頃から叩き込まれた所作の数々を「美しい」と褒められることは厭きるほどあった。しかし、どれほどそれらを磨きあげて外見は美しさを保っていても、芯の部分は腐り果てて蛆が湧いている。
一皮剥けば、呪いのような醜い執着心で将来を約束された男の足枷となり続ける、歪で中途半端な成長を遂げた化け物の姿がそこにあった。
それが自分の本当の姿だ、と自嘲するように尾坂は吐き捨てる。
(お前のせいで……私は、“完璧”では無くなってしまったんだ。そう、お前さえあんなことを言わなければ……ッ! 私は完璧なままでいられたのに……!)
ガンッ、と音を響かせ次は壁を殴った。じんとした痛みが拳に広がる。
心の内に燃え上がった突発的な怒りを発散しようとぐっと腹に力を込めた瞬間、どぽっと白濁が溢れて指先を汚す。
「…………」
しばし動きを止めた後に指を抜いて前に持っていく。掌にまでべったり着いた子種を指先でにちゃ、と混ぜてみた。
───それは遡ること十六年前の話。
中学校に入りたい、と父に言ったのは確か十二歳の誕生日のことだったと思う。あの男が「何でも叶えてやろう」と言ったからそう答えたのだ。
学習院の小学科に通っていた次兄が来年中学科に進むと世間話の中で出してきたので、中学の存在を知らなかった自分は首を傾げて「それは何か」と次兄に聞いた。中学とは学校のことだと答えた彼の、少し困ったような表情を今でも覚えている。次兄は、華族の子弟は国民の模範として高等教育を受けることが義務付けされているとも言い、通いたかったら父上に相談してみたらいいとも助言してくれた。
その頃には自分が華族、という特別な家柄の子なのだと十分承知していて、華族の役割についても理解しているつもりだった。
華族の役目。すなわち皇室の藩屏として国民の模範となること。父である侯爵はその勤めを立派に果たしている。
中学に入りたいと思ったきっかけは、そんな父を手助けするために外で社会勉強がしたい──そんな言い訳で本心を包み隠したつもりでそう思い込もうとしていたからだ。
最初侯爵は渋っていたが、父の役に立ちたい、という自分の心意気に折れたのか最終的には許可を出した。自分には甘い侯爵だったから、少しおねだりすれば簡単だった。
入学先に府立一中を選んだのは、学習院には既に長兄と次兄が入っていたから。長兄と次兄が学習院に通っているのなら、自分は学習院の外で華族の者とは違う価値観を学びたいと希望したから。
───全部、嘘だ。本当はあの籠から飛び出して、自分の事を誰も知らない外の世界を見たかったから府立一中を選んだだけだ。
そんな自分の本心から尾坂は目を反らした。なぜなら、自分が父の支配から逃れて自由を手に入れたいと思っている事を認めることは、自分の存在理由そのものを自らの手で否定してしまうことだから。
あの当時の尾坂にとって、自分の世界は父親だけだった。
自分はただ父が望む通りの完璧なお人形でいなければいけない。だって、そうでなければ自分はなんのために存在しているのか判らなくなる。人形は、人形らしく、父親に望まれた通りにしておけばいいのだ。少なくとも、あの時までの尾坂はそう思い込んでいた。
『───おい』
それが一変したのは、府立一中の入学式の後。この日、彼は自分の運命をひっくりかえした男と──瀧本零士という男との出会いを果たす。
『お前さ……』
誰もが自分に気後れして遠巻きに見る中で、その男だけが違った。何の迷いもなしに、それも不機嫌そうな表情をしながら自分の前に仁王立ちして。そして───次の瞬間、耳を疑うような台詞を吐き捨てた。
『自分のこと、世界一可哀相だとか思ってねえか?』
何を言われたのか理解できなかった。可哀相、とはどういうことなのかと。
『どうせ社会勉強だとかなんとか言って、親父に放り込まれたクチだろ。良い歳こいて親父の言いなりになってて恥ずかしくねえの?』
やめろ、と口に出すことはできなかった。これ以上言うな、と。
彼のその言葉は、自分にとっては図星以外の何物でもなかった。そう、本当は、父親の人形であることしか求められていない自分に対して疑問を抱いていたのだ。どうしようもなく逃げ出したかったのだ。でもそれに気付いてしまえば全てが壊れてしまうから……だから、やめてほしかった。
これ以上、自分が心の奥底に封印した本心を言い当てられたら、自分は──
『───手前の人生は自分だけのものだろ。選べる自由があるくせに、何もしないで流されるがまま生きてんじゃねーよ』
選べる、自由。その言葉は尾坂の脳天に雷が直撃したような衝撃をもたらした。
足元が揺らぎ、崩れ落ちそうになったのを辛うじてこらえる。その男の一言は、今までの自分が生きてきて、信じてきたもの全てを粉々に壊していった。お前はしょせん、厭きたら捨てられるだけのお人形なのだと改めて思い知らされた瞬間があったとしたらそこだろう。
───そして同時に、それは尾坂の眼前に一筋の蜘蛛の糸を垂らす一言だった。
お前は人形などではない。自分の意思で、自分の道を選んで良い。そう、お前は人間だ!
そう言ってくれたのだ、彼は。そう瀧本という男は尾坂にとって、初めて自分を人形ではなく“人間”として見て、“人間”として扱ってくれた者だった。
運命の日、数え十三になった尾坂がようやく“人間”としての自我に目覚めた日だ。
しかしそれでも、尾坂が“人間”でいられたのは、瀧本と触れあっている時だけだった。瀧本と他愛もない事で言い合いになって喧嘩になる時だけが、尾坂にとっての全てになった。
好き、だったのだ。初めて父親以外で「好き」と言える者が瀧本だった。構って貰えるのが嬉しくて、しかしそれ以上に自分の本心を言い当ててきたのが腹立たしくて。ついついキツく当たって喧嘩をしてしまったが、それでも良かった。もっとも、中学一年生のその当時は自覚さえしていなかったが。
『貴様、もしや既にこれと決めた相手でもおるのか?』
初めてそれを指摘したのは、自身の純潔を一番最初に奪った幼年学校時代のゴミンだったか。たしかに少しだけ瀧本と顔の雰囲気というか種類というか、そういうものが似ていた気がする。今でも交流が続いている彼は、当時から質実剛健を絵に書いたような男前だった。
『とぼけるなよ。貴様はいつも、俺越しに俺ではない誰かを見ているからな』
その一言で自覚したのだ。自分が中学時代の喧嘩相手に対して拙い執着心を向けているということに。
どこでどんな男に抱かれていても、いつも脳裏をちらつくのは瀧本零士という男のこと。だがそれは子供の淡い疑似恋愛の延長線のような清らかなもので、尾坂にとっては心の聖域であり拠り所のようなものだった。
目隠しをされて顔を見られないようにされた上で物影に引きずり込まれ、乱暴狼藉を働かれている最中でも。荒い縄が食い込むのが白い肌に映えるという変な理由で軍服を半脱ぎにされたまま緊縛されて、そのまま汚されるような事態になった時にも。
尾坂は行為の最中は、ただひたすら瀧本と今でも他愛の無いことで喧嘩をしているという妄想に浸かって耐え抜いてきたのだ。
どれほど手酷く犯されても翌日には何事も無かったように平然とした顔をして逆に犯人たちの方を唖然とさせていたのも、どれほど他人から身体的特徴を揶揄った屈辱的な言葉を投げ掛けられようと顔色ひとつ変えずに超然としていたのも。他人が言うように尾坂自身の精神力が並外れたものだったからではなく、そういう絡繰りがあったからだ。
ただし、尾坂は妄想の中では決して瀧本とそういった行為に及ぶことは無かった。妄想の中ではひたすら瀧本と喧嘩をするだけで、そこに爛れたオトナの関係は無い。感覚としては狐の兄弟がじゃれあっているようなものだろうか。
尾坂にとって瀧本という男はそれほどまでに汚してはならない、一線を越えてはいけない“聖域”だった。少なくとも、この時までは。
それが一変したのは、昨年の六月に米国から帰国した時のことだった。
(お前はきっと……私達が再会したのはあの日の呉だと今でも思っているのだろうな)
確かに二人がまともに言葉を交わしたのは昨年の十二月に呉にある料亭「徳田」の近くでの出来事なので、そういう意味では尾坂と瀧本の再会はあの時であろう。
しかし───瀧本は気付いていなかっただろうが、実の所それより数えて半年も前に尾坂と瀧本は東京で再会を果たしていたのだ。
その雀の鳴き声の後ろで、八月も終わるとは言えまだまだ元気な蝉の鳴き声が伴奏を添えている。
「………」
朝日の眩しい光がまぶたを刺激して意識が浮上してきた。尾坂がむく、と起き上がると台所に立つ男の姿が目に入ってぼんやり目を瞬かせる。
「……………おはよう」
「おう」
海軍の夏服である二種軍装の白い軍袴と白いランニングだけを身に付けた後ろ姿。寝起きで録に回らない頭で挨拶をしておくと、なんともそっけない返事が。
「顔洗って服を着てこい」
「ああ」
昨夜の濃厚なやりとりは何だったんだというような淡白なやりとりをして、だるい腰に鞭打ちのろのろと布団から抜け出してくる。
体は既に清められていた。大方、先に目を覚ました瀧本が濡らした手拭いで拭いておいてくれたのだろうと検討を付けた。
今も台所に立っている瀧本に背を向けて、尾坂は枕元に置かれていた着替え一式を手に持ち全裸のまま脱衣場に向かう。
「…………」
カラカラと引き戸を開けて脱衣所の籠の中に着替えを放り込み、風呂場に足を向ける。しっとりと湿気った冷たい空気が肌を包む中、ペタリとタイル張りの壁に手を付いた。
「ん………」
そろりと長く優美な指先を後ろに伸ばし、昨夜の激しい交接で柔らかく解れたままになっていた蕾を広げていく。途端にナカで含んでいたぬるい精が内股を伝う感覚が、背骨を伝ってその痩躯を身震いさせた。
熱い吐息を漏らしたくなったのを堪え、指をくの字に曲げて散々中出しされた子種を掻き出していく。
「ぁっ……」
指先がイイ所を掠めてしまい、出しそうになった声を喉奥に呑み込み額を壁に付ける。
(あの馬鹿………どれだけ出して………)
掻き出しても掻き出しても胎の奥から白い精がひっきりなしに溢れてきてキリがない。じん、と甘い痺れが体の芯に宿りそうになったがなんとか耐えて、心の中で昨夜自分を抱いた男への悪態を吐く。
ただし心の中だけに留めて口には出さないように。何を言ったのか覚えていないが一番悪いのは彼を煽るだけ煽った自分だから。
(それにしたって出しすぎだろう! あの絶倫め!)
腹の中に籠っていた熱を吐き出すように深呼吸して、きゅうきゅう鳴き声を漏らしているように疼く種壺を意識しないようにぐっと力を込めて中に詰まった蜜を追い出す。
擬似的な排泄をしている倒錯した快楽で、頭がぼんやりと霞かかっていく。
「…………ふ、は……」
不意に笑いが漏れた。子を孕むことすらできない自分が、あの男の優秀な精を胎の奥で受け止めて歪んだ優越に浸っている、この状況に対して。
(……私は、とてつもなく卑怯な男だ)
海軍内で出世街道を邁進するあの男が、参本勤務でもない一介の聯隊附将校でしかない──しかも中央からは煙たがられている──自分一人に対してこれほどまでに心を砕いて尽くしてくれている。
この状況が、背筋が粟立つほどの快楽をもたらしてくれて──たまらない。
自己嫌悪に苛まれながらも、瀧本という男を自分の手の内で転がしているような感覚が癖になる。
(零士は……あいつはあの分だとすっかり忘れているようだがな、私は覚えている。いや……忘れてなるものか……!)
薄ら笑いを浮かべながら、ごつんと額を壁にぶつけた。
────あの男は、私と初めて言葉を交わした時に、自分が何を言ったかなんて綺麗さっぱり忘れ去っているのだろう。
加害者は自分がやったことを往々にして忘れてしまうが、やられた方はそういう訳にはいかない。被害者は加害者に対して、時に末代まで祟ってやるという勢いで恨み辛みを抱き続けるように……
(………お前が悪い。全部全部、お前が悪いんだぞ、零士)
お前さえあの時、余計なことを言わなければ、私はこんなにも苦しい思いを抱くことなんて無かった。父を───今でも純粋に、盲目的に信じることができたのに。
(なあ、零士。お前はきっと知らないのだろう。私がどれほど醜い男なのかを)
北欧の血が入った容貌と幼い頃から叩き込まれた所作の数々を「美しい」と褒められることは厭きるほどあった。しかし、どれほどそれらを磨きあげて外見は美しさを保っていても、芯の部分は腐り果てて蛆が湧いている。
一皮剥けば、呪いのような醜い執着心で将来を約束された男の足枷となり続ける、歪で中途半端な成長を遂げた化け物の姿がそこにあった。
それが自分の本当の姿だ、と自嘲するように尾坂は吐き捨てる。
(お前のせいで……私は、“完璧”では無くなってしまったんだ。そう、お前さえあんなことを言わなければ……ッ! 私は完璧なままでいられたのに……!)
ガンッ、と音を響かせ次は壁を殴った。じんとした痛みが拳に広がる。
心の内に燃え上がった突発的な怒りを発散しようとぐっと腹に力を込めた瞬間、どぽっと白濁が溢れて指先を汚す。
「…………」
しばし動きを止めた後に指を抜いて前に持っていく。掌にまでべったり着いた子種を指先でにちゃ、と混ぜてみた。
───それは遡ること十六年前の話。
中学校に入りたい、と父に言ったのは確か十二歳の誕生日のことだったと思う。あの男が「何でも叶えてやろう」と言ったからそう答えたのだ。
学習院の小学科に通っていた次兄が来年中学科に進むと世間話の中で出してきたので、中学の存在を知らなかった自分は首を傾げて「それは何か」と次兄に聞いた。中学とは学校のことだと答えた彼の、少し困ったような表情を今でも覚えている。次兄は、華族の子弟は国民の模範として高等教育を受けることが義務付けされているとも言い、通いたかったら父上に相談してみたらいいとも助言してくれた。
その頃には自分が華族、という特別な家柄の子なのだと十分承知していて、華族の役割についても理解しているつもりだった。
華族の役目。すなわち皇室の藩屏として国民の模範となること。父である侯爵はその勤めを立派に果たしている。
中学に入りたいと思ったきっかけは、そんな父を手助けするために外で社会勉強がしたい──そんな言い訳で本心を包み隠したつもりでそう思い込もうとしていたからだ。
最初侯爵は渋っていたが、父の役に立ちたい、という自分の心意気に折れたのか最終的には許可を出した。自分には甘い侯爵だったから、少しおねだりすれば簡単だった。
入学先に府立一中を選んだのは、学習院には既に長兄と次兄が入っていたから。長兄と次兄が学習院に通っているのなら、自分は学習院の外で華族の者とは違う価値観を学びたいと希望したから。
───全部、嘘だ。本当はあの籠から飛び出して、自分の事を誰も知らない外の世界を見たかったから府立一中を選んだだけだ。
そんな自分の本心から尾坂は目を反らした。なぜなら、自分が父の支配から逃れて自由を手に入れたいと思っている事を認めることは、自分の存在理由そのものを自らの手で否定してしまうことだから。
あの当時の尾坂にとって、自分の世界は父親だけだった。
自分はただ父が望む通りの完璧なお人形でいなければいけない。だって、そうでなければ自分はなんのために存在しているのか判らなくなる。人形は、人形らしく、父親に望まれた通りにしておけばいいのだ。少なくとも、あの時までの尾坂はそう思い込んでいた。
『───おい』
それが一変したのは、府立一中の入学式の後。この日、彼は自分の運命をひっくりかえした男と──瀧本零士という男との出会いを果たす。
『お前さ……』
誰もが自分に気後れして遠巻きに見る中で、その男だけが違った。何の迷いもなしに、それも不機嫌そうな表情をしながら自分の前に仁王立ちして。そして───次の瞬間、耳を疑うような台詞を吐き捨てた。
『自分のこと、世界一可哀相だとか思ってねえか?』
何を言われたのか理解できなかった。可哀相、とはどういうことなのかと。
『どうせ社会勉強だとかなんとか言って、親父に放り込まれたクチだろ。良い歳こいて親父の言いなりになってて恥ずかしくねえの?』
やめろ、と口に出すことはできなかった。これ以上言うな、と。
彼のその言葉は、自分にとっては図星以外の何物でもなかった。そう、本当は、父親の人形であることしか求められていない自分に対して疑問を抱いていたのだ。どうしようもなく逃げ出したかったのだ。でもそれに気付いてしまえば全てが壊れてしまうから……だから、やめてほしかった。
これ以上、自分が心の奥底に封印した本心を言い当てられたら、自分は──
『───手前の人生は自分だけのものだろ。選べる自由があるくせに、何もしないで流されるがまま生きてんじゃねーよ』
選べる、自由。その言葉は尾坂の脳天に雷が直撃したような衝撃をもたらした。
足元が揺らぎ、崩れ落ちそうになったのを辛うじてこらえる。その男の一言は、今までの自分が生きてきて、信じてきたもの全てを粉々に壊していった。お前はしょせん、厭きたら捨てられるだけのお人形なのだと改めて思い知らされた瞬間があったとしたらそこだろう。
───そして同時に、それは尾坂の眼前に一筋の蜘蛛の糸を垂らす一言だった。
お前は人形などではない。自分の意思で、自分の道を選んで良い。そう、お前は人間だ!
そう言ってくれたのだ、彼は。そう瀧本という男は尾坂にとって、初めて自分を人形ではなく“人間”として見て、“人間”として扱ってくれた者だった。
運命の日、数え十三になった尾坂がようやく“人間”としての自我に目覚めた日だ。
しかしそれでも、尾坂が“人間”でいられたのは、瀧本と触れあっている時だけだった。瀧本と他愛もない事で言い合いになって喧嘩になる時だけが、尾坂にとっての全てになった。
好き、だったのだ。初めて父親以外で「好き」と言える者が瀧本だった。構って貰えるのが嬉しくて、しかしそれ以上に自分の本心を言い当ててきたのが腹立たしくて。ついついキツく当たって喧嘩をしてしまったが、それでも良かった。もっとも、中学一年生のその当時は自覚さえしていなかったが。
『貴様、もしや既にこれと決めた相手でもおるのか?』
初めてそれを指摘したのは、自身の純潔を一番最初に奪った幼年学校時代のゴミンだったか。たしかに少しだけ瀧本と顔の雰囲気というか種類というか、そういうものが似ていた気がする。今でも交流が続いている彼は、当時から質実剛健を絵に書いたような男前だった。
『とぼけるなよ。貴様はいつも、俺越しに俺ではない誰かを見ているからな』
その一言で自覚したのだ。自分が中学時代の喧嘩相手に対して拙い執着心を向けているということに。
どこでどんな男に抱かれていても、いつも脳裏をちらつくのは瀧本零士という男のこと。だがそれは子供の淡い疑似恋愛の延長線のような清らかなもので、尾坂にとっては心の聖域であり拠り所のようなものだった。
目隠しをされて顔を見られないようにされた上で物影に引きずり込まれ、乱暴狼藉を働かれている最中でも。荒い縄が食い込むのが白い肌に映えるという変な理由で軍服を半脱ぎにされたまま緊縛されて、そのまま汚されるような事態になった時にも。
尾坂は行為の最中は、ただひたすら瀧本と今でも他愛の無いことで喧嘩をしているという妄想に浸かって耐え抜いてきたのだ。
どれほど手酷く犯されても翌日には何事も無かったように平然とした顔をして逆に犯人たちの方を唖然とさせていたのも、どれほど他人から身体的特徴を揶揄った屈辱的な言葉を投げ掛けられようと顔色ひとつ変えずに超然としていたのも。他人が言うように尾坂自身の精神力が並外れたものだったからではなく、そういう絡繰りがあったからだ。
ただし、尾坂は妄想の中では決して瀧本とそういった行為に及ぶことは無かった。妄想の中ではひたすら瀧本と喧嘩をするだけで、そこに爛れたオトナの関係は無い。感覚としては狐の兄弟がじゃれあっているようなものだろうか。
尾坂にとって瀧本という男はそれほどまでに汚してはならない、一線を越えてはいけない“聖域”だった。少なくとも、この時までは。
それが一変したのは、昨年の六月に米国から帰国した時のことだった。
(お前はきっと……私達が再会したのはあの日の呉だと今でも思っているのだろうな)
確かに二人がまともに言葉を交わしたのは昨年の十二月に呉にある料亭「徳田」の近くでの出来事なので、そういう意味では尾坂と瀧本の再会はあの時であろう。
しかし───瀧本は気付いていなかっただろうが、実の所それより数えて半年も前に尾坂と瀧本は東京で再会を果たしていたのだ。
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