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昭和六年広島
(21)???─■■年■■─
しおりを挟む────仙……仙…………
頭の奥で聞き慣れた声が響く。優しく、そして猫の子をあやすような甘さを含んで。ただしこれは、できることならもう二度と聞きたくないと思っている男の声だ。
────もうそろそろ満足しただろう? いい加減に我が儘ばかり言っていないで、尾坂さんとの養子縁組を解消して帰ってきなさい
(お断りします、父上。なぜ私が閣下との養子縁組を解消せねばならぬのですか)
どこかで聞いたやり取りだと思って記憶を浚えば、すぐに答えが見付かった。これは数ヶ月前に聯隊長の付き添いで東京に行った際の出来事。異母妹の嵌め手にまんまとかかってしまい、嫌々顔を見せることになった実の父とその時交わした会話だ。
あの時の記録を見ているのかと思うと、この後の展開を知っているためにうんざりした気持ちになった。
────あの時、お前が初めておねだりをしてきたことが嬉しくて、ついつい甘やかしてしまったがね。流石にこれ以上、お前の外泊を引き伸ばすことはできないよ
(いいえ、父上。私はあの日、閣下の養子となってこの家を出ていく際に言ったでしょう。もうこの家に戻るつもりはないと)
侯爵の書斎に通された後でも手を後ろ手に、足を肩幅に開いて直立不動の姿勢をとる。備え付けのソファに座れと促されたが無言で拒否した。あくまでここには客人として来ていると態度で示し、私的な感情を含まず淡々と論じ続ける。ここで感情的になったら終りだと解しつつ、どうやって逃げようかと思考を巡らした。
抜かった、と気付いた時には遅かった。父が急病なので副官が休みを取って郷里の岡山に飛んで帰ったとかで、副官代理として自分が抜擢された時に気付くべきだったのに。広島を出立して東京に着くまで聯隊長の人選に疑問を感じていたのだが、自分の勘にもっと自信を持つべきだったと後悔している。
その日の公用が全て終わった後に、聯隊長が私用だとかで自分を連れていった先。そこになぜか侯爵の長女が──つまりすぐ下の異母妹がいたのだ。
侯爵周辺の人間関係は探偵に探らせて網羅していたつもりだったが、まさか異母妹経由で来るとは思ってもみなかった。どうして予想ができるか。まさか異母妹が嫁いだ伯爵家の嫡子が、聯隊長の同期の元で一時期育てられていたなんて。
いや、その可能性を考慮できなかった自分の失敗だ。と気持ちを切り換える。むしろこれで自分の情報網の脆弱性を見付けられたのだからむしろよかったと思え。
────少し目を離した隙にダンスホール通いや料亭での芸者遊びを覚えて……随分と派手に遊び回っているそうじゃないか。遠く離れた東京にまでお前の噂は届いているよ。侯爵家の三男は、メリケンかぶれの不良軍人だとか
(何か問題でも? きちんと節度は守っておりますし、私も既に成人しております。玄人相手の健全な遊びなど、問題にさえならないと思いますが)
遊び回っていることは確かだが、節度は守っている。ダンスホールで淑女を相手に踊っても、一緒に踊るだけで決して手出しはしなかった。料亭での芸者遊びは同期や上官達の付き合いだし、彼女たちは玄人。つまり仕事でやってる。
それに自分は、とうの昔に女を抱けない身体にされた。彼女たちと同衾したことなど一度たりともない。
素人の娘に手出しをした挙げ句に孕ませた上で、その事実を隠蔽したどこぞの人でなしとは違うと言外に吐き捨ててやった。
────お前も再来年で三十路になる。そろそろ腰を落ち着けてみればどうかな?
(それで貴方の元に戻れと? お断りします。私は今の生活が気に入っておりますので)
────軍人というのは不安定な職だろう。いつ予備役に編入されてもおかしくはない。そうなっても良いように、今のうちに働く場所を用意するのも手だと思うがね
(……私に爵位でも継がせるおつもりですか? 私は味噌っかすの三男ですよ。それならば貴方のご長男という、これ以上無い適役がおるでしょうに。あの方は貴方の後を継いで外交官を立派に勤めていらっしゃる。いつなんどき戦場に招集されて戦死するかも判らぬ軍人、それもどこの馬の骨かも判らぬ毛唐の娘の胎から産まれた庶子に侯爵の肩書きは荷が重すぎると思いませんか?)
皮肉げに口の端を歪めた。今の台詞は侯爵の妻から実際に言われた言葉だ。しかし侯爵はそれに気付かなかったのか、大して顔色も変えずに妙に機嫌が良いまま話し続ける。
────そんなまさか。お前に爵位を継がせる気は無いよ。お前が爵位を継いでしまったら、隠居する私の側にいさせられないじゃないか
とりあえず侯爵は自分に爵位を継がせる意思は無いらしい。ホッと一息吐く反面、続け様に言い放った台詞にギリッと歯を軋ませた。
────予備役に編入されたらいつでもおいで。私の秘書の席を用意して待っているからね
(お気遣い無く。陸軍も決して少なくない経費と時間を注ぎ込んで育てた私を早々手放すほど愚かではありませんよ。それに今の陸軍で人事の全てを掌握している方がどのような方だったのかお忘れで? 貴方にとって都合の悪い秘密を知ってらっしゃる尾坂閣下が陸軍省の次長である以上、貴方も下手に口出しはできないはずだ。たとえそれで私が万が一にも陸軍から放逐されるような事があれば、大陸に渡って馬賊にでもなります)
────ああ、こら。馬賊なんて危ないことは止めなさい。こちらでお前が望む職をいくらでも斡旋してあげるから
(父上)
────もしかして陸軍での出世を望んでいるのか? それなら、九条院の姓を再び名乗るようになった方が有利だと思うのだが。田舎者ばかりの陸軍のことだ。それだけでも上層部の見る目は変わるだろう
(私は出世には興味がありません。それに自分に与えられた職務を責任をもって全うするには、その肩書きは単なる足枷に他なりません)
はぁ、と溜め息。話をするだけ無駄だ。どうしようもできないくらいに自分勝手な男、それが自分の父だ。侯爵家存続に必要なことは何でもするが、それは仙を自分の手の届く場所に引き留めるためにやっていることだ。彼にとって仙以外の子供は、いいや仙以外の人間はどうでもいい存在なのだろう。現に今だって、自分の長男のことを“あれ”呼ばわりしたじゃないか。
(これ以上話し合っても無駄なようですね、父上。私は退席させていただきますよ)
────せっかく海外留学までしてきたというのに、田舎で燻ってばかりじゃもったいないだろう?
(ッ!?)
思ってもみなかった事を投げ掛けられ、回れ右をしそうになった足を慌てて踏ん張ってどうにか平静に見せかける。
(なぜ………どこでそれを……!?)
────帰国どころか留学の件さえも父に報せてくれないとは、酷い息子だよ
(貴方にはもう関係無いっ……!私はもう、九条院家の者では無いのだから!!)
ぎゅっと拳を固く握って吐き捨てる。頼むからもう自分に関わらないで欲しいと懇願するが、それを聞き入れるようならこの男との仲は拗れてなどない。
────やれやれ……血は水よりも濃いと言うだろう? たとえお前が尾坂家に養子に行った所で、九条院家との、私との繋がりは決して切れないのだよ。そう考えるのならばいっそ戻ってきた方が賢明だと思うのだがね。そうだろう、仙?
(嫌です………私はっ…………貴方のお人形には戻りたく無い………!)
幼少の頃を思い出して頭を抱える。
籠鳥恋雲。仙が子供らしくいられた十三歳までは、その言葉通りの時期だった。
ひとりぼっちで薄暗い家の中に押し込められ、明るい青空の下を自由に翔ぶ鳥を眺める日々。学習院で習うような勉学だけでなく茶道や社交ダンスなどのありとあらゆる教養全般、外国語や英国紳士の立ち振舞いに至るまで、外部から来た講師の手で仕上げられる。まるでお人形を手入れするように一方的に与えられ、意見を挟むことは許されない。
日常の所作やその日着る服、食事の際に口に運ぶ料理の順番さえ細かく決められた息のつまるような毎日。
……仙にとって一番恐ろしいのは、かつての自分はそれをなんの疑問も持たずに享受していたということだ。
父親が手配した一流の講師たち──時には父親直々に与えられる知識を、口を開けて上を向く燕の雛のように何でもかんでも飲み干して、次の瞬間には自分の物にしてしまっている仙の姿を見るなり全員が全員大層喜んでいた。もっとも、なぜ皆にそれほどまでに喜ばれるのかその当時の仙は何も理解できなかったが。幼い頃の仙に取ってみればそれはごく当たり前のことで、その全てをこなす事は何も特別な事ではなく普通の事だと思っていたから。
仙の世界は侯爵家の広大な敷地の片隅に建てられた離れ座敷の中だけだった。
もしもあの時、仙の住む離れ座敷に好奇心に駆られてやって来た少女と少年に出会ってなかったら、きっと今でも仙は何の疑問も抱かずに父親の人形をやっていたのだろう。そう、すぐ下の妹に当たっている少女と、それに付き合わされた双子の兄とされる少年に出会って「学校」というものの概念を教わらなかったら……
死に物狂いで巣から這い出して外の世界を知った今、仙があの離れ座敷に戻りたくなど無いと思うのは当然の事だ。
だが侯爵は残酷にも仙に戻って来なさいと言う。
仙はもう硝子の箱に飾られた人形では無く、確固たる意思を持ったひとりの人間であることに気付かずに。
────さあ、仙。良い子だからこちらに戻っておいで
(嫌だ……父上、私はっ………)
気が付いたら仙はあの部屋にいた。
旧清華家の流れを組んだ千年続く家柄が積みかさねてきた、あの重く息が詰まるような空気がのし掛かる屋敷。その敷地の片隅で今でも静かに佇んでいる、仙のために造られた西洋風の離れ座敷の二階にある寝室。
無機質な白い壁紙に囲まれて、許可無く開けることを許されない窓から漏れる陽の光は部屋の暗さを引き立たせるだけ。今になって改めて見ると、まるで綺麗な牢獄のようだ。重厚な見た目のマホガニーで造られたベッドに敷かれた、柔らかく体重を受け止めるマットレスに仙は腰を降ろしていた。
白いシーツがさざ波のように広がって、指先にゆっくりと絡み付いてくる。
(違う……私はっ………)
その時だった。
────バンッ!!
耳をつんざく大きな音が仙を引き戻す。
ハッと息を呑んで顔を上げた。ダークブラウンの扉が開いていて、その向こう側に誰かが立っている。
「ったくよォ…………なーに、やってんだぁ?お前」
黒い詰襟の、学生服を着た背の高い男。いいや、違う。あれは、黒い詰襟の学生服ではない。
海軍を表す濃紺の詰襟、桜の花が三つ付けられた金線一本の階級章。錨と桜をあしらった意匠の帽章がある軍帽。
呆れたように肩を竦め、なのに優しく微笑みながら佇むあの男は───
「あ……」
痺れを切らしたのか男はズカズカと無遠慮に部屋の中に入ってきて、石になったように動かなくなっていた仙の手を掴んで立ち上がらせた。
(ああ、そうか)
いつだってそうだ。自分は、この男にいつも立ち上がらせてもらっていたんだ。仙はようやく思い出した。自分がこの男の存在にすがり付いて、今日までなんとかやってこれたことを……
「ほらよ。帰るぞ、仙」
「あ……ああ………!」
胸のうちが一杯になって、暖かいものが溢れ返りそうになるのをぐっと堪える。
嬉しすぎて泣いてしまいそうになった。
自分の手に重ねられた潮焼けした大きな手を逃すものかとしっかり握り返し、仙は扉を潜りながら男の名を叫ぶ。
「─────零士!」
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