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昭和六年広島
(19)雛芥子①─追想、昭和五年「??」─
しおりを挟む「しみると思うが、じっとしてろよ」
風呂場から仙を引き上げてダイニングに戻ってきた零士は、洋手を広げた椅子の上に仙を座らせて傷の手当てをしていた。
仙は火傷の冷却に使用した水で体が冷えたため零士によって応急措置として、居間に置きっぱなしになっていた海軍第一種軍衣を羽織らされている。大人しく脚を投げ出しされるがままになって、零士の軍服の上着の裾をぎゅっと握りながらも微動だにしていない。
仙自身も五尺六寸ほどの長身とそれに見合った筋肉が付いた日本人にしては恵まれた体格をしているのだが、それでも零士と比べたらどうしても見劣りしてしまう。自分よりも大きな上着を肩にかけられて、解せないとばかりにぎゅっと唇を引き結んだままほの暗い目をしていた。
「…………?」
暗い、青色の瞳。その奥に潜んだ何かに気付く。それは彼にとってはあまり良くないものと言うべきか。どうも彼自身は零士がそれに気が付いていないと思っているらしいが。
(……………これ、言ってやるべきか?)
少しだけ思案する。彼が抱いたそれを指摘してやれば、どのような反応を返すか好奇心が湧いたから。
(いや……やめておこう)
たとえこの場で気付いたとしても、指摘すれば折角捕まえた獲物をみすみす逃すことになってしまう。これはこれで良い。言わない方が良いことだ。
濃紺の制服によく映える白い肌とのコントラストに欲を刺激され、滾りそうになったがぐっと堪える。
脱脂綿に染み込ませた消毒液をピンセットで摘まんで傷口にちょいちょいと付けると、痛かったのか肩がピクリと跳ねた。彼は着痩せする質なのか、案外筋肉が発達している。そのお陰で長身との均整が取れていたのだが。
「なんだよ……ちゃんと痛いじゃないか」
「冷たかっただけだ」
ぷい、と顔を反らせてしまった仙に苦笑して、ピンセットで摘まんだものを灰皿に乗せる。脱脂綿には消毒液と共に血と膿が混じったものが浸透していた。脱脂綿を変えて反対の脚の消毒を済ませる。
「なあ、ちょっと提案があるんだが」
かたん、とピンセットの端を灰皿の上に置いて語りかける。仙は胡乱な目をして零士を見た。不承不承ながら一応は話を聞く姿勢を取ったらしい。
「俺が上陸するとき、お前に喧嘩を吹っ掛ける。んで、俺はお前を殴るし蹴る。お前に定期的に痛みを与えてやる。そっちの方が、火傷より色々と都合よく言いわけできるだろう?その代わり、自分で自分を傷付けるのはもう止めろ。いいな」
「………は?」
思ってもみなかったことを言われて仙が訝しげな表情をする。定期的に痛みを与える、とはつまり「お前に定期的に会いに行く」とも言い換えられることだ。
「まあ、あれだ。平たく言うなら──陸に帰ったら、俺は必ずお前に会いに行くよってことだ」
自分は今、ちゃんと笑えているだろうか。零士は少し不安になった。しかし仙は零士を観察できるほどの余裕さえ無いのか、その言葉の裏に隠された本心には気付かなかった。だが結果としては良い方向に転がっているのだから、問題は無いだろう。
その言葉の意味を悟った仙は、しばらく薄く口を開いたまま軽く目を見開いて零士をじっと見ていたが……やがて静かに目を閉じて頭を振る。
「……ダメだ。私は陸軍将校で、しかも養父も陸軍の高官だ。陸軍と海軍の仲の悪さはお前も知っているだろう。おまけに私は帰国してから、どうにでもなれと思って好き勝手にしたおかげで、今ではすっかりメリケンかぶれの不良軍人という烙印まで押されている始末。そんな私なんぞと仲が良いとバレれば、お前の立場が悪くなるだけだ」
「あん? 上官が仲人の見合い話を何度も断った時点で、俺の印象なんざ悪くなってるに決まってんだろ」
「だが……」
「あー、もう。屁理屈こねんなバカ。次に上陸したら問答無用で喧嘩を吹っ掛けてやるから、俺の立場を悪くしたくないのなら反撃してこいって言ってるんだよ。一方的に殴るんじゃなくて喧嘩だったら、どっちもどっちでお互いが悪いってことになるだろ………昔みたいに」
傷口に薬をたっぷりと塗り付けながら茶目っ気を出してニヤリと笑ってやる。
「都合が良いことに、俺の海軍とお前の陸軍は仲が悪くて将兵同士の喧嘩なんざ日常茶飯。ついでに俺とお前は既に中学の時に殴り合いの喧嘩をする仲だったって実績まであるからな。顔を合わせる度に殴り合いの喧嘩してても不審に思われないだろ?」
「まあ……そうだが………」
「それと」
傷口にガーゼを被せて包帯を取り出す。応急手当のやり方は訓練しているので、慣れた手付きで器用にクルクルと巻いていく。
「この家で、お互いの事を名字で呼び合うのも無しだ。ここでは、お互いの柵は全部捨てろ。家の事も、軍の事もみんな忘れてただの“仙”と“零士”になろう」
できるだけ声を低く優しく響かせて、零士は仙に微笑みかけた。
「たき、もと………?」
「違うだろ、仙。ほら、俺はお前を名字じゃなくて名前で呼んだぞ。だったらお前も俺のことを“零士”って呼ぶのが筋じゃないか?」
「………なぜ……私にここまでするんだ……?」
唇がわななき、消え入りそうなほどか細い声で呟かれる。どうしてお前は自分にそんなに優しくするのか? と仙は問いかけた。
彼の人生にはいつだって理不尽な別離が付きまとっている。
可哀想、可哀想。と言われて腫れ物を触るように扱われ、誰かを少しでも信じようとした矢先に裏切られてばかりだった。だから仙は、もう何も信じられなくなっている。零士の言葉にも何か裏があるのでは、そしてその裏を知ったときに自分がまた傷付くのが恐ろしくて疑ってかかって臆病になっていた。
それを十分に心得ているからこそ、その問いに零士はこう答えてやるのだ。
「言っとくがお前のこと可哀想だなんてこれっぽっちも思っちゃいないし、これは施しでもなんでもねェよ」
「………」
「そんな面すんなって…………本当だぞ。いや、だから本当に」
「……………」
「疑り深い奴だな。お前が選んだ事だろ。現在のお前がいるのは、全部お前が自分で選んで勝ち取ったものの集大成ってだけだろ」
「……………」
「親父のお人形のまま一生を終えるなんて真っ平ごめんだって言って、死に物狂いで努力したのはどこのどいつだ? お前だろ。この国で、この国の法律で、そこまでやれたのなんざ俺の知る限りお前くらいだ。その努力と行動力には素直に尊敬できるっての。だからお前を“可哀想”だなんて、これっぽっちも思っちゃいない。これが俺の本音だ、判ったか」
「……………………………」
可哀想、というのは便利な言葉だろう。だが、それは時に相手の努力を全て無かったことにする言葉でもある。
仙自身は天才肌というやつだが、それでも努力は惜しまなかったのだ。血の滲むような努力と訓練の果てに恩賜の銀時計を、恩賜の軍刀を手に入れた。
自分の努力の全てをまるで無かったかのように否定され、そして「可哀想」という一言で片付けられた彼の気持ちはいかなものだったのか。一度だけならまだ耐えられても、それを……気の遠くなるような回数、老若男女数多の人間から言われ続けたのだとしたら……人間不信に陥っても可笑しくない。
「……お前はそれで良いのか…………?」
私と関わった所でこの先ロクな人生を送れる訳がない。と、言外に脅しにかかるが、そんなものが零士に効くはずがない。
「構わない。お前がいなくなったら、張り合いが無くなるだろ? それが嫌だからやってるんだ。要するにお前を死なせたくないと思っているのは、俺のエゴって奴だよ」
あくまでも自分のためだと言い張る。そうすることで、お前は責任を取る必要がないという言い訳を与え、気を緩めた仙の懐に潜り込む。
自分のためだと言いながら自分のことを人質にして、仙が自らこちらに飛び込まざるを得ない状況に持っていく。そして、世間にバレたら二人だけではなく周りの人間の身の破滅をも招くであろう“秘密”を二人だけで共有する。
そうしてもう逃げられないように、ゆっくり、静かに、蜘蛛の糸に絡めて捕らえて決して離さない。
我ながら狡い手を考えたものだと自己嫌悪に項垂れる自分を思考の端に追いやって、零士は仙の白い太腿に包帯を巻いていった。
「そういう訳だから、今日からまたよろしくな────仙」
その日から、二人の奇妙な関係は始まった。
───月の綺麗な夜の事だった。
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