海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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昭和六年広島

(16)常磐薺②─追想、昭和五年広島─

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 古い住宅なもので夜は特に冷え込んで寒さが厳しい。あの軍衣一枚では体を冷やしてしまうだろう。
開きっぱなしだった引き戸に手を着いてそっと覗き見てみると、そこは台所のようだった。土間の前にじっと腰かけている人影が見える。
 誰かなんて見なくても判った。仙だ。
 取り敢えずそのままの格好で外に出た訳では無かったらしい。大人しく座っているのを見てホッと一息吐く。だが台所に足を踏み入れた瞬間、先程感じた嫌な予感は現実の物となった。

「…………」
「なあ、何してんだ…?」

 仙は全裸に軍服の上衣を羽織っただけの姿で、こちらに背を向けている。後ろに零士が来たことにも気付いていないらしい。
 項垂うなだれたまま微動だにしない仙。その足元にはなぜか火の入った七輪が置かれている。網も乗せられていない上に火を起こしてから時間が随分と時間が経っているらしく、七輪の中の炭火はすっかり黒くなってしまっていた。

──いや、まてよ……こいつ、右手に何か持っていないか?

 仙が右手に何か持っていることに気付いた瞬間。

「………!」

 ジュッという音と共に、血抜きをしていない肉が焼けるような不快な臭いが鼻を突く。
 反射的に、仙の右手をガッと掴んで持ち上げた。その、仙が手に持っていた物──煙が立ち込める火かき棒を見た瞬間、頭に血が上って思わず怒鳴り付けた。

「ッの、馬鹿野郎!! 何をしようとしてやがんだ!!」

 火かき棒を取り上げて、近くにあった防火用のバケツの中に突っ込む。水が張ってあったそこに熱された火かき棒が入ったことで、一気に熱が冷やされたような音と水蒸気が立ち込めた。だがそれも一瞬のこと。
 間髪入れずにこれ以上余計な真似をしないよう、仙を横抱きにして台所を飛び出した。こういう家は大体台所の横に風呂場があると相場が決まっているので、台所の横にあった引き戸に目を付けて足で抉じ開ける。行儀が悪いが両手が塞がっていたからいた仕方がない。勘は見事に当たり、零士が開けた先にあったのは脱衣所。その先には風呂場があった。
 横抱きにしたときに羽織っていただけの軍衣は落ちてしまったため、既に全裸になっていた仙を風呂場の簀子すのこの上に放り投げるように降ろす。なぜか風呂の中には冷たい水が溜まっていたためそれを使おうと、引っ付かんだ手桶で水を掬って仙の太腿の辺りにぶっかけた。あの体勢で右手に火かき棒を持っていたらどこに押し付けるのが自然か考えたら脚の付近だと判断したから。

「なんて事しやがるんだ!!こんなの………こんなの………!」

 風呂の中の水を全て掻き出す勢いで何度も何度も水をかけ続ける。怒りと戸惑いがぐちゃぐちゃに混ざった形容しがたい感情を込めて吐き捨てた。
 やがてその声に反応するように、ノロノロと顔を上げる仙。
 額から垂れた髪の隙間から覗く瞳と目が合った瞬間、零士は自分だけ時間が止まったように硬直した。

────底無しの闇。

 その時の仙の瞳は、まさにそう表現するしかなかった。
 未来に希望も何も抱いていない、全てに絶望しきって諦めた人間の瞳。そんな人間の瞳を見たのは、後にも先にもあの時だけだっただろう。

「尾坂…お前……」
「…たきもと……?」

 意志の無い曇った硝子玉のような瞳を向けて、仙は幼い子供のように首を傾げる。

「……ごめんなさい……気持ちが悪かったでしょう?」
「……は?」
「我慢ができなかったの……ぼく、女の人で気持ちよくなれなくて。でも、大隊長達はぼくのこと乱暴に扱うし…………それに……貴様のような淫乱にはもう付き合いきれんって………言われたばっかりだし………」

 むずがる子供のようなつたなさで懸命に言い訳を並べ立てる仙の、その一連の台詞を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。

 女で気持ち良くなれない……なぜ?
 大隊長達が乱暴に扱う……そういえば先程は気付かなかったが、改めて良く見たら仙の白く滑らかな肌には縄か何かで縛り上げたような細く赤い痣が無数に刻まれているような?
 貴様のような……なぜそんな屈辱的な言葉を投げ掛けられる必要がある?

 言葉のひとつひとつが頭の中でぐるぐると回りながら少しずつ纏まり……カチリ、と全てが繋がった。瞬間、ぞわりと臓腑はらわたの底が冷えて胃がひっくり返るような感覚に突き落とされる。

──兵学校に通っていた頃に聞いた話が脳裏を過った。

 陸軍幼年学校や士官学校では伝統的に裏で衆道しゅどうが横行していて、上級生が下級生との間で義兄弟の契りを交わしたり、気に入った下級生を“稚児”にすることもあるらしい。特に顔立ちの整った少年の事を、独逸ドイツ語で美人を意味する“シェーネ”と美少年を引っ掛けた“ショーネン”という隠語で呼んで性の対象にすることがある、と……そしてさらにその趣味を卒業をした後も引き摺る将校が一部で存在している、とも……

「……お前、まさか…………」

 スッと血の気が失せていくのが自分でもわかった。
 本人にそのつもりは一切無いが、仙はとても端正な顔立ちをしている。
 すっと通った鼻筋に、少し切れ長で涼しげな目元。それでいて眠たげな柔らかい印象を与える二重の下で煌めく珍しい色の瞳。艶のある烏の濡羽色をした髪と男にしては長い睫毛。ふっくらとした可憐な赤い唇、曲線美を描く瓜実顔。
……なぜ、この可能性が思い当たらなかった。
 こんな美少年が男色の横行する幼年学校に行ったら、あっという間にその手の連中の餌食にされるに決まっているじゃないか。

「うん、そうだよ」

 へらり、と笑って彼はその事を肯定する言葉を吐いた。

「うそだ………」
「嘘じゃないよ」

 冷や汗が流れ、歯の根が合わなくなるほど震えながら、冗談だったと否定してほしくて絞り出した言葉。だがその僅かな希望は他ならぬ仙自身の言葉によって粉々に打ち砕かれた。

「えっと……一番最初は確か………幼年学校の寮で一緒になったゴミン模範生徒……三年の先輩が、幼年学校の伝統を教えるって言って………でもあの人はしっかり慣らしてくれたし、稚児になる代わりに他の先輩から守ってくれたし………けどすぐ上の先輩は酷かったなぁ………幼年学校の予科の時も、本科に通っていた時も、何人かで物陰に引きずり込んで好き勝手に出していったんだもの………溢したり勝手に掻き出したら、二倍か三倍の量を注ぐって言われて……かわやでこっそり掻き出していたのが見付かったときは……酷いことされたなぁ………区隊長は見てみぬフリしてたし………」
「やめろ……」
「任官した後で小隊長をやってたときにもね……独身寮に入っていた頃だったから、時々中隊長や大隊長達に呼び出されて………酷いんだよ? もうおなかいっぱいって言っているのにやめてくれなくて……でもさすがにやり過ぎたらしくって、ある日聯隊長に怒られて収まったんだけど………帰国した後で戻ってきたらまた始まっちゃって……この間も将校集会所に呼び出されて、縄で縛り上げられて身動きが取れないのに二ついっぺんで串刺しにされて、棒でおしっこの孔も塞がれて……痛くて苦しくて、なのに死んじゃうんじゃないかってくらい気持ちが良くて……」
「もういい、やめろっ!!!!」

 淡々とした語り口がこれまた生々しさを際立たせる。余りにも恐ろしい話をもうこれ以上聞いていたくなくて、耳を塞いで絶叫した。
 ぜぇ、はぁ、と大きく胸を上下させる呼吸を繰り返す。動悸が激しくなって、心臓の鼓動が耳元で鳴っているようだ。体の震えは止まらない。きっと、今の自分の顔色は最悪なのだろう。

 だがそれは見ず知らずの複数の男に弄ばれていた目の前の青年が、快楽を得るためだけという理由で自分を犯した嫌悪感によるものではなく───この青年の体を自分より先に暴いて好き勝手に調教し、淫靡いんびなものに作り変えた、名も知らない男達に対する猛烈な嫉妬心からきたものだった。

 初めて殺したいくらいに誰かを憎んだ瞬間があったとすればその時だろう。しかも相手は顔も見たこと無いどころか名前さえも知らない男達だ。だがそんなこと、気にもならないくらいに兎に角憎くて憎くてたまらなかった。そんな存在に目が眩むほどの嫉妬心を覚えて、無意識の内にギリッと奥歯を噛み締める。

───俺の方がお前らよりも先にこいつに触れていたというのに!

 まるで自分の所有物を勝手に好き放題されたような、我ながらあまりにも身勝手過ぎる怒りで目の前が真っ赤になる。
 恋どころか愛さえ知らない時期から歳上の同性に躾られ、すっかり肉欲に堕とされたあでやかな肢体。花開く前の蕾を枝から引きちぎって、固く閉じた花弁を一枚一枚強制的に開かされていった花のようにいびつな成熟を迎えた身体だ。ゆっくり愛撫するよう身体の線に指先を滑らせながら、仙は何も知らない無垢な子供のような表情でころんと首を傾げた。
 その幼いしぐさに反するように、瑞々しい肉体は情欲を掻き立ててくる。それがまた倒錯的な欲望を刺激して、甘いにおいに理性が飛びそうになった。

「ぼく、汚いでしょ? ごめんね、瀧本。お前に罵られて殴られても可笑しくないことしちゃったぁ…………」

 ポタリ、ポタリ、と涙が頬を伝う。仙は、泣きながら笑っていた。

(ああ、こいつは……)

 仙はもう、とっくの昔に壊れていたのだ。
 最初に再会した時に感じた、あの仙の印象は間違ってなかった。きっと仙は、もう形を保っていられないほど崩壊してしまって、被っていた殻を必死で集めてなけなしのプライドだけで精神を保っている風に見せていたのだろう。

 あまりに変わり果てたその姿に衝撃を受け、そしてこれ以上無いほど後悔した。

────俺があの時、あの中学一年生の雪の日に、こいつの後を追い掛けて引き留めていればこんなことにはならなかったのに。

 自分があの時、ああしていれば。それはもう二度と叶うことの無いもしもの物語。可能性さえ消えて無くなった“もしもif”の話だ。万に一つもありえない。

 何度謝っても謝りきれない。罵られて殴られても可笑しくないような事をしたのは自分の方だ。

 怖くなった。どうしようもなく怖くなっただけだった。じゃれあいの延長のような喧嘩をする関係が心地よくて、これ以上深入りしてその関係が壊れるのが恐ろしくてたまらなかった。だから……自分は平凡な一般人で、彼は華族の令息というどうしようもできない身分差を理由にして逃げた。逃げてしまった。
 どんな言い訳を並べ立てたところで、自分が一度この青年が最後の望みをかけてすがり付いて来た手を振り払ったという罪はなくなったりしないというのに。罪は罪。たとえ本人から許されようとも決して消えることなど無いのだ。

「ごめん、ごめんね……もう二度とお前に関わらないよ…………だから、だからどうか……どうかお前だけはぼくの事を憐れまないで…………」

 こいつは、一体どれほど苦しんだのだろう。どれほど悲しんだのだろう。

───どれだけ痛かったのだろう。

 天は何てむごい事をするのか。こいつはただでさえ出自のせいで、身体的な特徴のせいで、自分ではどうしようもできない理由で充分苦しんだじゃないか。その上でさらに、こんな、酷い。

「お前……」

 何か言いかけて、何も言えずに口を閉じて視線を下に向け……その先に広がっていた光景に目眩を覚えて立ちすくむ。



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