海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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昭和六年広島

(13)杜鵑草②─追想、昭和五年重巡「古鷹」─

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 それは戦隊が昭和五年十二月に呉鎮守府へ移籍して初めて寄港した、その翌日のことだ。
 昼食後に零士も含めたワードルームの士官達が和やかな会話に花を咲かせていたときのこと。昨日が上陸日だったある分隊長が、上陸して行ったレス料亭の話から思い出したかのように別の話題を振ってきた。

「そういや昨日、ラウンド(※呉の料亭「徳田」)の近くで陸サンとこの軍服着込んだえらい美人が塀を背にして突っ立っていたのを見かけてよぉ。道端で一人でいたんだが……いやぁ、ビックリしたな。最初女かと思ってマジマジ見ちまったぜ」

 その男は零士のコレス他校の同期で、機関科の分隊長だ。話の中に出てきたその“陸サンの軍服を纏った美人”がよっぽどの綺麗所だったのか、どこか夢見心地な表情をしている。

「ああ、いたいた。階級章の金線が三本で襟章が鳶色だから工兵科の将校だったな。ちょっと前に流行った男装の麗人っていうのかと思ったよ」

 コレスの正面に座っていた別の分隊長が思い出したように相槌をうった。

「あー……いっとき流行ったなよなぁ、男装の麗人。川島芳子よしこの影響で。男に麗人なんて表現はどうかと思うが、この言葉が一番しっくりきたわ」
「でも良く見りゃ背も高いし、細いけどしっかり筋肉が付いていたんで変だなぁって思ってたんだ」
「そしたらむこうさんと目が合って、襟を緩めたから何かと思ったよ。そしたらびっくり、喉仏があるのが見えて仰天しちまった」

 無精髭を触るついでと、一緒に自分の喉にある隆起を撫でながらコレスは笑い飛ばす。どうやらそれを笑い話にしてしまいたかったのだと、この場にいた全員が悟ったのはその数秒後だった。

「だけどお前、それで男だって気付いてがっかり落ち込んでたじゃないか」
「あっ、馬鹿ッ! 貴様それは言わない約束だっただろ!」

 コレスは正面の男が言い放った台詞で我に返ったようだ。慌てて口止めしようとしたがもう遅かった。

「はははッ! スマンスマン。でも俺達素人の娘さんには手が出せないからな。あの美人が女だったとしても口説けんだろ。男で良かったな……きっぱり諦めがつくから」
「まあ確かにそうだな。男で逆に良かったぜ……なーんてな」

 ワードルームに爆笑の渦が巻き起こる。コレスの出した話題につられて零士もその時は一旦能天気に笑っていた。
 しかし次の瞬間、その同期が口に出した台詞で零士は凍り付くことになる。


「にしても、ありゃ正規の陸軍将校なんか? 俺ぁ生まれて初めて見たよ────灰色の瞳・・・・なんて」


 ひゅっ、と喉の奥で変な音が響いた。
 ……なんだって?

「灰色だったかぁ?暗くてあんま見えなかったけどよ、むしろ青色に近かったと思うが?」
「藍色と灰色が混ざったみたいな曖昧な色だった。暗くて正確には判らんかったが」
「まあ確かに……青色というよか灰色が混ざった藍色だったような…………でも俺は瞳の色よりあの赤い唇の方が気になったよ。男にしちゃぁ、ちょっくら赤すぎて目立ったし」
「それもまた色っぽくて良かったよなぁ。野暮天ばっかの陸サンとこの将校にしちゃ、垢抜けてて洒落ていたし」

 灰色の瞳、赤い唇。そして、男装の麗人のごとき美貌の陸軍将校。
 まさかと思った。そんな筈などない、と乾いた笑い声を上げて一蹴したかった。だが赤の他人だと思い込みたくても、その記号は余りにも“彼”の特徴に一致しすぎていた。
 淡藤色の瞳に赤い唇の美少年。中学の途中で陸軍幼年学校に行ってしまった“彼”に。
 もし彼が陸幼陸士とトントン拍子で卒業して順当に出世コースを歩んでいたら、今頃は自分と同じ大尉だろう。だが彼は頭も良い美男子だったから、きっと陸軍の中でも花形の騎兵か主力の歩兵に行ってるはず。コレスの話が正しければ、件の陸軍将校は工兵科だ。野暮ったいと婦人方から嫌煙されがちな陸軍の中でも、特に泥臭い肉体労働が主な仕事である工兵をあの優雅な男が選ぶのだろうか。と考えて「無い」と心の中で吐き捨てた。
 ……そう思い込みたかったから。

「ところであの陸サン、ラウンドの近くに突っ立って何してたんだろうな?」
「さあ。人でも探してたんじゃねぇか? 鎮守府の中に知り合いがいて待ち合わせしてたとか…………瀧本、どうした? さっきから固まって」
「あ……」

 硬直する零士の様子に気付いたのかコレスが訝しげに声をかけてくる。それでようやく我に帰った零士はぎこちのない動きで声を固くしながら同期に聞き返す。

「……なあ、その陸サンの将校。何時くらいにラウンドの近くにいたんだ?」
「え?まあ……確か一八五◯くらいだったかな。陸サンとこの課業終了時刻なんざ知らんが、たぶんそれくらいに行ったら会えるんじゃねえの?」

 どうやらコレスは零士がその男装の麗人のごとき美男子の陸軍将校に心当たりがあると思ったらしい。もしかしたら当てずっぽうに言ったことが的中したのだろうか、と少しだけ考えてそう答えた。

「………そうか。すまんな、また時間を見付けて行ってみる」

 固い表情のままで低く呟いた零士の姿に何か察したのか、ワードルームの分隊長たちはそれっきりでその話題を切り上げた。豪放磊落ごうほうらいらく、竹を割ったようにさっぱりした性格の快男児かいだんじである零士が突如言い淀んで歯切れの悪い返事を返したのだ。何か触れてはいけぬ話題なのだろうと思ったのだろう。それか心当たりがありそうな零士がその陸軍将校と接触して、その後で話を聞きたいからあえて泳がせているのか。
 一方で零士の方は平静を装いながらも内心で動揺している事を悟られないよう必死になっていた。
 まさか、まさか。という言葉と仙の美貌が頭の中でぐるぐる回る。あの日の雪景色の中で零士にすがり付いてきた彼の泣き顔が鮮明に甦った。

───十五年。

 口で言うなら簡単だろう。だがその歳月はあまりにも大きく、そして過去との間に長く深い亀裂を挟んで零士の中に横たわっている。
 あれから世の中も随分と変わり、そして零士自身も変わってしまった。
 骨の成長に筋肉の発達が追い付かずに、どこか細身の印象があった体はしっかり鍛え上げられ、六尺越えの長身に見合った筋肉もがっちり付いている。
 幼かった表情も今では見違えるようだ。零士はいまや数多の場数を踏んで経験を積み重ねてきた者に相応しい精悍せいかんさを備え、輝かしい将来を歩まんとしている自信に満ち溢れた立派な青年へと変身していた。

 もうあの頃の、世界の何もかもが気に入らずに口を尖らせ拗ねている小僧はここにはいない。自分はもう、どこか影のある美貌を持った同級生の少年と毎日のように喧嘩に明け暮れていたあの日の少年ではないのだ。

 だというのに零士は無意識の内に彼の姿を追い求めていた。もう会う資格さえ無いと自分で決め付けていたのに。


 それからの時間の流れはいつもよりずっとずっと遅く感じた。我慢するのは船乗りの宿命だというのに、腹の底をジリジリと焼くような焦燥を懸命に飲み込みながらいつも以上に集中して午後からの仕事をこなし……そして、ようやく鳴り響いた課業終わりの喇叭ラッパの音を聞くや否や零士は逸る気持ちを抑え込みながら片付けに入る。
 零士は丁度その日の夕方から上陸日だったので、防寒着を上から羽織って他の上陸日の連中と一緒に内火艇ないかていに乗り込んだ。
 早く、早く、早く。早く、その陸軍将校の姿を見て確かめないと。
 内火艇の船足がいつもより遅く感じ、零士は近くて遠い港をじっと見つめ続ける。鬼気迫る雰囲気を出す零士を見た内火艇の将兵は、昼間のやり取りを知っている者以外全員顔を見合わせながら困惑したようにざわめいていた。
 内火艇から降りると走り出したくなる気持ちを呑み込みながら、早足になって零士は鎮守府を後にする。向かう先は昼間の会話で話題に上がった“ラウンド”という隠語で呼ばれる呉の料亭。

 雪が降ったのだろうか。道端には白い塊がうず高く積まれていて酷く冷え込む。
 まるであの日のようだ。とどこか他人事のように考えた。
 一寸先さえも白く塗り潰された冷たくて目映い牢獄の中。うっすらと青色かかった灰色の瞳いっぱいに涙を溜め込んで、“彼”が泣きながら追い縋ってきたあの日の朝のような────



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