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(32)夢に向かって歩く優しさ①─ 追想、大正八年五月─
しおりを挟む────大正八年五月。
「海さま。残念ながら、たとえ貴方からの許しがあったとしても。わたくしの恋が成就することはありえません」
数え十五になった芙三は、自分の預かり知らぬ所で勝手に決定された婚約者を前にして、力なく呟いた。
婚約者は訝しげな表情をしながらも「それは、なぜ?」と聞いてくる。頭ごなしに否定して押さえ付けるのではなく、自身のことを尊重してくれているのが判って安心した。
だから、なんの気兼ねなく本音が言える。
「なぜもなにも…………初恋は実らないと……よく言うでしょう?」
そう、初恋は実らない。一番最初の恋が実ることは無いのだ。
それをようやく思い知ったから、芙三は自分を殺すことを覚えて今日を迎えた。
「だって、わたくしが恋をした相手は─────わたくしが初めての恋を捧げた相手は、血の繋がった実の兄だったからですよ」
婚約者が息を呑むのが判って、芙三は力無く項垂れる。
芙三の異母兄が生家を出てから実に四年もの月日が経ってしまった。
─────雪が降る日に出会って、雪が止んだ日にさようならをしたあの人は。
彼は今、広島陸軍幼年学校予科を卒業した頃だろうか。あの学校は三学年まであると聞き及んでいるから。だとしたら、今年は東京に戻って陸幼年本科に進んでいるはずだ。
もっとも、芙三にはもう彼に会う資格など無いのだが。
異母兄がいなくなってからというもの、芙三は人が変わったように大人しくなってしまった。
今までのお転婆な我が儘娘が嘘のように、彼女は大人しくて「良い子」を演じるようになっていったのだ。
周囲の者は安堵した。ようやく侯爵令嬢としての自覚が出てきたのか、と。
────侯爵令嬢。
それが芙三にとっての全てだった。それを失えば、彼女にはなんの価値も無くなる。それが世界の真理だった。
自分の何がいけなかったのか。どうして彼が芙三の前から去っていったのか。それを芙三なりにじっと考えて、ようやく出してきた答えがそれだったというだけ。
良妻賢母であれ、なおかつ容姿端麗であれ。それが一人前の淑女というものだ。
どんな綺麗事を言おうとも、世界が彼女に求めるものはそれだった。たとえ世間に自由主義・民主主義的な風潮が流行ろうとも、根底にあるのは何も変わらない。職業婦人というものが現れてマスコットガールとして持て囃されようとも、女が自由に学問をやっても良いのだという運動が起ころうとも。
結局、最後に行き着く先にあるのは「良妻賢母」という概念に溶け込むこと。そこから少しでもはぐれれば、異端者として厳しく糾弾されるだけ。
口先だけなら何とでも言えるのだ。戦争など反対だと声高に叫び、軍人を白い目で見てぞんざいに扱うことこそが平和に繋がると能天気に信じ込んで。自由主義・民主主義こそ至高だと、お仲間と一緒に結束を高めあっても。
……所詮、それらは上っ面だけの薄っぺらいもの。風向きが少しでも変われば、あっという間に掌を返してコロコロ主張を変えるだろう。
下らないと見下して冷笑していても、それでも人間は一人では生きられない生き物だ。
自分に価値があると盲目的なまでに必死で信じ込まねば、生きることさえ困難な生き物だ。
結局、芙三もその例に漏れなかったというだけ。自分はなんて醜い存在なのだろうと、何度自己嫌悪に陥ったのか判らない。
「………貴女のお兄様というのは、長男の樟一郎殿のことでしょうか。それとも、次男の胡二郎殿のことでしょうか」
海の声はどこまでも優しいものだった。血の繋がった実の兄へ恋慕したなどと、禁忌を破る一歩手前まで来ていたという芙三の告白を聞いても、彼は先程となんら変わりの無い態度で接してきてくれる。
「いいえ、そのどちらでもありませんわ」
「え……ですが、お兄様なのでしょう?」
「はい、そうです。少し昔に一部で流れた噂程度なので貴方は御存知無いとはお察ししますが………おもう様にはもう一人……隠し子がいらっしゃるの」
胡二郎よりも数ヶ月後に産まれ、芙三よりも先にこの世に生を受けた。この世で最もいとおしい、天使のように美しい殿方。
今の自分に会ったら、彼は何と言うだろうか。軽蔑するだろうか、それとも……
「ですが……四年前に生家を出て養子に入られ、もう二度と会うことはないと………別れを告げられました」
「今は、何をやっていらっしゃるのか御存知なのですか?」
「………彼は、四年前に陸軍の幼年学校に入校するために、広島に行ってしまいましたわ。それ以降は、まったく。季節ごとに挨拶が一文だけ乗せてある葉書が届くだけで、近況も何も書いておりません」
首を横に振って、そっと目を閉じる。
何度も手紙を送った。相手が広島幼年学校にいることは判りきっていたから、何度も何度も送った。
だが、それらの手紙に返事が帰ってくることなど一度も無かった。送られてくる手紙は、年賀状や暑中見舞など……季節ごとの葉書だけ。しかもそれにさえ、近況の一つも書いていないそっけない一文が書かれているだけだ。
彼が今、どうしているか何て。何一つ判らなかった。
「四年前に幼年学校に入校した、ということは。今は陸軍幼年学校の本科一年……ということですか」
「………そうですわね」
「ところで芙三さん、本日は確か日曜日でしたね」
確かに今日は日曜日だ。二人とも学校や大学が休みなのだから、当たり前だろうに。
どうしてそんな判りきったことを問いかけるのだろう。
「そうですが、それが何か……?」
「では、行きましょう。陸幼本科はすぐそこですし、それに日曜日の午前中ですから。もしかしたら───まだ、貴女のお兄様がいらっしゃるかもしれない」
ハッとなって顔を上げる。今まで考えたことも無かった。そうだ、そういえば陸軍幼年学校の本科の所在地は、東京だったはず。なぜそこまで考えが及ばなかったのだろう。
「一度行ってみましょう。それで、もしも会えたのなら………面と向かって、そしてきちんと自分の言いたいことを言えば良いだけです」
「で、ですが、海さま。貴方はそれでよろしいのでしょうか?」
ただの契約とはいえ、海は一応芙三の婚約者なのに。婚約者が他の男の元に行って、想いを伝えてきても良いというのだろうか。
「言ったでしょう。僕はかつて、愛した人がいたと。その人とは、別れの言葉さえ交わせずに永遠に僕の前からいなくなってしまったのです。だから、せめて貴女はしっかりけじめを付けて下さい」
行きましょう、と。差し出された手を取って、芙三は決心したかのようにきゅっと唇を引き結んだ。
***
海に手を取られ、芙三は車に乗り込んだ。着替える時間さえ惜しく、艶やかな牡丹の花が美しい振り袖のまま。車が向かった先は、後に陸軍士官学校予科と改称されることになる、陸軍中央幼年学校本科。
日曜下宿の名目で外出が許される日だからか、いつもは生徒の声で騒がしいはずの門の内側は、どこか閑散としているようだった。
なにせ突然の訪問だったのだ。それに、どうしてか面会希望者である芙三は振り袖姿。驚かれない訳がないが、それでも面会者ということで芙三は通された。
今日が日曜日で、ほとんどの生徒が外出中ということだけが幸いだったか。
しばらくして、面会室の扉が開けられた。隣に海はいない、正真正銘一人での面会だったためか、心臓が縮み上がるほど緊張してしまう。
教官らしき陸軍の軍服を着た男の後ろに立っていた、細い体の少年に目が向いてひゅっと息を呑む。
───彼だ。
たとえ背も延びて、髪を丸刈りにして坊主頭になっていたとしても。そして少年らしさが薄れて青年になりつつある曖昧な時期だとしても。
その灰色の瞳だけは何一つとして変わらない。見間違うはずなどなかった。
「仙お兄様……」
胸がいっぱいになって、目に熱いものが込み上げてくるのをぐっと堪えた。
会いたかった。会いたくて会いたくて堪らなかった。顔を見ただけで、幸せでどうにかなってしまいそうだった。
しかし───次の瞬間、それは一泊の間も置かずに凍り付く。
「───なぜ、ここに来たのです」
開口一番、出てきた台詞はあまりにも冷たくて。そのあまりの素っ気なさに硬直してしまった。
「……え?」
「言ったはずだ、貴女と私はもう赤の他人だと」
こんな所にまで来られて、正直に言うと迷惑です。
自分を睥睨する灰色の瞳に宿った、あまりにも深い闇を見てゾッとした。その声には感情など何も籠っていない。まるで機械か何かが話しているようだ。
それが意味すること理解した途端に、怖くなって先程とは違う意味で泣き出したくなった。
なぜ自分は根拠もなく、相手も自分に会いたい物だとばかりに思い込んでいたのだろう。彼女が最も大切にしていた恋の相手である少年は、もう赤の他人になっていたというのに。
「わざわざご足労頂いて恐縮ですが、貴女と話すことなど何も無い。ご理解いただけたのならば、もう二度とここには来られないように。以上です」
そしてそのまま、彼は席にも着かずに踵を返した。時間にして一分も経っていない。これほどまでに短い面会時間など、建軍以来あっただろうか。おそらく陸幼本科始まって以来の最短記録だ、と。側にいた教官が唖然としている。
それを尻目に、彼はあっさりと扉を開けて出ていこうとした。
「───お待ちになって!!」
その背に向かって、必死で呼び掛ける。
……たとえ拒絶されようとも、これだけは言っておかなければいけなかったから。
「……まだ何か」
「あのね、兄様。わたくし、結婚することが決まりましたの」
芙三にとっては、人生で一番勇気を振り絞って口にした一言であった。
だが、相手に届くことは無かったらしい。
「そうですか。それはおめでとうございます。最低限の義理として、祝儀は後程送らせて頂きます」
たったそれだけ。まるで義務のようにそれだけ言って、彼は扉の向こうに消えていった。
まるで他人事である。いや、彼にとっては正しく「他人事」なのだろう。
「………兄さま」
どうにかして絞り出した声は、これ以上ないほど震えていてか細いものだった。
ああ、やっぱり────自分はどうやっても、彼の特別にはなれないのだ。
それを思い知ったその瞬間、少女は産まれて初めて奈落に落とされたような気持ちになって、静かに涙を流した。
その喪失の名を、人は失恋と呼ぶ。
大正八年の、初夏の日差しが目映い日曜日。
ある侯爵令嬢が、最初で最後の失恋をした日は───とても良く、晴れていたそうだ。
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