ある侯爵令嬢の失恋

春蘭

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(23)信じた道を進む強い個性②

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「────ですから、父上。何度も申し上げた通りに、私は貴方の元に戻るつもりなど無いと申し上げておるでしょう」

 ここまで言ってもどうして判ってくれないんだ。と、尾坂は苛立ちのままに父に向かって吐き捨てた。
 つい一時間ほど前にパーティーはお開きとなって、今は約束の通りに再び侯爵との会談を持たされる運びとなっている。

 ただし、話し合いはどこまでも平行線を辿るだけ。なんとしてでも尾坂を自分の手元に戻したい侯爵と、何が何でも戻りたくないと言い張る尾坂。両者共々一歩も譲るつもりなどない。
 いや、それどころか侯爵が策を弄すれば弄するほど、尾坂は意固地になっていくだろう。逆にどんな手を使ってでも侯爵から逃れてやると、益々頑なになっていく。

 もうとうの昔に、この二人の親子関係は破綻していたのだ。
 だがそれに気付いていない侯爵は、どうしたものかと困った顔で愛息子に語りかける。

「そんなに怖がらなくても、お前を無理矢理外国に連れていくことはないよ。十五年前のように」

 すん、と尾坂の瞳に宿った温度がさらに下がった。尾坂が心の中にもう一枚壁を作ったという合図だったのだが、それにまるで侯爵は気付いていない。

 それは十五年前のこと。尾坂が府立一中に通っていた頃の話だ。

 ちょうど今日のように十二月の帝都にしては珍しく、大雪が降る日だったことをよく覚えている。
 この年、ほぼ一年中海外──それも欧州に出張中だった侯爵が突然帰ってくるなり仙に向かって「今すぐ準備をしなさい」と言ったのだ。
 侯爵はその当時、外交官として外務省にいた。なぜいきなりそんな話が出てきたのかというと、侯爵が駐英大使として英国に赴任することが決定したから、だそうだ。
 それがどうして荷物を纏める理由になるのか、まったく訳が判らず困惑する幼い尾坂に侯爵は告げたのだ。

────英国の知人にお前のことを紹介したいから、一緒に英国に行こう、と。

「あのときのこと、まだ怒っているのかな。確かにあれは早急すぎたとは思うけどね、もう昔のことじゃないか。いいだろう?」
「…………」

 まさかこの男は、十五年前に自分が無理矢理英国に連れて行こうとしたことだけ・・が、尾坂がこれほどまで意固地になる原因だとでも思っているのだろうか。

「……それは失礼。ですが父上、私にだって譲れないものくらいは存在します。貴方がいつまでもそのままで、何も気付こうともせずに──何も変わらぬままでいるというのなら。私も考えを改める気などありません」
「ああ、もしかしてあれ・・のことを気に病んでいるのかな。仕方がないよ。あれ・・は元々少しおかしかったんだ。勝手にお前に嫉妬した挙げ句に勝手に狂って自滅しただけさ。お前は何も気に病むことなんて無いよ」
「………」

 あれ・・とは即ち、侯爵の後妻のことだろう。今はサナトリウム送りになって実質的には離縁されているとは言え、しかしまだ侯爵とは婚姻関係はあったはず。
 たとえサナトリウム送りになったとしても、あの親族が離婚を許すはずがない。

「……いいえ、父上。あの方が狂ったのは、私の存在があったため、ですよ………」

 そっと目を閉じて、そうやってまぶたの裏に浮かんできたのは十五年前のあの日のこと。

 忘れもしない、大正四年十二月の第二土曜日のできごとだ。

「……『わたくしからあの方を奪った忌まわしい毛唐の女郎のはらから、母親を殺して産まれた鬼子の分際で表を歩くな。賎しい略奪者・・・の合の子(※24)が、わたくしからまだ奪うつもりか』」

 あの日、実際に彼女から言われた台詞だ。今でも一字一句、はっきりと思い出せる。何せ血走った目で髪を振り乱しながら金切り声で叫ばれたのだから。
 その上でさらに首に手をかけられて頸椎をへし折られそうになったのだから、覚えていない方が不自然だ。明治以降に上流階級の仲間入りを果たした新興財閥の家の出身とは言え、とてもじゃないが箸しか持てない深窓のご令嬢として育てられたとは思えないような膂力で首を締められた時の恐怖は一生忘れないだろう。

 しかしその当時の尾坂は、別に死に対して恐怖を覚えたわけではない。かといって自身の出生の秘密を暴露されたことで、自分が母親を殺した殺人者だと知ってしまったから、そんな自分自身に恐怖を覚えたというわけではない。

「私にとって一番怖かったのは、当時の自分が理解できなかった・・・・・・・・ことです。父上、私にはなぜ、彼女がそんなにも怒り狂うのか。その理由さえ理解できなかったのです」

 ……おそらく、だが。彼女は侯爵に恋というものをしていたのではないのかと思っている。
 だとすれば恋というものは恐ろしいものだ。恋は人を狂人にする魔力が秘められている。

 侯爵も、そして侯爵の後妻も恋によって全てを狂わされた。
 尾坂の実母への恋慕に狂った侯爵は、最終的に当の恋をした相手を死へと追いやり。そして後妻は人の心を理解できぬ怪物に恋をしてしまったがために、現実と妄想の区別が付かなくなって闇に葬られた。

 恋は、人を狂わせる。愛は、人を引き戻す。

 きっと人の情というものは、こんなものなのだろう。最近になって尾坂はそう思い始めた。事例を集めて、分析して、統計を取る。そうやって、擬似的に人の感情というものを獲得してきた……つもりだった。
 だが、所詮はすべてまがいもの。やはり自分は、人間の心など理解さえしていなかったのだろう。と、静かに諦めながら尾坂は口を開く。

「その意味を、まったく理解できないように私を育てられたのは貴方ですよ、侯爵閣下……」

 確かに侯爵は、父は自分に最高の教育を施してくれた。
 一流の講師たち、大学教授を招いての講義……時には侯爵から直々に経済学や経営学など、それを実際に仕事にしている者しか判らぬノウハウを教えてもらうこともあった。
 だが、しかしそれは同時に尾坂から人間としての情緒が育つ機会を奪うことに他ならなかったのだ。

 ……尾坂にとって不幸があったとすれば、彼が何でもそつなくこなせる天才肌だったということだろうか。
 なまじ器用で何でもこなせて記憶力も良く、それに賢すぎるが故に聞き分けの良い子供だったから……誰もが失念してしまっていたのだ。
 彼がまだ、子供だった・・・・・ということを。

「そうか……仙、辛かっただろう。出自のせいで、今まで散々謂れのない侮辱を受けてきたのだね」
「……私が、日本人から自身の出自に関しての侮辱を受けることについては何も言いませんよ。だって……私に白人の血が流れているのは本当の話ですから」

 たとえ日本人を含めた有色人種から謂れの無い謗りを受けたとしても、尾坂はそれを甘んじて受け入れるしか無いと思っている。
 なぜなら、自分の中に流れる血は、数世紀に渡って有色人種を徹底的に踏みにじってきたのだから。たとえそれが四分の一クォーターであったとしても、その事実だけは動かしようが無い。

 だが、このくらい平気だ。肌の色や、瞳の色……自分ではどうしようもできないような理由で石を投げられることになんか慣れているから。

「もう一度、はっきり言わせて頂きます。私は隼三郎閣下との養子縁組を解消する気はありません。たとえ予備役になったとしても、この家に戻るつもりはありません。私の家は、広島にありますから」

 もう話は終わりだ。これ以上続けていても無駄なことでしかないのだから。
 無駄だと判りきっていることに対して労力を割くほど、尾坂は楽天的では無いのだから。

「お話は以上です、侯爵。今日のところはもう帰る……と、申し上げたいのですが、離れ座敷の部屋に引き上げさせて頂きます。どうせ最初から私のことをここに泊めるつもりだったのでしょう?」

 でなければこれだけ夜遅くまで引き留めたりしない。侯爵は尾坂のことを溺愛しているのだから、夜に外を出歩かせるなんて危険なことをさせるはずがないだろう。
 と、いうことはつまり。最初から侯爵は尾坂をここに泊めるつもりだったに違いない。どうせ広島から持ってきた荷物が入った行李こうりは、かつて自分が軟禁当然で育てられていたあの離れ座敷にあるのだろうと見当を付けて言ってみた。

「おや、そうかい。お前も疲れただろう? 熱も出ているようだし・・・・・・・・・・、今日はゆっくり休みなさい」

 無言は、肯定。やはりそうだったか、と冷めた視線で侯爵を一瞥した後、尾坂は踵を返して書斎の出入口の扉に手をかけた。

「仙、お前。尾坂家の家督を継ぐつもりなのかい?」
「……それも、良いかもしれませんね」

 ハッキリとは答えずに、尾坂は書斎の扉を潜る。
 そのまま、足音も荒くその場を立ち去って行った。行き先はただ一つ、先程話の中で出てきた離れ座敷。つまり、仙のために作られた白い牢獄のこと。

「……っ、クソ!」

 壁に拳を叩き付けたくなったのを、悪態を吐くことでどうにか堪えて、尾坂は屋敷の裏口を開けて外に出た。
 夕方から降り始めた雪は止む気配を見せず、既に外は一面の銀世界だ。それでも尾坂は怯むことなく真っ直ぐ進んでいく。
 侯爵家の広大な敷地の片隅で、鬱蒼と繁る林の中にある小道を抜け。そしてその先にあるのは薔薇と椿の迷路。

 まったく変わりがない。十五年前から、ここだけ時が止まってしまったかのように。

 定期的に手入れが入っていたのだろう。もう主が戻ってくることなど無いというのに、この白亜の牢獄は一寸たりとも変わらずここに佇み続けた。
 それに対してどうしようもない苛立ちを覚えて、尾坂は衝動のままに重厚な玄関扉を蹴り破ろうと脚を上げる。
 その瞬間───

「っ!!」

 美脚を引き立てるために細身で仕立てた軍袴ぐんこと股下に包まれた脚、特に太腿に激痛が走った。
 あまりの痛みに息が詰まり、蹴り上げようと半端に上げた脚を静かに下ろしていく。

「……、…………っ」

 ぎゅっと唇を噛み締めて、無言のまま玄関扉に手をかけ中に入る。キィ、という甲高い音。
 長い間誰も住んでいなかった中は寒々としているだろうと思っていたのだが、意外とそんなことは無かった。生暖かい空気に包まれる。
 おそらく、使用人が暖房を付けて暖めておいたのだろう。ラジエーターの温熱が、パイプを伝って離れ座敷全体に行き届いていた。

「ぅ……」

 もう誰も見ていない。もう取り繕う必要はない。
 震える手で玄関扉を閉めて、尾坂はノロノロと壁に手を付きながら階段を上がる。
 もう脚を上げるだけで苦痛だったが、それでもこんな所で踞るわけにはいかぬと。なけなしの意地で階段を上った。
 その先にあるのは、自分がかつて寝室として使っていた部屋……

 ドアを開けると、案の定そこに見慣れた自分の行李があった。
 しかしもうそんなのどうでも良い。まるで吸い寄せられるようにふらふらと寝台ベッドの上に倒れこんだ。靴も脱いでいないが、もうそんな気力は残っていない。
 普段だったら行儀が悪い、みっともないと、どれだけ疲れていて動きたくなくても靴を脱いだだろうが……そんな体力、残っているはずがなかった。

「………」

 と、そのとき。コンコンと部屋のドアをノックする音。誰か来たのだろうか。
 ノソノソと身を起こしてベッドに座り、来訪者に「どうぞ」と入室を促す。間髪入れずに、ドアが開いて誰かが入ってきた。
 その人物の顔を見た尾坂が、スッと目を細める。

「………胡二郎兄上」

 真夜中の来訪者は、二番の兄にあたる胡二郎だった。







※24:差別用語、ダメゼッタイ。
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