ある侯爵令嬢の失恋

春蘭

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(19)誇り高き気負い①

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「───ねえ、芙三さん。ちょっと、芙三さん」

 おば様の声にハッと顔を上げる。どうやら、物思いに耽っている間に何か進展があったらしい。
 懇親会もそろそろ終わりだ。最後にダンスを踊ってお開きにしようというところか。気が付いたらその準備が進められていた。

(兄さま、仙お兄様……)

 視線をさっと巡らせて兄の姿を探す。程なくして見付かった。一般の礼服と色とりどりのドレスの中、地味なカーキ色をした軍服姿の痩躯は嫌でも目立つ。
 尾坂はいつもの無表情に戻っていて、黙って窓際の方に移動していた。腕を組んで壁に背を預け、どうやら壁の花と化すことを決めたようだ。

「っ……」

 長い脚を優雅に運び、脚を組もうとして……動きが止まる。一瞬、表情をしかめた尾坂の視線の先には、芙三の姿があった。
 さすがに妹の手前、脚を組むのは行儀が悪いと思ったのだろうか。何事も無かったように脚を戻して憮然と視線を上に向けている。

「踊らないのかしらね、彼」

 芙三が尾坂のことをじっと見ていると、おば様の一人が話しかけてきた。

「さあ、どうでしょう」
「海軍では兵学校で舞踊ダンスを習うそうですが、陸軍ではどうなんざましょ」(※22)
「いやぁねぇ。陸軍なんて、馬術ばかりでしょう? 舞踊ダンスなんて、軟弱なものとして排除されてそうじゃない?」

 いったい何がそんなに楽しいと言うのだろう。一旦落ち着いたと思っていたおば様方の陰口が再開した。
 大方、何もかもが完璧な男にもどこかしら欠点があると意地の悪いことを思っているのだろう。そうやって、粗捜しをしてやりたいのが本音だろうか。

「仙、どうかしたのかな」

 早くも壁の花と化した尾坂を目敏く見付けた侯爵が、また愛息子の我が儘が始まったとばかりに呆れ顔で小言を漏らす。

「今日は踊らないのかな」
「………別に、良いではないですか。父上、こうして壁の花となって、片隅で人々を眺めているのも」
「まだ少し疲れているのかい?」

 そういえば、尾坂は広島からぶっ通しで汽車を乗り継いで東京まで来たのだった。移動だけでもほぼ丸一日かかるというのに、その上で陸軍内で会議があったとか。おそらく寝ている暇さえ無かったのだろう。
 さすがに疲労が出てきてもおかしくはない。平然とした表情をしているが、もしかしたらあれは単なる痩せ我慢なのかも……と思い始め、段々と肝が冷えていくような気がした。
 しかし芙三の思いとは裏腹に、尾坂はふっと口の端にいつもの皮肉げな表情を浮かべて一言。


「あいにく、私は気まぐれなたちでしてね───本当に気に入った相手としか踊らない主義なのです」


 どうやら彼なりに拘りがあって、今回は踊らないと決めたらしい。
 本当に意外なことだったので、遠くから聞いていた芙三も目をパチリと瞬かせてしまった。尾坂が帰国後から派手な女遊びを繰り返していることは、遠く離れた東京まで流れてきていたというのに。
 これはいったいどういうことなのだろう。噂上の人物像と現実で本人が口に出した台詞が噛み合わずに困惑する。

「おや、あれだけ上手だと広島で話題になっているのに」
「確かに広島でもダンスホールには通いますが……多くても月に二回ほどで、気分が乗らなければ踊らないこともありますよ。私が節操無しに女性を口説いているなんて、それはただの噂話ですのでどうかご安心を。父上、心配せずとも侯爵家の名を汚すような行動はせぬよう神経を使っておりますので」

 これは本当の話なのだろう。ということは、派手な女遊びを繰り返しているという噂の真相は、単に誇張されて大きくなっただけの作り話に近いものだったということか。

(……よかった)

 ほっと、胸を撫で下ろす。何度も想像しては身震いして、嫌だ嫌だと泣きわめきそうになるのを必死で堪えてきた。
 彼が、他の女と一緒に歩く姿など。彼が、自分以外の女を相手にしているのなど。見たくもなかった、知りたくもなかった。
 なのに事実として、彼は東京にまでその噂が広がるほどの女たらしとして有名になっていた。それにどれほど心を痛めたことか。

 どんなに願っても、どんなに祈っても。彼と一生を添い遂げることなどできはしない。だって────自分達は血を分けた兄妹なのだから。

 半分だけ。たったの半分だけ。彼と同じ血が流れている自身の身が、この上なく憎くてたまらなかった。
 これが本当に同じ母親から産まれてきたというのなら、まだきっぱりと諦めがついただろう。だがその半分は、重い枷となって芙三を苦しめた。

 半分だけの血の繋がりがあったお陰で彼と出会った。だが、その半分の血こそが自分と彼を引き裂く元凶となって牙を剥く。

「私をその辺りの俳優と同列に扱わないで頂きたいですね。誘われたら相手が誰だろうと喜んでその手を取ってほいほい付いていくほど、私は安っぽい存在ではありませんので」

 自分のことを安売りする気は無いと、尾坂はきっぱり断言した。

 湖の上を優雅に泳ぐ白鳥が、餌を片手に呼ばれたからと言って、なぜわざわざ岸まで泳いで取りに行ってやらねばならぬのだ。
 お高く止まってつんと気高い湖の花であってこそ、白鳥は白鳥でいられるのだ。たとえその態度が高慢ちきだと謗られようとも。誰にも触れられずに高嶺の花であってこその白鳥だ。自分からその価値を下げるようなことをするなど、愚かにも程がある。

「何が私の琴線に触れるかと聞かれても、お答えできないとだけ言いましょう。それを言ってしまったら、誰もがそうなろうと外面を取り繕うと躍起になるではありませんか」
「ううん、そうか……少々残念だよ。お前が踊っているところを久し振りに見てみたかったんだがね」

 侯爵は特に気にすることもなく、ただ困ったような表情をしているだけ。三男の我が儘は今に始まったことではないが、米国仕込みの最新の舞踊ダンスを身に付けた尾坂が、白鳥よろしく優雅に踊る様をじっくり観賞したかったのだろう。

 しかし外野としては、額面通りに聞き入れられるわけがない。まるで鬼の首を取ったかのように嬉々としたざわめきが走る。
 なんだ、踊らないのか。と落胆したかのように、しかし隠しきれない悪意が滲んだ声が漏れる。

「ああ、ほら。やっぱり踊れないのね。彼」
「そうじゃないかと思っていたのよ。お勉強ばっかで頭でっかちになって。いくら綺麗なお顔をしていて頭も良くても、教養のひとつも身に付いていないなんて………ねぇ?」
「庶子とはいえ、九条院家のご子息としてどうなのかしら。三十を手前にしても舞踊ダンスのひとつも踊れないなんて」
「彼、たしかまだ独身でいらしたわよね。やっぱり、いくら軍が薄給だからと言って、この歳まで独身なんておかしいと思ったのよ」
「やっぱり人は見た目じゃなくて中身ね、中身」
「いいえ、奥様。いくら人間中身が大事だとは言いましても………自分の娘に嫁がせるのなら、やっぱり同じ純血の日本人ですわよ」
「…………」

 負け犬の遠吠え───という言葉が脳裏に浮かんだ。
 ムキになってみっともなく負け惜しみを叫ぶくらいなら、いっそ素直に敗北をお認めになったらよろしいのに。
 と、芙三は考えながら、おば様方を尻目にゆっくりと歩き始めた。

 ヒールが毛足の長い絨毯に優しく包まれ、音は出ない。だがしずしずと、まるで丹頂鶴を思わせるような優雅な動きで歩を進める貴婦人の姿は充分な存在感を放っていた。
 芙三に気付いた人々が一斉に場所を開けて、まるで人垣で道が作られたような状態になる。その真ん中を当然のように進んで、芙三は尾坂の目の前までやって来た。

「ごきげんよう、仙お兄様」

 にっこりと微笑んで、小さく会釈。我ながら白々しいと思いつつ、芙三は尾坂の瑠璃色の瞳をまっすぐ見つめる。

「………レディ、何かご用で?」
「もしよろしければ、わたくしと一曲踊ってくださらない?」

 驚愕の声が、さざ波のように広がっていく。
 尾坂の実質的な舞踊ダンスの参加拒否を聞いてなお、あえてとばかりに芙三はまっすぐ舞踊ダンスの相手を申し出てきた。これはいったどういうことだろう。

 尾坂にとっても意外なことだったらしい。ゆっくりと何度か目を瞬かせて、そして口を開く。

「なぜ私を選ばれたのでしょう? 理由を聞いてもよろしいですか」
「簡単なことでしてよ。だって……」

 そこで一旦区切って、一瞬だけ溜め込む。

「───わたくしと貴方様は、兄妹ですから」

 これ以外になんの理由がある、とばかりに芙三は堂々と言い放った。
 自分で言っておいて、じくりと胸が痛んだが、それをおくびにも出さずにつんと前を向いて懸命に立ち続ける。泣きそうになったが、涙が流れることだけはこらえた。
 大丈夫だ、なんてことはない。あの日・・・からもう、我慢することなんて慣れてしまったから。

「………そうですか」

 ふう、とため息。失敗したのだろうか。最悪の未来がまぶたの裏に見えて、思わず身構えた。

「でしたら仕方がありませんね」

 不意に、自身の指に男の固く大きな掌が添えられた。
 えっ、と声を上げて前を見ると、そこには芙三の手を取って、手袋に覆われた長く優美な指先に静かに口付けを落とす尾坂の姿が。

「私のような者で良ければいくらでも。ですが……一曲だけ、ですよ。レディ」

 それ以上はいらぬ嫉妬を買ってしまうでしょうからね、と美貌の青年将校は囁いた。








※22:日本海軍では紳士教育の一環として、兵学校でフルコースのマナーやダンスなども習います。これは海軍は性質上、海外に行くことが多かったことや、海軍設立の際にお手本にした英国海軍は士官が貴族だったことなどが関係しているそうです。
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