ある侯爵令嬢の失恋

春蘭

文字の大きさ
上 下
13 / 36

(12)強者と戦う強い意志④

しおりを挟む
(なにも変わっていないな、ここも)

 調度品の類い、内装。細かい所まで、全て。最後に見た時の記憶と何の変わりもない。ただひとつ、自身の視点が高くなったというだけで。
 もう十四年も昔のことだというのに、ここだけ時間が止まっていたかのようだ。
 まるで尾坂が帰ってくるのを、じっと健気に待っていたかのように。
 嫌な考えが脳裏を過って舌打ちしそうになったのを懸命に堪える。尾坂は軍帽を脱いで脇に挟み、黙ったまま侯爵に付いて行った。
 腰に吊った恩賜の軍刀が歩く度にカチャカチャという金属の音を立てるが、気にも止められないくらいに緊張している自覚がある。

(……この人の背中、こんなに小さかったかはずはないんだが)

 侯爵の後ろ姿を見てふと気付いた。いいや、当たり前だろう。なにせあれから十四年も経っている。
 齢十三だった尾坂も二次成長をとうに終えて、既に三十路手前の数え二十八。その間に背も延びて、筋肉も着いた。

 もう、自分は何もできない幼い子供では無いのだ。

 それをこの人が正しく認識しているかどうか、それはまったくの別問題だったが。

「お前と一緒にここに入るのも久し振りだねぇ」

 考え事をしているうちに、いつの間にか目的地である書斎に到着したらしい。顔を上げたら目の前には重厚な質感の扉があった。
 侯爵はよほど嬉しかったのか、鼻唄でも歌い出しそうな軽やかな足取りで室内に入る。だが、尾坂はその手前でピタリと静止し、動かなくなってしまった。

「………」
「おや、どうかしたのかな。別になんの気兼ねもいらないよ。お前は私の息子なんだから。入りなさい、仙」
「……失礼、いたします」

 腰を曲げて敬礼し、固い面持ちのままで室内に一歩足を踏み入れる。(※16)

「まあ、ここに座ってじっくり話そう」
「いいえ、私はここ・・で結構です」

 書斎にある家具の配置まで変わらない。奥に入口と向かい合うような形で机が配置され、その間の空いている空間に来客用のソファとローテーブルが配置されている造り。ダークブラウンを基調にした落ち着いた部屋で、素人目から見れば些か地味すぎるのではないかとは思う。だが、よく見れば水晶の灰皿から壁の両脇に設置された本棚に至るまで全て、庶民では逆立ちしたって手の届かないような高価な輸入品ばかりなのだというのが判る。
 成り上がりの富豪の家から漂ってくる下品さなど一欠片も存在しない。九条院侯爵家の邸宅は、間違いなく千年の歴史に相応しい名家の気品を持っていた。

 しかし尾坂は侯爵から示された来客用のソファには座らずに、扉を閉めた後は手を後ろ手に、足を肩幅に開いて直立不動の姿勢で佇むだけだった。

「……仕方の無い子だ」

 少し眉を下げて、侯爵は困ったように呟く。言うことを聞かない三男だが、それもまた新鮮で良い。尾坂の無言の抵抗など、まるっきり流して侯爵は続ける。

「それで、話とは何でありましょうか。正直に言うと、私は貴方の顔をこれ以上見ていたく無いのでありますが」
「おやおや……酷い言われようだ。仙、実の父に向かってそんな悲しいことを言わないでおくれ」

 視線は合わせず、侯爵の頭上にある天井あたりを見るようにしながら尾坂は本題に入るように促した。
 一方、侯爵の方はというと尾坂の口から出てきた無礼とも捉えられる発言にも微笑むだけだ。
 仙、と侯爵は自身が溺愛してやまない三男を呼び掛ける。

「いったい、何に対してそんなに怒っているんだい。私の可愛い仙。何をしたらお前の機嫌は直ってくれるのかな」
「…………」
「ああ、こら。またそんな顔をして………」

 ここで天井に向けていた視線をゆっくりと侯爵の方に戻していく尾坂。
 その男装の麗人にも見て取れるような美しいかんばせは、何かをじっと堪えるかのように歪んでいる。宵の空を写したかのような瑠璃色の瞳の奥に、烈火のごとき憤怒の炎が宿っているのを見れば、彼がどのような感情で顔を歪ませたのか判るだろう。
 我を忘れてしまいそうになるほどの隠しきれない怒りが、尾坂の彫りの深い端正な顔に強烈な色彩を与えてくる。
 その様はまるで、復讐に囚われたまま檻の中でじっと人間たちを睨め付ける狼の王のよう。
 場の空気が瞬間的に、一触即発寸前まで沸き上がったのが肌でも感じ取れる。だがそんな不穏な空気の中でも、侯爵はまるで気付いていないとばかりに呑気に尾坂の前に立ってその白い頬にそっと指先を添えた。

「そんなに恐い表情をしないでおくれ、私の仙。そんな表情をしたら、桜花おうかの生き写しの美しい顔が台無しになるじゃないか。お前には凛としていながら憂いを帯びた表情が一番似合うんだ。桜花のように控え目に微笑むならまだしも、そんな表情は似合わないよ。それ以前に、そんな表情をして良いと言った覚えは無いのだけどねぇ」
「……父上・・、」

 我慢に我慢を重ねてなんとか絞り出した声は、どうしようもない怒りのあまりに震えていた。
 そんな中であっても、生まれ持ったプライドがそうさせたのか。尾坂はなんとか衝動的に抜刀しそうになったのを堪えて、そしてこう言い放つ。


「───私の目の前で、貴方が殺したも同然の女の名前を出さないで頂けますか?」


 声は震え、表情は不格好にひきつる。何とか懸命に堪えて選んだ言葉だったが、それでも自身が意図さえしていなかったような発言が飛び出したことについては誤算だった。

「そんな言い方は無いだろう? 桜花はお前の実の母で、私の最も愛する女性ひとだったんだよ。その彼女にそっくりの顔で、そんな汚い言葉を使うのはやめなさい。桜花はそんなことを言ったりはしないよ」
「ハッ! ……笑わせないで頂けますか、父上。貴方の大事なその桜花という女性は、貴方のせいで・・・・・・この世を去ったのでありましょうに」

 鼻で笑って、だが隠しもしない嫌悪感を顕にしたような心底軽蔑しきった目で侯爵を見下ろす。
 侯爵は尾坂に自身の罪を指摘されても、たじろくわけでも怖じ気付くわけでもなく、ただただ困ったような表情をしているだけだ。いや、おそらく本気で、何が悪かったのかさえ理解していないのだろう。この男は。

「自分の実の母親をそんな風に表現するのはやめなさい。桜花はきっと悲しむよ」
「その桜花というのは、二十八年前に貴方が一方的に恋慕した挙げ句に婚約者がいると知りながら手を出して孕ませて、婚家のみならず実家からも勘当されて何もかも失い、精神的に追い詰められた末に命懸けで産んだ我が子さえも取り上げられるという惨い仕打ちを受けて失意の内にこの世を去った女の名前ですか? 父上、貴方が殺したも同然の、齢十七という花の盛りの、どこにでもいるような普通の女学生の……!」

 ギラリ、と尾坂の瞳の奥で激しい感情がいっとう強く燃え盛った。そう、尾坂の実の母親と同じ、瑞典スウェーデンの血を感じさせる瑠璃色の瞳に怒りを滾らせながら。まっすぐ侯爵を射抜いて。

 尾坂の実の母親は、巷で言われているように芸者などではない。もちろん女中でも、花街の女郎でも無い。

 その正体は、当時まだ齢十七だった女学生───尾坂桜花という少女だ。
 もう少し踏み込んで言えば、彼女は現在の尾坂の養父に当たる尾坂隼三郎中将の姪に当たっている人物。つまり隼三郎中将と尾坂は、養父と養子という関係以前に大叔父と又甥でもあるというわけだ。

 尾坂の日本人にしては彫りの深い端正な顔とその瑠璃色の瞳は、母親の……そして母方の祖父から受け継いだものだった。

 隼三郎の姉は瑞典から来日していた技師と結婚して一子を設け、そしてその後娘を残して夫妻は亡くなることになる。その娘こそが桜花。
 尾坂の実の母親であり……そして、運の悪いことに、たまたま出会ってしまった九条院梅継という男を、その美貌で虜にしてしまったことで悲劇に見舞われることとなった少女のことだ。






※16:この時は帽子を被っていなくて室内なので、挙手敬礼(("`д´)ゞ←これ)じゃなくて、腰を曲げてお辞儀をする一般の敬礼です。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

今日は私の結婚式

豆狸
恋愛
ベッドの上には、幼いころからの婚約者だったレーナと同じ色の髪をした女性の腐り爛れた死体があった。 彼女が着ているドレスも、二日前僕とレーナの父が結婚を拒むレーナを屋根裏部屋へ放り込んだときに着ていたものと同じである。

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

婚約破棄されなかった者たち

ましゅぺちーの
恋愛
とある学園にて、高位貴族の令息五人を虜にした一人の男爵令嬢がいた。 令息たちは全員が男爵令嬢に本気だったが、結局彼女が選んだのはその中で最も地位の高い第一王子だった。 第一王子は許嫁であった公爵令嬢との婚約を破棄し、男爵令嬢と結婚。 公爵令嬢は嫌がらせの罪を追及され修道院送りとなった。 一方、選ばれなかった四人は当然それぞれの婚約者と結婚することとなった。 その中の一人、侯爵令嬢のシェリルは早々に夫であるアーノルドから「愛することは無い」と宣言されてしまい……。 ヒロインがハッピーエンドを迎えたその後の話。

義妹が大事だと優先するので私も義兄を優先する事にしました

さこの
恋愛
婚約者のラウロ様は義妹を優先する。 私との約束なんかなかったかのように… それをやんわり注意すると、君は家族を大事にしないのか?冷たい女だな。と言われました。 そうですか…あなたの目にはそのように映るのですね… 分かりました。それでは私も義兄を優先する事にしますね!大事な家族なので!

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

【完結】初めて嫁ぎ先に行ってみたら、私と同名の妻と嫡男がいました。さて、どうしましょうか?

との
恋愛
「なんかさぁ、おかしな噂聞いたんだけど」 結婚式の時から一度もあった事のない私の夫には、最近子供が産まれたらしい。 夫のストマック辺境伯から領地には来るなと言われていたアナベルだが、流石に放っておくわけにもいかず訪ねてみると、 えっ? アナベルって奥様がここに住んでる。 どう言う事? しかも私が毎月支援していたお金はどこに? ーーーーーー 完結、予約投稿済みです。 R15は、今回も念の為

処理中です...