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(11)強者と戦う強い意志③
しおりを挟む声は、胡二郎の眼前で聞こえていた。そう、階段を登って正面の扉。そこを開けて現れた男から。
「仙、」
時間が止まったような錯覚に陥っていた三人は、尾坂の名を呼ぶ男の声でようやく現実に引き戻された。
特に尾坂は軍帽が作った影の下で、その瑠璃色の瞳を大きく見開きながら絶句している。
しかし、男はそんな尾坂の反応などにはまるで気付いていないとばかりに、ゆっくりと階段を降りてきた。隅々まで丁寧に磨かれた手すりに掌を滑らせ、ピカピカに磨かれた革靴が一歩、一歩と近付いてくる男の姿に間違いが無いことを悟った尾坂は忌々しげに舌打ちをする。
その気品に溢れる美貌からしてみれば信じられないくらいに乱暴な仕草だったが、この場でその変化に気付いた者は皆無だった。一番近くにいたはずの芙三でさえも、この場で登場する予定では無かったはずの人物が突然現れたことによって頭の中が真っ白になり、それどころではなくなってしまったからだ。
男の革靴はパッと見たら地味ではあるが、見る者が見れば非常に高価な素材を使っていることがわかる。事実、その革靴は英国の老舗靴屋で作らせた品物だ。長いこと愛用していても、くたびれるどころか年月を経るごとにどんどん味が増していくのが高品質な革製品の良い所だろう。もちろん、きちんと時間をかけて手入れしてやればという前提はあるが。
「……」
「久し振りだねえ、仙」
こうして直接対面して言葉を交わすのも十四年ぶりだ。と、階段から降りきりそのまま尾坂の正面に立った男は声をかける。一応は正式な場であるためか、礼服に袖を通してその場に現れた男が正面に立ったことを尾坂が認識した瞬間、一気に空気が張り詰めた。
(不味い……想定外だ………!)
不測の事態に胡二郎は焦る。焦りでいち早く硬直が解けた彼は、大慌てで階段をかけ降りて弟妹たちと合流しようと駆け出す。
もう遅いと判っていても、走らざるをえなかった。この後に起こるであろう目も覆いたくなるような惨事に、せめて妹だけは離してやらねばと思ったからだ。我ながら身勝手だと思うのだが。
「────Le Marquis de Kujouin!!」
不意に、そんな緊張した空気を切り裂くかのような声が響く。
将校といえども荒くれ者揃いの工兵連隊で、指揮官という声を良く使う仕事を生業にしているからだろうか。特に怒鳴った訳でも無いのに、非常によく通る声だ。それに声自体も、凛としていてて耳に心地の良いものである。さすがに普段から使い込んでいるためか多少はハスキーになっているが、それを考慮しても甘く蠱惑的なテノールは人を魅了してやまない。
「Je suis vraiment désolé de ne pas avoir pris contact avec vous si longtemps. Son Excellence(長い間ご連絡ができずにご心配をおかけし、大変申し訳ありません。九条院侯爵閣下)」
口の端にうっすらと、皮肉げな笑みを張り付けた尾坂が流暢な外国語で男に────そう、彼の実の父である九条院梅継に挨拶を送る。わざわざご丁寧に、カツンと自身の足元を飾る長靴の踵を会わせて背筋をすっと正し、肘を張って右手の先を頭の横で止める挙手敬礼まで行って。まったくもって惚れ惚れするほど見事なまでに美しい敬礼だった。
対する胡二郎と芙三はあまりにも脈絡なく放たれた外国語に困惑するしかない。なにせ今まで日本語で話していたのに、突然耳慣れない外国語に切り替わったのだ。困惑しないわけがない。今は第一線を退いているとはいえ外交官として世界中を飛び回っていた侯爵、そして侯爵の手を離れた後も幼年学校・士官学校で語学をみっちり仕込まれた尾坂はともかく、胡二郎と芙三の兄妹は英語以外で話された言語を特定するだけでも少々時間がかかる。
しかし、曲がりなりにも二人は侯爵家の子供。一拍間を置くことになったが、すぐさまその言語が仏蘭西語だということに気付いて息を呑んだ。
そう、問題は尾坂が口にしたのが仏蘭西語だということである。
何も知らない人間にしてみればそれが何かと思う所だろうが、今、この場においては仏蘭西語を使ったこと自体に意味があるのだ。
なぜなら、九条院侯爵は若い頃に英国に留学していたこともあってか今でも英国のものを多く愛用している。なにせ屋敷の建築技術や、敷地内に広がる庭園にまで英国様式を取り入れたくらいだ。侯爵は自国の文化と同じくらいに、英国の文化を愛している。
しかし尾坂は久し振りに出会った父に対して、英語も日本語でもなく、わざわざご丁寧に仏蘭西語を使用したのだ。兄妹の中で唯一父から溺愛されていた尾坂が、それを知らない訳がないというのに。
(これは……)
(当て付け、ですわね。おもう様への……!)
知らず知らずのうちに、胡二郎と芙三の兄妹はごくりと生唾を飲んでいた。
そう、尾坂がわざわざ仏蘭西語を使った理由。それは英国かぶれの侯爵に対する当て付けであるのだろう。あそこまで露骨だと誰の目からみても明らかである。
なにせ英仏の仲の悪さはお墨付き。世界史の上で、かの二国はドーヴァー海峡を挟んで何度も小競り合いをしており、領土も奪ったり奪われたり。近代に入って多少は大人しくなったようだが、それでも水面下でいがみ合いは続いているのだろう。
だからこそ、尾坂はわざわざ仏蘭西語を使用した。侯爵の思い通りにはさせないのだと、明確な意思を出したのだ。
「その上で、このような突然の訪問をお許し願いたい」
「ああ、本当に久し振りだねえ。息災で何よりだ」
だが侯爵はそれに気付いていなかったのか、それとも尾坂の意図を判った上で無かったことにしたのか。おそらく後者だろう。にっこりと微笑むと、久方ぶりに会う溺愛してやまない三男の美しい瑠璃色の瞳をじっと眺める。
「少し見ない内に随分と背が延びて立派になったねぇ。ああ、お前は本当に綺麗で賢い子だ、仙。私の元に戻ってきてくれて嬉しいよ」
「……」
尾坂はそれには答えない。答えないが、纏っている空気が一気に険悪となった。それが答えだ。
空気がピリピリしているのが嫌でも判る。やっぱり、無理矢理にでも妹を止めるべきだったのだと胡二郎が後悔してももう遅い。
「おもう様、仙お兄様は………」
「いいえ、まさか。そんなわけが無いでしょう」
顔色を青ざめさせながらも、芙三が声を上げようとしたその瞬間────その柳腰に男の大きな手が添えられて、ぐっと引き寄せられる。
あまりにも突然のことであったが、手はそれほど強引であったわけではない。せいぜい愛想程度に軽く添えられただけ。
しかしその華奢で可憐な見た目からは想像もつかない、見かけによらず男らしい仕草を見せられた方はたまったものではない。それが、兄ではなく男として意識している者からのアクションだったのならなおさら。
男にしては些か赤色の強い唇に、睫毛の長い色白の美貌。それに引き締まった細身の体。一見すれば尾坂は男装の麗人にみえるほどの女性的な要素を含んだパーツが多いが、それでもふとした瞬間に男性なのだと判る瞬間が散らばっていた。
その最たる象徴は掌だろう。爪の先まで洗練されて長く優美な指だが、それでも関節はごつくて長年過酷な訓練を重ねてきたことを醸し出す。
男の手だ。それも、軍人の手。判っていたはずだが、それでも不意打ちに近いような形でそれを意識させられて、ハッと息を呑むしかなかった。
「Excusez-moi, mon Seigneur。本日はこちらのマダムの護衛を頼まれたので参上した次第であります」
ここまでくればもうその必要は無いでしょう、と。表情ひとつ崩さずに、エスコートしてきた芙三の手をそのまま呆然とする胡二郎に引き継がせて、尾坂はあっさりと一本下がった。
先程の唐突な誘いはなんだったのだろうか、と言いたくなるほど冷淡な態度だ。これには芙三も面食らう他無い。
「ああ、それと胡二郎さま。この度はご婚約の成立、真におめでとうございます。後程、私からも祝儀を包ませて頂きますが式自体には参加するつもりはございません。私のような部外者が出席するなど、場違いにも程がありますので。では、私はこれにてお暇させていただきます」
「待ちなさい、仙。話はまだ終わっていないよ」
そのまま一礼して帰ろうとする尾坂をやんわり引き留め、侯爵は自身の三男をそっと手招きする。
さすがにこの強引に作った流れに乗せられてくれるほど侯爵はやわではないかと諦めて、尾坂はその瑠璃色の瞳に不穏な光を宿しながらも一応は聞く姿勢に入った。
「……何でしょうか」
「私の書斎に来なさい、仙。話があるから……」
にこにこと嫌に機嫌良さげな表情のままで、侯爵はパンパンと手を叩いた。それを合図にしたかのように、ロビーの一階にあった控え室から使用人が一人出てくる。
九条院家に古くから使えている執事だと気付くのに時間はかからなかった。尾坂が幼い頃から度々見てきた侯爵付きの使用人である。
「お呼びでしょうか、旦那様………!」
相手も尾坂に気付いたのだろう。ハッと、目を見開いて息を呑んだ。
仙さま──驚愕のあまりに口の動きだけで侯爵の三男の名を呼んだ使用人だったが、しかしそこはその道の玄人であるプライドがある。
即座に何事も無かったように無表情に戻り、使用人は主人の命令を待つ。
「仙の外套を部屋にかけて来なさい」
「畏まりました」
「侯爵!」
尾坂が声を荒らげた。しかし、侯爵はまるで意にも返さず微笑むだけ。
「ほんの少しだけだよ。遅くなったら泊まっていけばいい」
「結構です。歩いて帰りますので」
「仙、大事な話だよ」
これからのことに関する、大事な話し合いがある。と言われて尾坂はきゅっと唇を引き結んだ。
……元よりこの問題は、避けては通れぬ道。ここで強引に戻れば、侯爵は今度こそ強行手段を取ってくるかもしれない。そうなればもう軍にはいられなくなるだろう。
尾坂にとってはそれだけが恐ろしかった。自分が軍にいられなくなる……ということだけが、何よりも恐ろしかったのだ。
「………」
無言のままで、外套を脱ぎ捨てる。見かけよりも重い生地で織られた外套は、使用人の手によって回収されてどこかに持っていかれてしまった。
「仙、おいで」
侯爵に手招きされ、尾坂は黙ってそれに従う。虎穴に入らずんは虎児を得ず、という気分だった。
(……良いんだ、言いたいことを言ってやる良い機会だから………)
そう強引に自分に言い聞かせ、尾坂は先程の皮肉げな笑みから一転。凍り付いたような無表情をその美しい顔に貼り付け、侯爵の三歩後ろを黙ってついていく。
当然ながら、置いてきぼりを喰らう羽目になった胡二郎と芙三は、その後ろ姿を固唾を呑んで見守ることしかできなかった。
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