10 / 36
(9)強者と戦う強い意志①
しおりを挟む***
「貴方との出会いはわたくしにとって、それはそれは衝撃的な体験でしたのよ」
発動機の低い音が後部座席に座る二人の腹の底に響く。
雪は止むどころか時間経過と共に酷くなっていた。それこそ、窓の外の景色を覆い隠してしまうくらいに。
「……そうですか」
「あら、気のないお返事」
クスクス、という笑い声は発動機の音と風の音に紛れてなお、耳で正確に拾うことができた。
女性の高い声、というのもあったのだろう。幼い頃から音に対する訓練を受けてきた尾坂にとって、この程度の音を聞き分けることなど造作もない。
「あの日、貴方が演奏されていた曲……どなたの書かれたものだったのでしょう……? 今でもわかりませんわ」
「……ショパン作曲、夜想曲第二曲 9-2」
ボソリと呟いた一言を、貴婦人は聞き逃さなかった。
あの日、尾坂が演奏していたピアノ曲はショパンの夜想曲だ。それも、ショパンの夜想曲と言ったら、まず真っ先に思い浮かべるであろうあの曲だ。
別に深い意味など無かったが、今でも時折無性に弾きたくなってくる曲である。
「覚えていらっしゃるではありませんか」
「……」
それに尾坂は返答しない。
尾坂は幼い頃から実父が手配した講師たちと、時には父親本人から直々に数多くのことを詰め込まれて育てられてきた。そのなかには、洋琴や提琴などの音楽に関することも当然のように含まれていたのだ。それに加えて陸軍幼年学校は音楽の授業にも力を入れている。(※12)音楽に関する造詣は、同世代の軍人のなかでは秀でている方であった。
「本当のことですわよ。貴方との出会いは、少なくともわたくしがそれまで生きてきた人生のなかで燻っていましたものをひっくり返してしまうほど衝撃的なものでしたから」
「…………そうですか」
この期に及んで貴婦人と個人的な会話に興じるつもりはないらしい。前を向いたまま見向きもしないでそっけのない返事を飛ばされ苦笑する。
だが会話を無言のうちに拒否されたからと言って、ここで引き下がる訳にはいかなかった。
「……変わってしまわれましたわね、仙お兄様。昔はもっと、おっとりとしてお優しい方でしたのに」
「別に私はなにも変わっておりませんよ。変わったのだとしたら、もう自分を偽ることをやめたというだけです」
これが本当の私です、と。尾坂は淡々と告げた。
冷淡、冷酷。人の心などわからぬ化け物。血も涙も無い冷血漢。それが今の尾坂にまとわりつく、人々からの評価だ。軍に行ったせいで性格が歪められたという訳では無い。いや、本当に。
どれほど取り繕っても変えられない。変えることなどできはしない。今まではそれを必死になって隠して生きてきただけだ。頑張って頑張って頑張って。じっと目を凝らしながら“普通の子供”を観察して、どうすれば“普通”になれるのか研究した結果を身に纏っていただけ。
それはまるで暗い森の中、誰かが落としていった綺麗な羽を自分の翼に刺して自分を美しく見せかけていた醜い烏のよう。物語の最後に、烏は自分が他の鳥の羽を刺して自分を偽っていたことが神にバレて、そんな己を恥ながら森の奥へと帰っていった。
今の尾坂も同じようなものだ。尾坂はもう、他人を観察して得たものを纏い、それを維持し続けることに疲れてしまった。
だから、米国留学を終えたことを期に優等生を演じることをやめたとだけ言った。
「そうですか」
「ええ、そうです。しかしながら、これだけは勘違いなされないよう。私は無理して自分を押さえ込むのをやめただけであって、自身の立場を忘れたわけではありません」
「あら、あれだけ激しい女遊びをなされていると噂になっおりますのに?」
帰国後、尾坂についた悪評のうちのひとつだ。
尾坂は恩賜組であり、員外学生として米国留学までしてきた男である。確かに陸軍大学を卒業していない以上は、いくら砲工学校高等科を首席で卒業していようとも所詮は技術将校でしかないとして軽視されるだろうが、しかしながら彼は恩賜組なのだ。
普通だったら員外学生として外部の大学に留学してきた将校は「特別抜擢組」と称され、軍務復帰後遅くとも半年以内には中央三官衙かその下部組織に引き抜かれているはず。
だが、既に大学卒業から半年以上が経過しても、尾坂にはどこかに引き抜かれる気配さえ無かった。おまけとばかりに、尾坂が帰国後に放り込まれた配属先は彼の原隊である広島の工兵第五連隊。普通だったら近衛か、そうでなくとも東京周辺の部隊で中隊長が妥当だと思うのだが、尾坂はその華々しい経歴とまったく釣り合わない不遇な扱いを受けていた。
その直接の原因となったできごとは定かでは無いが、最も有力なのは上層部に余計なことを言って不興を買ったことだと噂されていた。
真相は不明だが、尾坂が上層部から嫌煙されているのは本当のことらしい。火の無いところに煙など立たないのだ。
それに腹を立てたのかは判らないが、帰国後の尾坂はまるで人が変わったように派手に仕立てた軍服を纏って夜な夜な遊びに出るようになったという噂が東京にまで流れて来ていた。
今まで悪所になど一切通わず、品性方向な歳上受けする大人しい優等生だったのが嘘のように尾坂は夜遊びを繰り返すようになったらしい。
遊び相手は女だけではなく、最近は男にまで手を出しているという噂さえあった。だがどれも確証の無い、実態の無い噂でしかない。
だから、尾坂は「ふー……」と、肺がしぼんで戻らなくなるのでは無いかというほど深い深いため息を吐いて目を閉じる。
「そんな下らぬ流言蜚語に惑わされるなど、淑女にあるまじき思慮の浅い愚行。物証も無い、決定的な現場を押さえた訳でもないではないですか。ただの噂を鵜呑みになされるその軽率さは、これを限りに改めた方がよろしいかと」
「あら、そうですか。ですがお兄様。火の無いところに煙は立たないと、よく言われていますでしょう?」
「……レディ、何が言いたいのでしょうか」
こんな所にまで来てお説教などこりごりだ、とばかりに尾坂は半目になった。
「これを期に、少しは派手な行動をお控えになったらよろしいでしょう? わたくしはただ、貴方のような本物の紳士が下品な噂を立てられるのが忍びないだけです」
「そうですか」
ふっと、口の端に皮肉げな笑みを浮かべて、尾坂は鼻で笑った。
もしやこのじゃじゃ馬娘は、自分が気づいていないとでも思っているのだろうか。確かに最初は不意を突かれたせいでまんまと嵌められたが、それで調子に乗ってもらったら困る。
あいにくこちらは陸大こそ卒業していないとはいえ、幼年学校卒のれっきとした将校なのだ。おまけとばかりに尾坂は父親から数々の交渉術や、帝大の教授を招いての心理学まで習っていた実績まである。それについては非常に複雑な心境なのだが。
「ええ、ですからお兄様……」
「……そのわざとらしい会話の引き延ばし、もうお止めになったらいかがですか。レディ、慣れないことはやるものではありませんよ」
───特に、その筋の玄人の前では。
そこでようやく尾坂が貴婦人の方に視線を寄越す。だがその瑠璃色の瞳に宿っていたのは、底冷えするような冷酷な光だけ。
まるでどこかの外国の話に出てきた、復讐に取り憑かれた狼が人間に向ける目のようだ。まさか彼からそんな視線を向けられるとは思っていなかった貴婦人は息を呑む。
「………あら、なんのお話でございましょう」
「その下手な演技を止めなさいといっておるのです。まさか、私が気づいていないとも? この車が、貴女のご自宅である来栖伯爵家がある横浜とはまったく異なる方向に向かっているということに」
まるで全てを見透かしているような瑠璃色の瞳に射抜かれ、貴婦人は表情ひとつ変えぬままこめかみに冷や汗を流す。
「工兵将校を舐めないで頂きたい。我々は陣地作成の玄人ですよ(※13)。この辺りの地図は既に頭の中に存在しております。出発した場所と方角、それに速度さえ判れば自身の現在地がどの辺りなのかだいたい検討を付けられますが何か」
「っ……」
二人を乗せた車が向かっている先に来栖伯爵家の屋敷はない。伯爵の屋敷があるのは神奈川県の横浜だ。本来ならば南に向かわねばならないのに、この車がまっすぐ向かっているのは東。このまま行けば、車は東京府内の目白にたどり着く。
そう──二人の実家である九条院侯爵家の屋敷がある目白に。
「最初からそのつもりで私を騙して、九条院家に連れて行くつもりだったのでしょう」
「……」
「無言は肯定とみなしますが」
カチャン、と軍刀が軽い金属音を奏でる。尾坂の左手が車のドアにかかった瞬間、貴婦人は彼の右腕を自身の両手で押さえ込んで止めることに成功した。
「……レディ、私があの家の敷居を二度と跨がぬと宣言しているのを知った上でこのような暴挙に出たのでしょうか」
「ええ、当然でしてよ。あの日、わたくしの目の前で貴方が今と同じことを仰って出ていったときの後ろ姿を、忘れた日などございませんから!」
あの家に行くくらいなら、危険を覚悟で今すぐ車から飛び降りて出ていってやるということだろうか。いくらこの雪が緩衝材になってくれるだろうとはいえ、走行中の車から飛び降りるなど正気の沙汰ではない。
それだけ嫌なことだったのだ。それを誰よりも知っているはずの貴婦人からの、裏切りともとれる行為に憤りを感じたのだ。
なぜ、どうしてそのような暴挙に出たのだ。と、生まれ持ったプライドの高さ故なのか、なんとか怒りを呑み込んで下手に出て、理由を問い質すという緩衝材を挟んでくれたのが貴婦人にとっての救いだった。
「まさか私と父上の仲を取り持つためだとか仰られるつもりでしょうか。それを余計なお節介というのです。レディ、あの男と私が和解することなどありえません。あれはそういう男です。私のことを自分にとって都合の良いお人形としか見ていない男です。そんな男と仲良くするくらいならば、今すぐこの場で腹を切って自害した方がマシです」
「──いいえ、お兄様。本日ばかりは、たとえお兄様と言えども逃げられませんことよ」
だが貴婦人も負けてはいない。元より彼女の目的は、父親のそれとはまったく違う。たまたま、父親の思惑を利用しただけに過ぎないのだ。だからこそ、貴婦人は堂々と勝負をしかけた。
「本日、九条院家では主だった親戚を集めて会合が行われます。表向きには胡二郎お兄様のご婚約成立に伴う懇親会となっておりますが、もうひとつだけ目的がございますの」
「それは、どのようなものですか。返答次第では、私はここから飛び降ります……!」
乗ってきた。その言葉が引き出したかったのだ。ここから先はもう貴婦人の独壇場。これを聞いたら、尾坂は九条院家に行かざるをえなくなるだろう。
彼が、自分をもう華族の籍から外してほしいと切に願っているのなら。
「おもう様は来年を目処に引退されます。そこで、後継をお決めになって正式に発表されますの」
「私が聞きたいのは、なぜそれに顔を出さねばならぬかということです。父上の後継など、樟一郎様以外におられない。結果が判りきっている話し合いに参加するほど、私は暇ではありませんよ」
「その、正式に後継をご指名される現場に、おもう様から溺愛されていた貴方がいなければ、会合に集まられた方々はそれをどう受け取られるか……賢いお兄様ならもうお判りになるでしょう」
「!?」
そこに隠された意図に気づいてハッと息を呑む。
侯爵が三男である尾坂を偏愛していたことは、狭い華族社会のなかでは知る人ぞ知ると言われているほど有名な話だ。そう、問題はそこにある。
侯爵が後継を指名して正式に発表する場に、侯爵から溺愛されていた自身がいなかったら?
まず間違いなく「三男は長男が爵位を受け継ぐことに賛同していない」と思われるに決まっている。なにせ一時期、侯爵は長男ではなく三男に爵位を継がせるつもりなのではとまことしやかに囁かれたほどだ。たとえ真実は真逆で、尾坂が華族の軛から逃れたがっているのだとしても、世間はそう思ってくれない。
三男は爵位を狙っているから、長男が家督を継ぐのに反対して賛同しないことを欠席することで示した。そう捉えられる状況だ。
つまり、父親から逃れたくて家を出て養子に入った尾坂にとっては行かざるをえないということ。自分が東京に呼び戻された背景にまさかこんな巨大な陰謀と罠があったとは思っていなかった尾坂は衝撃を受けて固まる他無い。
今まで、侯爵周辺の情報は探偵を雇ったり、参謀本部にいる先輩と後輩を通じて手に入れながら常に情報網をはりめぐらせ、わずかな異変でさえも見逃さないとばかりに気を張っていたというのに。
気がつかなかった。その片鱗にさえ。そんな事実が、尾坂をひどく打ちのめす。
「っ……!」
「ご理解されたらそれで良いのです」
車がゆっくりと速度を落としていく。どうやら、時間稼ぎは成功したらしい。車はいつのまにか大きな門を潜り抜けて、広大な敷地の中に入っていく。
「到着したようですわ、お兄様……」
すっかり血の気の失せた尾坂の眼前には、もう二度と戻るまいと誓った生家の姿があった。
※12:幼年学校では音楽の授業も重視されていました。ただし、教養としてではなく「敵陣の中でも音を聞き分けられるようにする訓練」のためです。
※13:工兵の仕事のひとつが「地図の作成」です。実際に卓越した測量技術を持つ方が多く、参謀本部にある陸地測量部はまさしく工兵の城でした。工兵さんは軍隊の何でも屋的気質が強いので、意外ですが「工兵には自由な発想が求められる」と記されています。教科書に載っている前例通りにやると酷評を受けることさえあったそう。
学校の設立が他の兵科よりも遅れたのも、そういった背景があったとか。
0
お気に入りに追加
24
あなたにおすすめの小説

今日は私の結婚式
豆狸
恋愛
ベッドの上には、幼いころからの婚約者だったレーナと同じ色の髪をした女性の腐り爛れた死体があった。
彼女が着ているドレスも、二日前僕とレーナの父が結婚を拒むレーナを屋根裏部屋へ放り込んだときに着ていたものと同じである。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

義妹が大事だと優先するので私も義兄を優先する事にしました
さこの
恋愛
婚約者のラウロ様は義妹を優先する。
私との約束なんかなかったかのように…
それをやんわり注意すると、君は家族を大事にしないのか?冷たい女だな。と言われました。
そうですか…あなたの目にはそのように映るのですね…
分かりました。それでは私も義兄を優先する事にしますね!大事な家族なので!

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

【完結】初めて嫁ぎ先に行ってみたら、私と同名の妻と嫡男がいました。さて、どうしましょうか?
との
恋愛
「なんかさぁ、おかしな噂聞いたんだけど」
結婚式の時から一度もあった事のない私の夫には、最近子供が産まれたらしい。
夫のストマック辺境伯から領地には来るなと言われていたアナベルだが、流石に放っておくわけにもいかず訪ねてみると、
えっ? アナベルって奥様がここに住んでる。
どう言う事? しかも私が毎月支援していたお金はどこに?
ーーーーーー
完結、予約投稿済みです。
R15は、今回も念の為
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる