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(5)強がりの中の弱さ③
しおりを挟む「足元にご注意なさってください」
感情など一切挟まぬ異様なほど冷淡な声だった。まるで、わざとそうしているのでは無いかと勘繰ってしまうほど。
人間味の薄い機械的な動作であったが、動きかた自体は非常に滑らかで澱みがない。一朝一夕で身に付けたものではなく、幼い頃から訓練を積み重ねてきた者しかできない動きだった。
慣れたように貴婦人をエスコートしながら、尾坂は一切の無駄が無い動きで歩いていく。
いや、実際に手慣れているのだろう。彼のついての噂は、遠く離れた東京にまで届いているから。
「慣れていらっしゃるのですね」
「………先に述べた通り、万が一ということがあります。私とは、あまり口を利かれぬ方が賢明かと」
「ただの世間話でしてよ。これくらいでしたら、問題は無さそうですわ」
「レディ、何を根拠にそのようなことを仰られるのですか」
「ダンスの相手をしてくださった方々と繰り返しお話しして、どの辺りが問題になるのかという線引きについては完璧に理解しているつもりですのよ。なにせ結婚してもうすぐ八年になりますので、それなりの経験も積ませて頂いております」
「そうですか。で、あるならば余計に節度ある行動を保たれるようになさられるようお願い申し上げます」
顔さえ向けずに事務的に釘を刺しつつ尾坂は歩いていく。
ちらりと視線を向けてみた。相変わらず、彫刻のように美しい横顔をしている。
彫りの深い端整な顔立ちは、日本人とは別種と言っても良いだろう。しかしさりとて完全な外国人とも言えない。どこか異国の血を感じさせるが、不思議と日本人だと思える顔。亜細亜人特有の薄い顔立ちを持つ貴婦人や、彼女の兄妹達とは似ても似つかぬものだ。
なぜ彼だけ他の兄妹と違って外国人の血を引いているのか。答えは簡単だ。彼の実母の父親、つまり彼にとって母方の祖父に当たる人物が北欧出身だったから。なので当然ながら尾坂の実母は侯爵の正妻ではない。尾坂はいわゆる庶子というやつだった。
彼の実母についての正確な情報は何一つとして残っていないが、宵の空のように深い青色の瞳にその面影が濃く残っている。
ぞっとするほど美しい顔だ。あの九条院侯爵を夢中にさせたことにも、納得がいくくらいの。
「………淑女は殿方の顔をそのようにジロジロ見たりしませんよ」
「あら、ごめんなさい。つい見とれてしまいましたわ。貴方があまりにも凛々しく、颯爽と歩かれていらっしゃったので」
どうやら見ていたことがバレたらしい。しっかりお小言を貰ったが、ここはさすが伯爵令息夫人というか。あっさり受けて流した。
「米国でもさぞかし数多の女性と浮き名を流されたのでしょうね」
「留学中、私が女性と遊び回っていたとでも仰るおつもりですか。そんなまさか。海外留学は軍の命令によるものです。五大湖工業地帯を始めとした米国国内の視察に加えて……大学に通いながら現地の工兵連隊にも勤務しておりましたゆえ、そのような遊びに現を抜かす時間などございませんでした」
「あら、そう。でも帰国されてからは随分と遊び回られているようですね」
「……今、なんと?」
気になる発言を耳にして、尾坂はスッと目を細める。カツン、と甲高い音を立てて靴底が玄関の大理石を叩いた。話していたらいつの間にか外まで来ていたらしい。
使用人が玄関を開けるとその瞬間、待ってましたとばかりに突風が駆け込んできた。
頬を掠めていく風はこの時期にしては異様なほど冷たい。それに雲行きも、来たときよりさらに不穏なものへと転がっていた。
「失礼………雪が降りそうです」
「あらいやだ。十二月の東京ですのに?」
「条件が揃いさえすれば十二月の帝都であろうと雪は降ります。お車まで急ぎましょう。あまり外に長居すると、防寒着があるとはいえ風邪を引いてしまいますから」
一応、最低限の礼儀として早めに車内に入るように促す。さすがというかなんというか、運転手はこれから寒くなるのを察したらしく、玄関を出てすぐの所に車を停めて待機していた。
なお、貴婦人は尾坂の心配を他所に手袋を挟んで伝わる掌の感覚をそっと噛み締めている。
一見すれば男装の麗人にも見えなくない華奢な体躯を持つ尾坂であったが、実際に近付いて触れてみればそれは間違いだと思わざるをえない。いくら長く優美な指を持っていようとも、彼の掌は非常に大きく間接も太くなっているのだ。
陸軍の工兵将校として、長年に渡り銃や円匙を持って長時間を行軍するなど過酷な訓練を受けてきたことを物語っていた。誰だって彼に手を触れたその瞬間、この美しい陸軍将校が紛れもなく男性としてこの世に生を受けたのだと思い知らされるだろう。
「少々お待ちを」
などと考えていたら、その手がするりと離れていった。別にエスコートを放り出した訳ではない。後部座席のドアを貴婦人のために開けるために離れただけだ。
「どうぞ、足元にお気をつけください」
「あら、ありがとう」
クスリ、と微笑み貴婦人は当然のように車に乗り込む。
後は貴婦人が完全に中に入った事を確認した後、後部座席ドアを閉めて助手席に乗り込めば完了……だった。
「お兄様、少々こちらを見ていただけませんこと?」
貴婦人が切羽詰まったように声を張り上げた。何かトラブルでも起きたのだろうかと思い、尾坂が後部座席をそっと覗き込んだその瞬間。
「!!?」
ぐいっと、貴婦人細腕が尾坂を車内に引きずり込む。
華族として生まれ育ち、荒事になれていない貴婦人のか弱い腕だ。決して、抗えぬほど強かった訳ではない。そもそも尾坂は訓練を積んだ軍人であるため、まず普通の状態だったら引きずり込まれるようなことは無かっただろう。
しかし、貴婦人にもそれは判っていた。だからこそ、嵌め手を使うことにしたのだ。
突発的に思い付いた事だったが、怖いくらいにあっさりと成功してしまった。尾坂の体勢が不安定だったのと、それと貴婦人の切羽詰まった声に焦ってしまったためか。バランスを崩して、咄嗟に受け身を取るために車内に入ってしまった。
「───車を出してちょうだい」
「判りました、奥様」
「ちょっ……」
この好機を逃す貴婦人ではない。すぐさま運転手に命じて車を発進させた。
これに慌てたのは尾坂だ。なにせまだ後部座席のドアを閉めていない。このまま発進すれば危ないということを良く理解していたゆえに慌てたのだ。仕事柄、発動機だけでなく車体そのものにも詳しい尾坂でなくとも、これくらい誰だって判るだろう。
考える間も無く脊髄反射に等しい反応速度を見せながら、尾坂はドアを勢い良く閉める。あわや動き出す寸前、という危ない所だった。尾坂がぎゅっと唇を噛んで何かに耐えるように顔をしかめる。
「っ………!」
「兄様、どうかなされましたか? どこか、ぶつけてしまわれましたか?」
「………なんでもありません、レディ。それより、なにをなさるのです」
「あら、ごめんなさって。こうでもしないとお兄様、隣に座ってくれなさそうでしたもの」
「危険な真似はお控えください! 貴女の身になにか起きたら……」
「だから言ったでしょう? ごめんなさって、と」
「っ………!」
あっけらかんと言い放った貴婦人に言いたいことはたくさんあったが、これは相手に出し抜かれた尾坂に責任がある。それにもう車は動き出していたため、今さら降りて助手席に移動することはできない。
不承不承というようにぐっと拳を握り締めて堪え、尾坂は腰の軍刀を外して足の間に立てつつ、柄の上で掌を重ねて置いて車内で待機する際の姿勢を作る。
「……あら、雪」
「………」
「雪が降ってきましたわ、兄様」
機嫌を損ねてしまったらしい。黙ったままの彼に対し、さすがにバツが悪かったのか貴婦人が様子を伺うように声をかける。
今までずっと雲行きが怪しかったが、予感は的中してしまったらしい。陽も沈んですっかり暗くなりつつある空を覆い尽くす雲の隙間から、ちらほらと白い影が降ってきた。
雪だ。大粒の牡丹雪が、ぼろぼろと音を立てながら降ってくる。
「思い出しますわ。貴方と出会った日も、たしか……雪が降っていましたわね」
「……そうですか」
「あら、覚えてらっしゃらないのかしら?」
「もう二十年近く前のことですから」
────嘘だ。
直感的にそう悟った。貴婦人は自分の隣に座る兄が非常に賢いことを知っている。たとえ二十年も前のことであろうと、覚えていないわけがない。
(……ええ、そうね。兄様……貴方と出会った日は、確かにこんな雪の降る日でしたわね)
そして───貴方と訣別した日も、このような雪の降る寒い日の朝のことでした。
不意に貴婦人が目を閉じる。彼女の瞳に今なお鮮明に焼き付き離れない、あの運命の日に起きた出来事を思い返すために。
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