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(4)強がりの中の弱さ②
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「実は大尉に折り入って頼みごとが」
「な、なんでしょう。私に頼みとは……」
「初対面の相手に頼みごとを願い出るなど図々しいと承知しておりますが、こればかりは貴方にしか頼めません。先の通りに僕はこれから省の方に戻らねばならなくなったので、僕の代わりに妻を送って頂きたいのです」
「は?」
嫌な予感はこれ以上ないほど正確無慈悲に的中した。
思わず、尾坂が彼の妻である貴婦人の方をまじまじと見てしまったのも無理はない。普段の彼だったら女性──それも人妻を不躾にもジロジロ見るなどという、はしたない真似は決してしないのだが、この時ばかりは仕方が無かっただろう。
「ええ、そうですの。最近はこの辺りも何かと物騒なお話が流れておりますし、そろそろ暗くなってくる頃ですから。お兄様が隣にいて下さったら、わたくしも安心できますわ」
「車があるとはいえ若い婦人を一人で帰らせて、犯罪にでも巻き込まれたら大変です。しかし、隣に現役の陸軍将校が座っているのが見えれば、不逞の輩もさすがに手出しは出来ないでしょう」
「……お言葉ですが、私は一介の工兵将校です。憲兵ではありませんよ」
どうにかこの状況から逃れようと、ヤケクソになりながら思い付いた言い訳を口にする。
泣く子も黙る悪名高き憲兵ならまだしも、何の権限も無いただの工兵将校でしかない自分に護衛の任は荷が重いと。
だが次の瞬間、自分の考えが甘かったことを尾坂は思い知らされた。
「ハハハ、そう謙遜されなくても。貴方の武勇は聞き及んでおりますよ。その華奢な体躯に見合わず、柔道も剣道も有段者。軍学校では自分の倍以上の体格を持つ上級生をも軽くいなした猛者だとか。体術だけでなく射撃の腕も相当なものだそうですね」
「それは……その、軍人として当然のことですから」
「その上、米国の名門、フォルト・デュポン工兵連隊に所属されていた(※10)際に行われたフェンシングの大会でも、飛び入り参戦で優勝されたとか(※11)」
フェンシング、という単語を聞いた瞬間、尾坂がびくりと身を跳ねさせた。よく見るとこめかみの辺りに冷や汗が伝っていたのだが、幸いにも誰も気付くことはなかったらしい。
「その腕を見込んで頼んだのです。それとも大尉。貴方は強盗や婦女子を狙う卑劣な犯罪者が出てくるかもしれぬ夜道を、か弱いご婦人一人で帰れと仰るおつもりでしょうか」
「っ!」
しっかりとトドメを刺されてしまった。断ることができない所まで追い詰められたことを察した尾坂は、助けを求めるかのように奥池の方に向き直る。しかし、無情にも奥池は「南無三」とばかりに両手を合わせて悟りを開いた仏僧のような表情をしているだけ。
(……後で絶対、胃に孔を開けよう)
それでやっと、自分を生贄にして差し出してきた奥池に対して湧き上がった苛立ちを腹の中でプチッと潰すことに成功した。近い内に奥池の胃にストレスによる孔を開けてやると、物騒なことを誓った尾坂はそれでもなんとか逃げられないか考えながら後頭部を擦る。
陸軍軍人としては珍しく、櫛が通るほど長い髪がさらりと揺れた。指触りの良い烏の濡羽色の髪。それを最低限の手入れしかしていないのに維持していると知られれば、世の婦人の嫉妬を買うこと間違いなしだろう。
「……判りました。ご自宅までの護衛程度でしたらお受けいたします」
「ありがとうございます、大尉」
「ただし──」
これだけは譲れない、と言わんばかりに鋭くした視線でスッと周囲を見渡して。尾坂はその可憐な赤い唇から条件を紡ぎ出す。
「……私は助手席に座ります。護衛であるならばそれで充分でしょう」
「あら、どうして? お兄様」
しかし相手は余裕のままだ。まだ手札があるのかと思い、焦りを悟られぬようになるべく無表情を保ちながらも理由を述べる。
「…………ご自身の立場もお考えください、レディ。私が貴女の隣に座っている姿が、万が一誰かに見咎められでもしたら……あ、貴女が愛人と一緒にいると思われるかもしれないでしょう……!」
「あら?」
尾坂がこっそりと音量を小さくして囁いた言葉に、こてんと首を傾げて貴婦人は微笑んだ。
そのまま、焦りを滲ませる尾坂の顔をじっと観察する。
(本当に……貴方は、とても美しい方)
室内であるため帽子は被っておらず、その美貌を隅から隅までじっくり観賞することができた。
すっきりとした顎のライン、見本のように整った柳眉。鼻筋はつんと通っており、彫りの深い端正な顔立ちを際立たせる。目元涼しげな印象を与える切れ長の目は、実は油断したらとろんと眠たげになってしまうことも貴婦人は知っていた。
二重のお陰か大きく見える瞳は、太陽が沈んだ直後でまだ少し明るい宵の空のような不思議な青色に染まり、万華鏡のようにコロコロとその表情を変えていく。
そして何より、男にしては些か赤味が強い可憐な唇と長い睫毛。それが、綺麗な顔に華を添えていた。
それだけではない。きゅっと引き締まった足首に滑らかな曲線を描く脹脛から視線を上に撫でていくと、軍袴の上からでも判るほど瑞々しい若鹿のような太腿がある。五尺四寸越えの長身だが、胴が短いためそれに伴って腰の位置が高く、すらりと長い脚。
華奢だが女のようというわけではなく、無駄を極限まで削り落として鍛え上げた筋肉が、ふとした瞬間男くささを匂わせた。
まるで作り物のように均整の取れた、素晴らしい肉体を瀟洒に仕立てた軍服に包み込んでいる。生地がカーキ色であるため少々地味さがあったが、その瞳の鮮やかな青色を引き立てるためにわざとそうしていると言われたら納得がいく。
目鼻立ちの揃った、ともすれば男装の麗人に見えなくもない絶世の美男子。それが、尾坂仙という青年だ。
(わたくしなどよりも、ずっと……ずっとお美しい。まるで宵の明星のような方……)
明星とは金星のこと。そして古来より、金星は美を司る神々の化身とされてきた。
メソポタミアのイナンナ、希臘のアプロディーテー、そして羅馬のウェヌス。いずれもそれに該当する。
男性である彼に対してこれらの表現はどうかと思うが、それくらいしか妥当な表現が思い当たらぬほどに彼は美しい青年だった。
「もしも私が狭い車内で貴女の隣に座っている所を質の悪い新聞記者にでも見られて、都合の良いように脚色された醜聞でも書かれたらどうするのです」
「あら、どうなるのかしら?」
「マスメディアというものは売れるためならば、それがどのような虚構であろうと、さも事実であるかのごとく書くのが得意な人種ですよ。ご自身が来栖伯爵家令息夫人というお立場にあられることを、もう少しだけで良いので重く受け止めてください。伯爵家の令息夫人が、陸軍の軍人を愛人にしているなどという噂が広まりでもしたらどうなさるおつもりですか」
人目があるのを憚ってか、声をすぼめて早口で囁く。だがそれでも貴婦人は動じない。
なぜ、そんなに余裕があるのだろうか。その答えはすぐに出てきた。
「あら、でしたら何も問題はありませんことよ」
「なぜ……?」
「ええ、だって───貴方と私は、血を分けた実の兄妹ですもの」
と、貴婦人は天使のような微笑みで、尾坂にとっては悪魔のような事を言い放つ。
尾坂は養子に入ったため、芙三は結婚したため。それぞれの理由で今は名字が変わっているが、元々は同じ九条院家に産まれた兄妹。妙な醜聞を書いたところで、恥を書くのは文屋の方だ。
それを判っていたからこその強気だったのだろう。今度こそ完全に、尾坂の敗北が決定した。
だが、尾坂とて現役陸軍将校。このまま黙ってやられっぱなしという訳にもいかぬ。
「………兄妹で押し通すおつもりだと仰られるのならば」
低く、牽制するような声。まるで唸る狼のようだったが、その声音の変化に気付いたのは貴婦人と奥池だけ。
貴婦人は少し肩を竦めるだけだったが、奥池は怯えたようにひきつった愛想笑いをしていた。
「最後まで手を抜かずに徹底的にそう振る舞われるように。私からは以上です」
瑠璃色の瞳が不穏な光を宿してこちらを捉えたことで、奥池は腹の底に突き刺さる居心地の悪さに息を詰めて冷や汗を流す。
意外なことに、尾坂はされたことに対して割りと根に持つタイプだ。相手が泣いて謝るまで、もしくは自分が手綱を緩めるまで、延々と精神攻撃をしてくる。それも迂闊に怒れば自分が悪者になるような、当たり障りの無い言葉の組み合わせを使って。
いったい何を食っていたらそんな悪辣な返しができるのだと、ある意味尊敬できるくらいに頭が回る。激しく怒ったりはしないがその分、どうやったら相手に効率的に最大級のダメージを負わせられるのかしっかり計算して考えてから、忘れた頃に報復をするのが尾坂仙という男だった。
「ああ、そうだ。奥池中佐殿」
「あ……うん、どうした?」
「後で、じっくりと……お話したいことがございますので、どうか日頃から自慢されている可愛い部下のためと思い、もちろん……応じてくださいますよね……?」
ひっ、という情けない声。一応はお伺いを立てるような物言いだったが、断れるような雰囲気ではないのは明白だ。
「わ、判った……ま、まあ、可愛い部下の頼みだしな! 相談くらいになら乗ろう!」
「ええ、そうですね。明日、汽車の中でじっくり……意見を交わしましょう。ええ、ええ。なにせ東京から広島まで片道二十時間、時間だけはたっぷりありますから……」
───早めに謝ろう。
奥池は心に誓った。広島までの二十時間、延々と精神を抉られ続けるなどまっぴらごめんだったから。
「行きましょう、レディ。お車までエスコートさせていただきます」
「よろしくお願いいたしますわ、お兄様」
「では、我々はこれにて失礼いたします」
貴婦人の手を、真っ白な手套に覆われた手でそっとすくいとって口付けて。
部屋を辞すため一礼した後、貴婦人と尾坂は部屋に残った三人に見送られながら颯爽とその場を後にした。
※10:フォルト・デュポン工兵連隊は米国の名門部隊で、かのマッカーサー元帥も一時期所属されていたそう。有名な話ですが、マ元帥は工兵出身の方です。
騎兵や歩兵と違って創作物ではあまり見かけない(というか数が少ないから資料があまりない上に泥臭いイメージ的に不人気なのか……?)工兵ですが、実は海外ではエリート部隊。日本でも、工兵は士官学校を優秀な成績で卒業された方が多かったそうです。
※11:尾坂大尉のエピソードとして書きましたが、これは員外学生として京大土木工学科を卒業された工兵科将校、鎌田銓一(かまた せんいち)閣下の米国駐在中の実話です。閣下が「要は突きの剣道だろう」と参加されたフェンシングの大会でうっかり優勝しちゃったというエピソードがモデルになっております。(その後、拳銃を贈呈されたそう)
閣下がどういう方かと言いますと
・員外学生として京大を卒業した後、さらにイリノイ大学とマサチューセッツ工科大に通う
・米国駐在中は日本陸軍の軍人でありながらフォルト・デュポン工兵連隊に入隊。いきなり大隊長に任ぜられ、日米両国の部隊で指揮官を経験することに
・排日感情が日に日に高まる米国国内にあっても、米国人である部下達からも絶大な信頼を向けられていた
・今までやったことさえ無かったフェンシングの大会で、なんと優勝
・マッカーサー元帥はこの頃から閣下の存在を知っていた
・東條に疎まれて大陸に飛ばされる
・終戦後、自害寸前で本国に呼び戻されて、分割の危機に晒されていた日本と皇室を救うべく、マッカーサー元帥との交渉の役を担った
という二次元もびっくりな異色の経歴の持ち主の方です。
おそらくこの人がいなければ、今の日本はなかったと言っても過言では無いでしょう。(しかしなぜこんなにも知名度が低いんだ……)
「な、なんでしょう。私に頼みとは……」
「初対面の相手に頼みごとを願い出るなど図々しいと承知しておりますが、こればかりは貴方にしか頼めません。先の通りに僕はこれから省の方に戻らねばならなくなったので、僕の代わりに妻を送って頂きたいのです」
「は?」
嫌な予感はこれ以上ないほど正確無慈悲に的中した。
思わず、尾坂が彼の妻である貴婦人の方をまじまじと見てしまったのも無理はない。普段の彼だったら女性──それも人妻を不躾にもジロジロ見るなどという、はしたない真似は決してしないのだが、この時ばかりは仕方が無かっただろう。
「ええ、そうですの。最近はこの辺りも何かと物騒なお話が流れておりますし、そろそろ暗くなってくる頃ですから。お兄様が隣にいて下さったら、わたくしも安心できますわ」
「車があるとはいえ若い婦人を一人で帰らせて、犯罪にでも巻き込まれたら大変です。しかし、隣に現役の陸軍将校が座っているのが見えれば、不逞の輩もさすがに手出しは出来ないでしょう」
「……お言葉ですが、私は一介の工兵将校です。憲兵ではありませんよ」
どうにかこの状況から逃れようと、ヤケクソになりながら思い付いた言い訳を口にする。
泣く子も黙る悪名高き憲兵ならまだしも、何の権限も無いただの工兵将校でしかない自分に護衛の任は荷が重いと。
だが次の瞬間、自分の考えが甘かったことを尾坂は思い知らされた。
「ハハハ、そう謙遜されなくても。貴方の武勇は聞き及んでおりますよ。その華奢な体躯に見合わず、柔道も剣道も有段者。軍学校では自分の倍以上の体格を持つ上級生をも軽くいなした猛者だとか。体術だけでなく射撃の腕も相当なものだそうですね」
「それは……その、軍人として当然のことですから」
「その上、米国の名門、フォルト・デュポン工兵連隊に所属されていた(※10)際に行われたフェンシングの大会でも、飛び入り参戦で優勝されたとか(※11)」
フェンシング、という単語を聞いた瞬間、尾坂がびくりと身を跳ねさせた。よく見るとこめかみの辺りに冷や汗が伝っていたのだが、幸いにも誰も気付くことはなかったらしい。
「その腕を見込んで頼んだのです。それとも大尉。貴方は強盗や婦女子を狙う卑劣な犯罪者が出てくるかもしれぬ夜道を、か弱いご婦人一人で帰れと仰るおつもりでしょうか」
「っ!」
しっかりとトドメを刺されてしまった。断ることができない所まで追い詰められたことを察した尾坂は、助けを求めるかのように奥池の方に向き直る。しかし、無情にも奥池は「南無三」とばかりに両手を合わせて悟りを開いた仏僧のような表情をしているだけ。
(……後で絶対、胃に孔を開けよう)
それでやっと、自分を生贄にして差し出してきた奥池に対して湧き上がった苛立ちを腹の中でプチッと潰すことに成功した。近い内に奥池の胃にストレスによる孔を開けてやると、物騒なことを誓った尾坂はそれでもなんとか逃げられないか考えながら後頭部を擦る。
陸軍軍人としては珍しく、櫛が通るほど長い髪がさらりと揺れた。指触りの良い烏の濡羽色の髪。それを最低限の手入れしかしていないのに維持していると知られれば、世の婦人の嫉妬を買うこと間違いなしだろう。
「……判りました。ご自宅までの護衛程度でしたらお受けいたします」
「ありがとうございます、大尉」
「ただし──」
これだけは譲れない、と言わんばかりに鋭くした視線でスッと周囲を見渡して。尾坂はその可憐な赤い唇から条件を紡ぎ出す。
「……私は助手席に座ります。護衛であるならばそれで充分でしょう」
「あら、どうして? お兄様」
しかし相手は余裕のままだ。まだ手札があるのかと思い、焦りを悟られぬようになるべく無表情を保ちながらも理由を述べる。
「…………ご自身の立場もお考えください、レディ。私が貴女の隣に座っている姿が、万が一誰かに見咎められでもしたら……あ、貴女が愛人と一緒にいると思われるかもしれないでしょう……!」
「あら?」
尾坂がこっそりと音量を小さくして囁いた言葉に、こてんと首を傾げて貴婦人は微笑んだ。
そのまま、焦りを滲ませる尾坂の顔をじっと観察する。
(本当に……貴方は、とても美しい方)
室内であるため帽子は被っておらず、その美貌を隅から隅までじっくり観賞することができた。
すっきりとした顎のライン、見本のように整った柳眉。鼻筋はつんと通っており、彫りの深い端正な顔立ちを際立たせる。目元涼しげな印象を与える切れ長の目は、実は油断したらとろんと眠たげになってしまうことも貴婦人は知っていた。
二重のお陰か大きく見える瞳は、太陽が沈んだ直後でまだ少し明るい宵の空のような不思議な青色に染まり、万華鏡のようにコロコロとその表情を変えていく。
そして何より、男にしては些か赤味が強い可憐な唇と長い睫毛。それが、綺麗な顔に華を添えていた。
それだけではない。きゅっと引き締まった足首に滑らかな曲線を描く脹脛から視線を上に撫でていくと、軍袴の上からでも判るほど瑞々しい若鹿のような太腿がある。五尺四寸越えの長身だが、胴が短いためそれに伴って腰の位置が高く、すらりと長い脚。
華奢だが女のようというわけではなく、無駄を極限まで削り落として鍛え上げた筋肉が、ふとした瞬間男くささを匂わせた。
まるで作り物のように均整の取れた、素晴らしい肉体を瀟洒に仕立てた軍服に包み込んでいる。生地がカーキ色であるため少々地味さがあったが、その瞳の鮮やかな青色を引き立てるためにわざとそうしていると言われたら納得がいく。
目鼻立ちの揃った、ともすれば男装の麗人に見えなくもない絶世の美男子。それが、尾坂仙という青年だ。
(わたくしなどよりも、ずっと……ずっとお美しい。まるで宵の明星のような方……)
明星とは金星のこと。そして古来より、金星は美を司る神々の化身とされてきた。
メソポタミアのイナンナ、希臘のアプロディーテー、そして羅馬のウェヌス。いずれもそれに該当する。
男性である彼に対してこれらの表現はどうかと思うが、それくらいしか妥当な表現が思い当たらぬほどに彼は美しい青年だった。
「もしも私が狭い車内で貴女の隣に座っている所を質の悪い新聞記者にでも見られて、都合の良いように脚色された醜聞でも書かれたらどうするのです」
「あら、どうなるのかしら?」
「マスメディアというものは売れるためならば、それがどのような虚構であろうと、さも事実であるかのごとく書くのが得意な人種ですよ。ご自身が来栖伯爵家令息夫人というお立場にあられることを、もう少しだけで良いので重く受け止めてください。伯爵家の令息夫人が、陸軍の軍人を愛人にしているなどという噂が広まりでもしたらどうなさるおつもりですか」
人目があるのを憚ってか、声をすぼめて早口で囁く。だがそれでも貴婦人は動じない。
なぜ、そんなに余裕があるのだろうか。その答えはすぐに出てきた。
「あら、でしたら何も問題はありませんことよ」
「なぜ……?」
「ええ、だって───貴方と私は、血を分けた実の兄妹ですもの」
と、貴婦人は天使のような微笑みで、尾坂にとっては悪魔のような事を言い放つ。
尾坂は養子に入ったため、芙三は結婚したため。それぞれの理由で今は名字が変わっているが、元々は同じ九条院家に産まれた兄妹。妙な醜聞を書いたところで、恥を書くのは文屋の方だ。
それを判っていたからこその強気だったのだろう。今度こそ完全に、尾坂の敗北が決定した。
だが、尾坂とて現役陸軍将校。このまま黙ってやられっぱなしという訳にもいかぬ。
「………兄妹で押し通すおつもりだと仰られるのならば」
低く、牽制するような声。まるで唸る狼のようだったが、その声音の変化に気付いたのは貴婦人と奥池だけ。
貴婦人は少し肩を竦めるだけだったが、奥池は怯えたようにひきつった愛想笑いをしていた。
「最後まで手を抜かずに徹底的にそう振る舞われるように。私からは以上です」
瑠璃色の瞳が不穏な光を宿してこちらを捉えたことで、奥池は腹の底に突き刺さる居心地の悪さに息を詰めて冷や汗を流す。
意外なことに、尾坂はされたことに対して割りと根に持つタイプだ。相手が泣いて謝るまで、もしくは自分が手綱を緩めるまで、延々と精神攻撃をしてくる。それも迂闊に怒れば自分が悪者になるような、当たり障りの無い言葉の組み合わせを使って。
いったい何を食っていたらそんな悪辣な返しができるのだと、ある意味尊敬できるくらいに頭が回る。激しく怒ったりはしないがその分、どうやったら相手に効率的に最大級のダメージを負わせられるのかしっかり計算して考えてから、忘れた頃に報復をするのが尾坂仙という男だった。
「ああ、そうだ。奥池中佐殿」
「あ……うん、どうした?」
「後で、じっくりと……お話したいことがございますので、どうか日頃から自慢されている可愛い部下のためと思い、もちろん……応じてくださいますよね……?」
ひっ、という情けない声。一応はお伺いを立てるような物言いだったが、断れるような雰囲気ではないのは明白だ。
「わ、判った……ま、まあ、可愛い部下の頼みだしな! 相談くらいになら乗ろう!」
「ええ、そうですね。明日、汽車の中でじっくり……意見を交わしましょう。ええ、ええ。なにせ東京から広島まで片道二十時間、時間だけはたっぷりありますから……」
───早めに謝ろう。
奥池は心に誓った。広島までの二十時間、延々と精神を抉られ続けるなどまっぴらごめんだったから。
「行きましょう、レディ。お車までエスコートさせていただきます」
「よろしくお願いいたしますわ、お兄様」
「では、我々はこれにて失礼いたします」
貴婦人の手を、真っ白な手套に覆われた手でそっとすくいとって口付けて。
部屋を辞すため一礼した後、貴婦人と尾坂は部屋に残った三人に見送られながら颯爽とその場を後にした。
※10:フォルト・デュポン工兵連隊は米国の名門部隊で、かのマッカーサー元帥も一時期所属されていたそう。有名な話ですが、マ元帥は工兵出身の方です。
騎兵や歩兵と違って創作物ではあまり見かけない(というか数が少ないから資料があまりない上に泥臭いイメージ的に不人気なのか……?)工兵ですが、実は海外ではエリート部隊。日本でも、工兵は士官学校を優秀な成績で卒業された方が多かったそうです。
※11:尾坂大尉のエピソードとして書きましたが、これは員外学生として京大土木工学科を卒業された工兵科将校、鎌田銓一(かまた せんいち)閣下の米国駐在中の実話です。閣下が「要は突きの剣道だろう」と参加されたフェンシングの大会でうっかり優勝しちゃったというエピソードがモデルになっております。(その後、拳銃を贈呈されたそう)
閣下がどういう方かと言いますと
・員外学生として京大を卒業した後、さらにイリノイ大学とマサチューセッツ工科大に通う
・米国駐在中は日本陸軍の軍人でありながらフォルト・デュポン工兵連隊に入隊。いきなり大隊長に任ぜられ、日米両国の部隊で指揮官を経験することに
・排日感情が日に日に高まる米国国内にあっても、米国人である部下達からも絶大な信頼を向けられていた
・今までやったことさえ無かったフェンシングの大会で、なんと優勝
・マッカーサー元帥はこの頃から閣下の存在を知っていた
・東條に疎まれて大陸に飛ばされる
・終戦後、自害寸前で本国に呼び戻されて、分割の危機に晒されていた日本と皇室を救うべく、マッカーサー元帥との交渉の役を担った
という二次元もびっくりな異色の経歴の持ち主の方です。
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