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十二・五「あまやどり」
(65)明日はきっと晴れるはず
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雨は止み、空は一転からっと晴れた春の午後。呉駅へと向かう大通りで、いがみ合っているはずの海軍と陸軍の士官二人が仲良く雁首揃えて歩いている姿が多くの人間に目撃された。
「いささか無礼な振る舞いを行ってしまったかと思いますが、本日はありがとうございました。少佐殿」
「おん……」
黒ゴマ備長炭の衝撃も覚めやらぬまま、睦郎はどこか上の空で生返事をする。
何をどうしたら生き物に対して、黒ゴマ備長炭などという珍妙な名前を付けられるのだろうか。いくら相手が黒い化け猫なのだとしても限度はある。いや、これを名前だと認めたら何か大事なものを捨ててしまう気がして身震いした睦郎であった。
「それにしても何がいけなかったのでしょうか。黒ゴマ備長炭、私としては良い名前だとは思うのですが……連隊長や師団長のみならず、少尉時代から世話になっている部下でさえも自らの身を省みずに止めにかかられまして」
(理由は明白やけどなぁ)
ひとまず言えることは、彼の周囲の人間が比較的常識人ばかりで良かったとだけ。
この男、もしかせずとも世間の感覚と自分の感覚が大いにズレているのに気付いていないのではないか。周りがまともな感性の持ち主ばかりだったのが、最高の幸運であった。
尾坂の周囲にいる上司や部下の気苦労を思い、睦郎は一人涙する。上官、もしくは部下が自覚の無い天然だと大変だなぁ、と。
「その上、駅までお見送りしていただけるとは。構わなかったのですか。お忙しい身の上であられるのに……」
「かまへんかまへん。土地勘無いやろうし、それに呉やと陸軍のお前さんは目立ってしゃあないやろうしな」
ここは呉、海軍と共にある町。そんな場所に陸軍の将校が一人でふらふら歩いていれば悪目立ちしてしまうだろう。
しかも、彼の手には猫を入れた籠まであるのだ。いったいどこにしまっていたのか、雨套の下から取っ手のついた籠を取り出したのには驚いてしまった。軍人が外を出歩く時は装備品以外手ぶらであるのが常識であるし、そもそも軍人が荷物を抱えて歩くなどみっともない。
ただでさえ彼は顔が整い過ぎていて目立つのに、その上でさらに目立つ籠付きだ。通りかかった通行人の視線が痛いのにも頷ける。皆、ぎょっとしながら二回か三回振り返りつつ通りすぎていくのが辛かった。
ここで余談だが、どちらかと言えば女顔の美形である尾坂が雨套を付けて帽子を被り、取っ手付きの籠を持っているその姿。一歩間違えたらどこかの童話に出てくる少女のようにも見えてしまいかねないと思うのだが……まあ、本人が気にしていないのなら別に構わないだろう。
「ほんで、えーっと……ナハトくん……? は大人しゅうしとるかえ」
「もちろん。ナハトは賢い猫ですから」
賢いというより、既に化生の領域に片足まるごと浸かっていると言うべきではないか。思ったことをつい口にしそうになった瞬間、籠の蓋をこじ開けてこちらをじっと見つめるナハトと目が合ったので慌てて口を閉ざしておいた。
それにしても、なぜ籠。尾坂はつい先ほど「猫が苦手」と言っていたのだから、なるべく触れたくないのだろうか。いや、それにしたってナハトを撫でてたあの手付きは、猫が苦手な者のそれではなかった。
ということは、おそらく移動中もナハトに負担がかからぬようにと事前に準備していたのだろうか。師団長閣下の飼い猫ということもあるだろうか、それにしたって猫一匹に対してこの厚遇。よもや、苦手とは方便で本当は好きなのではないだろうか。プライドが邪魔してツンとお高く留まるしかないだけで。
「…………」
「なにか、」
「あ、うん。なんもないで」
睦郎にも意地というものがある。今まで嫌っていることを公言してきた手前、態度をコロッと変えるわけにもいかぬのだ。
なので尾坂に対して「仕方がないなぁ」とばかりの態度を取りつつ、睦郎は後輩の体裁を守るかと一歩引いて譲ってやった。
「……私に聞きたいことがあったのでは? たとえば……あの男の話とか」
「あの男……?」
どうやら尾坂には、睦郎が自分によそよそしい態度を取る理由に心当たりがあったらしい。おもむろに鎌をかけるような発言を投げかけてきた。
尾坂の言う「あの男」とはいったい誰のことだろうか。少なくとも、睦郎が知っている者に違いない。
ならば考えずとも、すぐさま答えは現れる。今、尾坂と関わりが深く、睦郎が知っている者と言えば一人しかいないではないか。
「あっ、せや。お前さん、なんで瀧本くんと喧嘩なんかしてんや」
そうだ。そういえば、瀧本は尾坂と大喧嘩をした末に全治一週間の傷と副長からの大目玉を食らったのだった。大いに関係があったではないか。
「今日しゃべってて余計判らんくなったわ。お前さん、感情的になるようなタマやないやろ」
「そうですか」
「少なくとも外面はな。お前さんみたいにプライドが高いやっちゃなぁ、感情で動くようなマネはまずせんやろ。せやから、なんでまた瀧本くんに対して急に殴りかかったりしてんや。理由くらいあるんやろ?」
どちらが先に仕掛けたかは瀧本から聞いていないが、あえて尾坂から吹っ掛けたことにして質問した。睦郎なりの嫌がらせである。
「理由? そんなもの、一つだけで十分です」
だが、尾坂はそれにはまるで気付いていないとばかりに淡々と答えた。
「──あの男が、私に気付かず無視したからですが何か」
「は?」
聞き間違えだったのだろうか。そうであってほしいと、睦郎は心の底から思ってしまった。
陸軍も海軍も巻き込み、あまたの人間に迷惑をかけた海軍対陸軍の大喧嘩の原因。それが、瀧本が尾坂のことを無視したからという、あまりにも小さすぎる理由で勃発したなどと。そんなの、誰だって信じたくない。
「あの男には絶対に言わないでください。昨年の六月に米国から帰国した際に、私は東京であの男とすれ違ったのです」
尾坂は即座にすれ違った海軍士官が瀧本だと気が付いた。しかし、当の瀧本は尾坂に気付かずに素通りしたという。
そんなしょうもない理由で喧嘩をされたのか。睦郎が出刃包丁を取り出してまで瀧本を説得しようとした一件の、元々の原因が。そんな。
足から力が抜けそうになった睦郎。そのまま乾いた笑い声を上げそうになったが、懸命にこらえてスッと思考を彼方へ飛ばす。
「お前さん……一個ゆうてエエ? 言うわ、ありがと。──阿保やろ、お前」
「これが他の者でしたらいくらでも流せましたよ。ですが、あの男だけは無理です。あの男にだけは無視されたくありませんでした」
尾坂が手に握った籠の取っ手が、みしりと嫌な音を立てる。
尾坂は変わらず能面のような無表情だったが、よく見れば眼光がまったく違う。底光りする青い瞳は、まるで血に餓えた狼のごとき煌々とした輝きを放ってギラギラしていた。
怒り狂う狼が隣に現れたことにより、さすがの睦郎も怖かったらしい。小さくて情けない悲鳴を上げつつも、隣から逃げられずに歩調を合わせて進むしかないのがなんとも憐れである。
「あの男は、私の人生を狂わせた男なのですよ。あの男のせいで、私はこんなにも苦しんだ。なのにあの男は、苦しむ私のことなどまるでどうでも良いとばかりに、私のことなど忘れて能天気に笑っていた。許せますか。自分が地べたを這いずり回って泥水を啜りながら、はるか上空にある明るい場所を目指してもがいている最中に……当のあいつは、自分が私にやったことなどすっかり忘れて人生を謳歌していたのですから」
「……!」
──睦、ひとつだけ君に問いたい。君にとって僕はもう忘れてしまいたい過去なのかい?
不意に、睦郎の耳元である人物の言葉が甦った。それは、赤岡の声だった。
(ああ……そうか)
やっと、やっと判った気がした。あのときの、赤岡の言葉の真意が。ようやく、理解できた気がした。
赤岡は、睦郎に、忘れてほしくなかったのだ。自分の人生を狂わせた相手の心の中で、自分が生きていてほしいと願ったのだ。
それならば、今までの赤岡の行動にも全てつじつまが合わせられるではないか。そうだ、なぜ自分は今まで気が付かなかったのだろうか。
「そうか……そうやったんや」
「お判り頂けたようで恐縮です。嗚呼、この話はあの男には言わないでください。あの男にはもうしばらく私のことで苦しんでいてほしいので」
「せやな」
なお、今の返事は睦郎にとって無意識に出たものだ。内容から言いたいことを読み取って、その上で返事をしたわけではない。憐れ、瀧本。だが、尾坂から言わせて見れば自業自得なので同情の余地など無いのだが。
「あなたになら判って頂けると思いました」
会話が微妙にずれている気がするが、しかし二人ともそれには気付かない。悲しいすれ違いが発生した瞬間だった。
「なあ」
「はい、なんでしょう」
「ありがとな」
おかげで自分がすべきこと、言うべきことを見付けられた気がする。睦郎は宿敵に向かって感謝の言葉を述べつつ、脳裏に浮かんだ赤岡の顔をじっと睨み付けた。
なお、尾坂はそれにまったく気が付いていない。尾坂の脳裏にあるのは、瀧本に対するあまりにも幼稚な恨み辛みの感情だけである。
「ほんなら、おれはここまでで。もう駅やで」
気が付いたらもう呉の駅前まで来ていた。ここから瀧本と約束した場所に帰るまででどれだけ時間がかかるだろう。それだけ考える時間を与えられたのだ。必ず答えの糸口をたぐりよせてやる、と意気込む睦郎に対して、尾坂はふっと唇で緩く弧を描きながら一言。
「私こそ、ありがとうございました。おかげで、楽しい時間を過ごせましたよ」
「ジャアノー」
千晴さんにもよろしくお伝えください。それだけ言って、睦郎が一方的に嫌っていた美貌の将校は、猫が入った籠を抱えて駅の中に消えていった。
ナハトも別れの挨拶をしている。なんとも賢い猫だ。なお、明らかに化生の類いがするだろうという突っ込みは受け付けない。
こうして、海軍主計科将校と陸軍工兵将校の短い雨宿りは終わりを告げたのだった。
「いささか無礼な振る舞いを行ってしまったかと思いますが、本日はありがとうございました。少佐殿」
「おん……」
黒ゴマ備長炭の衝撃も覚めやらぬまま、睦郎はどこか上の空で生返事をする。
何をどうしたら生き物に対して、黒ゴマ備長炭などという珍妙な名前を付けられるのだろうか。いくら相手が黒い化け猫なのだとしても限度はある。いや、これを名前だと認めたら何か大事なものを捨ててしまう気がして身震いした睦郎であった。
「それにしても何がいけなかったのでしょうか。黒ゴマ備長炭、私としては良い名前だとは思うのですが……連隊長や師団長のみならず、少尉時代から世話になっている部下でさえも自らの身を省みずに止めにかかられまして」
(理由は明白やけどなぁ)
ひとまず言えることは、彼の周囲の人間が比較的常識人ばかりで良かったとだけ。
この男、もしかせずとも世間の感覚と自分の感覚が大いにズレているのに気付いていないのではないか。周りがまともな感性の持ち主ばかりだったのが、最高の幸運であった。
尾坂の周囲にいる上司や部下の気苦労を思い、睦郎は一人涙する。上官、もしくは部下が自覚の無い天然だと大変だなぁ、と。
「その上、駅までお見送りしていただけるとは。構わなかったのですか。お忙しい身の上であられるのに……」
「かまへんかまへん。土地勘無いやろうし、それに呉やと陸軍のお前さんは目立ってしゃあないやろうしな」
ここは呉、海軍と共にある町。そんな場所に陸軍の将校が一人でふらふら歩いていれば悪目立ちしてしまうだろう。
しかも、彼の手には猫を入れた籠まであるのだ。いったいどこにしまっていたのか、雨套の下から取っ手のついた籠を取り出したのには驚いてしまった。軍人が外を出歩く時は装備品以外手ぶらであるのが常識であるし、そもそも軍人が荷物を抱えて歩くなどみっともない。
ただでさえ彼は顔が整い過ぎていて目立つのに、その上でさらに目立つ籠付きだ。通りかかった通行人の視線が痛いのにも頷ける。皆、ぎょっとしながら二回か三回振り返りつつ通りすぎていくのが辛かった。
ここで余談だが、どちらかと言えば女顔の美形である尾坂が雨套を付けて帽子を被り、取っ手付きの籠を持っているその姿。一歩間違えたらどこかの童話に出てくる少女のようにも見えてしまいかねないと思うのだが……まあ、本人が気にしていないのなら別に構わないだろう。
「ほんで、えーっと……ナハトくん……? は大人しゅうしとるかえ」
「もちろん。ナハトは賢い猫ですから」
賢いというより、既に化生の領域に片足まるごと浸かっていると言うべきではないか。思ったことをつい口にしそうになった瞬間、籠の蓋をこじ開けてこちらをじっと見つめるナハトと目が合ったので慌てて口を閉ざしておいた。
それにしても、なぜ籠。尾坂はつい先ほど「猫が苦手」と言っていたのだから、なるべく触れたくないのだろうか。いや、それにしたってナハトを撫でてたあの手付きは、猫が苦手な者のそれではなかった。
ということは、おそらく移動中もナハトに負担がかからぬようにと事前に準備していたのだろうか。師団長閣下の飼い猫ということもあるだろうか、それにしたって猫一匹に対してこの厚遇。よもや、苦手とは方便で本当は好きなのではないだろうか。プライドが邪魔してツンとお高く留まるしかないだけで。
「…………」
「なにか、」
「あ、うん。なんもないで」
睦郎にも意地というものがある。今まで嫌っていることを公言してきた手前、態度をコロッと変えるわけにもいかぬのだ。
なので尾坂に対して「仕方がないなぁ」とばかりの態度を取りつつ、睦郎は後輩の体裁を守るかと一歩引いて譲ってやった。
「……私に聞きたいことがあったのでは? たとえば……あの男の話とか」
「あの男……?」
どうやら尾坂には、睦郎が自分によそよそしい態度を取る理由に心当たりがあったらしい。おもむろに鎌をかけるような発言を投げかけてきた。
尾坂の言う「あの男」とはいったい誰のことだろうか。少なくとも、睦郎が知っている者に違いない。
ならば考えずとも、すぐさま答えは現れる。今、尾坂と関わりが深く、睦郎が知っている者と言えば一人しかいないではないか。
「あっ、せや。お前さん、なんで瀧本くんと喧嘩なんかしてんや」
そうだ。そういえば、瀧本は尾坂と大喧嘩をした末に全治一週間の傷と副長からの大目玉を食らったのだった。大いに関係があったではないか。
「今日しゃべってて余計判らんくなったわ。お前さん、感情的になるようなタマやないやろ」
「そうですか」
「少なくとも外面はな。お前さんみたいにプライドが高いやっちゃなぁ、感情で動くようなマネはまずせんやろ。せやから、なんでまた瀧本くんに対して急に殴りかかったりしてんや。理由くらいあるんやろ?」
どちらが先に仕掛けたかは瀧本から聞いていないが、あえて尾坂から吹っ掛けたことにして質問した。睦郎なりの嫌がらせである。
「理由? そんなもの、一つだけで十分です」
だが、尾坂はそれにはまるで気付いていないとばかりに淡々と答えた。
「──あの男が、私に気付かず無視したからですが何か」
「は?」
聞き間違えだったのだろうか。そうであってほしいと、睦郎は心の底から思ってしまった。
陸軍も海軍も巻き込み、あまたの人間に迷惑をかけた海軍対陸軍の大喧嘩の原因。それが、瀧本が尾坂のことを無視したからという、あまりにも小さすぎる理由で勃発したなどと。そんなの、誰だって信じたくない。
「あの男には絶対に言わないでください。昨年の六月に米国から帰国した際に、私は東京であの男とすれ違ったのです」
尾坂は即座にすれ違った海軍士官が瀧本だと気が付いた。しかし、当の瀧本は尾坂に気付かずに素通りしたという。
そんなしょうもない理由で喧嘩をされたのか。睦郎が出刃包丁を取り出してまで瀧本を説得しようとした一件の、元々の原因が。そんな。
足から力が抜けそうになった睦郎。そのまま乾いた笑い声を上げそうになったが、懸命にこらえてスッと思考を彼方へ飛ばす。
「お前さん……一個ゆうてエエ? 言うわ、ありがと。──阿保やろ、お前」
「これが他の者でしたらいくらでも流せましたよ。ですが、あの男だけは無理です。あの男にだけは無視されたくありませんでした」
尾坂が手に握った籠の取っ手が、みしりと嫌な音を立てる。
尾坂は変わらず能面のような無表情だったが、よく見れば眼光がまったく違う。底光りする青い瞳は、まるで血に餓えた狼のごとき煌々とした輝きを放ってギラギラしていた。
怒り狂う狼が隣に現れたことにより、さすがの睦郎も怖かったらしい。小さくて情けない悲鳴を上げつつも、隣から逃げられずに歩調を合わせて進むしかないのがなんとも憐れである。
「あの男は、私の人生を狂わせた男なのですよ。あの男のせいで、私はこんなにも苦しんだ。なのにあの男は、苦しむ私のことなどまるでどうでも良いとばかりに、私のことなど忘れて能天気に笑っていた。許せますか。自分が地べたを這いずり回って泥水を啜りながら、はるか上空にある明るい場所を目指してもがいている最中に……当のあいつは、自分が私にやったことなどすっかり忘れて人生を謳歌していたのですから」
「……!」
──睦、ひとつだけ君に問いたい。君にとって僕はもう忘れてしまいたい過去なのかい?
不意に、睦郎の耳元である人物の言葉が甦った。それは、赤岡の声だった。
(ああ……そうか)
やっと、やっと判った気がした。あのときの、赤岡の言葉の真意が。ようやく、理解できた気がした。
赤岡は、睦郎に、忘れてほしくなかったのだ。自分の人生を狂わせた相手の心の中で、自分が生きていてほしいと願ったのだ。
それならば、今までの赤岡の行動にも全てつじつまが合わせられるではないか。そうだ、なぜ自分は今まで気が付かなかったのだろうか。
「そうか……そうやったんや」
「お判り頂けたようで恐縮です。嗚呼、この話はあの男には言わないでください。あの男にはもうしばらく私のことで苦しんでいてほしいので」
「せやな」
なお、今の返事は睦郎にとって無意識に出たものだ。内容から言いたいことを読み取って、その上で返事をしたわけではない。憐れ、瀧本。だが、尾坂から言わせて見れば自業自得なので同情の余地など無いのだが。
「あなたになら判って頂けると思いました」
会話が微妙にずれている気がするが、しかし二人ともそれには気付かない。悲しいすれ違いが発生した瞬間だった。
「なあ」
「はい、なんでしょう」
「ありがとな」
おかげで自分がすべきこと、言うべきことを見付けられた気がする。睦郎は宿敵に向かって感謝の言葉を述べつつ、脳裏に浮かんだ赤岡の顔をじっと睨み付けた。
なお、尾坂はそれにまったく気が付いていない。尾坂の脳裏にあるのは、瀧本に対するあまりにも幼稚な恨み辛みの感情だけである。
「ほんなら、おれはここまでで。もう駅やで」
気が付いたらもう呉の駅前まで来ていた。ここから瀧本と約束した場所に帰るまででどれだけ時間がかかるだろう。それだけ考える時間を与えられたのだ。必ず答えの糸口をたぐりよせてやる、と意気込む睦郎に対して、尾坂はふっと唇で緩く弧を描きながら一言。
「私こそ、ありがとうございました。おかげで、楽しい時間を過ごせましたよ」
「ジャアノー」
千晴さんにもよろしくお伝えください。それだけ言って、睦郎が一方的に嫌っていた美貌の将校は、猫が入った籠を抱えて駅の中に消えていった。
ナハトも別れの挨拶をしている。なんとも賢い猫だ。なお、明らかに化生の類いがするだろうという突っ込みは受け付けない。
こうして、海軍主計科将校と陸軍工兵将校の短い雨宿りは終わりを告げたのだった。
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