軍艦乗りの献立表─海軍主計科こぼれ噺─

春蘭

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第十二週「茶碗蒸し」

(58)餌付けするのは楽しいことか

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「本当にすみません、申し訳ありません!! 二度とエビとザリガニを一緒くたにしないんで許してください!!!」

 瀧本の絶叫は続く。余談であるが、実は本場で食用に養殖されているザリガニは高価なものだったりする。場合によってはエビより高値が付くこともあるそうで、別にザリガニはエビの下位互換でもなんでもない。その辺りは留意されたし。

「当たり前やろうがボケ!!! だいたい、ザリガニなんてもんなぁ、淡水におるんやから寄生虫がついとって当たり前やろっ!!! そこで変な病気もろて退役なんて、末代までの恥やわ!!!」
「ひぃん」

 最後に一発頭突きを喰らわせ、ようやく睦郎は瀧本を解放してくれた。今まで瀧本は睦郎のことを気さくな親戚のおじさんのように思っていたのだが、今回初めてその彼の怒りを一身に浴びて、その評価は変わったようだ。
 だがそれも、全ては瀧本を心配してくれているから出てくる言葉。どれほど厳しい言葉をかけても、その根底には優しさがなければそれはただの暴言でしかない。
 この時代は医療はまだそれほど発展しておらず、しかも病気にかかったときの治療費などは全て実費で支払わねばならなかった。おまけとばかりに上下水道は整っておらず、お世辞にも衛生環境が良いとは言えない状況。

 この時代は今よりずっとずっと「死」が近く、現世うつしよを生きる人々のすぐ隣に存在している世界だった。

 そんな世界で生きてきたのなら、当然ながら病に対して敏感になるのも当然だろう。
 別に現代人が病を警戒していないと言うわけではないが、それでも重さも方向性もまったく違う。
 医者にかかればどんな病も治ることが前提、どんな容態になっても生きられることは当たり前。死などはそれこそ、滅多に起きない異常事態。それは文明の恩恵を最大限に受けられる時代であるからこそ出てくる慢心だ。
 彼らが生きている昭和六年という時代は、今よりずっと死が身近にある時代だった。昨日まで元気だった若者が、その日の内に苦しんで亡くなる話などそこらじゅうに転がっている。

 その気さえあれば誰でも病院に行け、医療を受けられる時代にいるからこそ。暗くて冷たい「死」という存在がすぐ隣に立っていると、決して忘れてはいけないのだろう。

 子供は大勢生まれるが、しかし大半は大人になるまで生きられずに死んでいく。七歳までは神の子とはよく言ったもの。だがたとえ生き残ったとしても、その日食うのにも困るような貧乏な家の子なら、穀潰し扱いされて奉公と言う名で売られる未来が待っているかもしれない。幼い頃に売られてきた睦郎のように。

「ったく……こっちが主計やからゆうてな。なんでもできる思たら大間違いやで」
「もうしわけありません……」
「あぁ……んなことゆうてたら甲殻類が食べたぁなってきた……」

 なぜ甲殻類は時々無性に食べたくなってくるのだろうか。特に蟹。
 茹でた蟹を用意し、まずは冷ましてから甲羅を外そう。まだ殻に味噌がうっすら付いているが気にせず甲羅を網に乗せ、軽く火で炙ってやる。甲羅が焼ける香ばしい香りが漂い出したら、つぎはあらかじめ温めておいた熱燗をその中に注ぐ。甲羅が焼ける香ばしさと味噌の風味が酒に絡んだ甲羅酒の完成である。

「……恥ずかしながら、意見申し上げたく候う」
「許可する」
「俺もです……」

 味の想像ができないザリガニはこの際横に置いておくとして、それ以外の見慣れた食材が旨いことに違いは無い。

「しゃーない。ほんなら再来週の木曜日はエビの入った茶碗蒸しにしたるわ」

 とは言え来週の献立は既に決まっている。睦郎は頑なにポーク・カツレツと呼び続けるトンカツに。
 なら、今思い付いたエビ入り茶碗蒸しは再来週の献立に取っておこう。

 以下、海軍式茶碗蒸し。
 まずは下準備。昆布と鰹の煮出し汁を用意する傍ら、具材をそれぞれ適した形に切っていく。
 魚肉──今回は金目鯛を使用──は骨を抜いて刺身用よりも厚めに切り、そして醤油と砂糖を合わせた浸けだれの中に沈める。栗とくわいは皮を剥ぎ、かまぼこは銀杏切り。くわいも二つに切っておこう。春菊は鮮やかさを損なわないようにさっと茹でて五サンチほどで切って絞る。水に浸しておいた椎茸も適宜の大きさに切っておく、
 そしてここで登場、エビ。本来は小エビを使うのだが、ここは車エビでもなんでも良いだろう。皮を剥いて醤油に浸す。

 かまぼこ、栗、椎茸、くわいは醤油と砂糖を合わせた汁でざっと煮上げ、器の中に小エビ、魚と共に入れておく。その器に昆布と鰹の煮出し汁と卵を割り加えて軽く塩で整えた液を注いで蒸せば完成。なお、卵は煮出し汁一デシリットルに対して鶏卵二個の割合が望ましい。器には八分目まで注ぐこと。何事も八割で済ますように心がけると良い。

「はぁ……」
「おい、なんやその溜め息は」

 思わず、出てしまったのだろうか。瀧本の溜め息を目敏く拾った睦郎が、また急に低くなった声で脅しつける。

「いえ、ただ……あいつのザリガニ・パーティーをどうしようかと思いまして」

 せっかく忘れそうになっていたのに何を思い出させてくれているんだ、この男。苛立ちを腹でプチリと潰しつつ、睦郎は深呼吸で心を落ち着かせようと努力した。

 自分の方が歳上、そして自分は少佐。大丈夫、耐えられぬわけがない。少しの辛抱だ。

 だが、次の瞬間──瀧本が発した余計な一言によって、睦郎の魂に火が付く。

「主計長は料理の腕が本職にも引けをとらぬと聞いていたので、もしやと密かに期待しておったのですが……」
「なんやと」

 自分でも、思ったより低い声が出た。うっかりまたしまったばかりの出刃包丁を探してしまいそうになった睦郎。

「でもさすがにザリガニは……ですよね。諦めます」
「は? お前、俺に調理できんもんがあるとでも思っとんのか?」

 ピキ、とこめかみの血管が盛り上がる。もしかせずとも余計な一言だったと瀧本が口元をひきつらせた頃には既に遅い。睦郎の変なやる気が燃えてしまった。

「あ、あの、主計長?」
「おし、お前。次の休みに面貸せや」
「何する気ですかい!?」

 ヤの付く本職の方並みにドスの効いた声で低く告げられた決定事項。まずい、と瀧本は思い始めたが逃げ場はない。

「お前に料理ってもんを一から全部叩き込んだるさかい、首を洗って待っとけってゆうてんねんや」
「へ?」

 ポーン、と。どこかで時計が時刻を告げるような音がした。気のせいだろうか。前にもこんなことがあった気がするのは。

「俺が教えるんやから生半可は許さへんで」
「ひっ」
「あの糞気に食わん陸助を餌付けして、胃袋掴んで離さへんようにしたるさかい覚悟しとけやぁ!!!!」
「キャァァァアア!?」

 吠える睦郎、怯える瀧本。一体何が始まるのだろうか。古鷹艦内に木霊する絶叫は、その後副長から渇を入れられるともしらずにいつまでも木霊し続けた。




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