軍艦乗りの献立表─海軍主計科こぼれ噺─

春蘭

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第十二週「茶碗蒸し」

(55)刃物は研師に出せとあれほど

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 昭和六年三月。





「……」
「……」

 重巡「古鷹」幹部、主計長である鷹山睦郎主計少佐の目の前では、身長六尺越えの大男が見事な土下座を決め込んでいた。

「…………」

 沈黙。先程から睦郎の前で床に額をめり込ませる勢いで頭を下げている男は、睦郎と同じ艦に属する兵科の士官である。名を瀧本零士。階級は大尉、睦郎とほぼ同時期に「古鷹」へ異動となった砲術科の士官だ。

 なぜ兵科の大尉が主計科の少佐の私室で土下座を決め込んでいるんだろう。知らない者が見れば甚だ疑問に思う光景だ。きっとそうに違いない。
 部屋の主である睦郎がそう思い始めた数分前より、この膠着状態は続いていた。

「……なあ、あんちゃんよぉ」

 とりあえず、話をしないことには始まらない。長い沈黙を挟み、睦郎はようやくかける言葉が定まったのか口を開く。

「なんかゆぅことあるんちゃうか? ん?」

 言い方は優しいのだが、なぜ関西弁というのはこうも怖いのだろう。堅気の人間であるはずなのに本職の方のように思えてしまう。
 特に、関東で産まれ育った生粋の東京人のため、関西弁に耳馴染みの無い瀧本は。

「おっちゃん、何を聞いても怒らんから言うてみ? なあ、瀧本くんや」

 などとわざとらしい猫なで声で言われても無理なものは無理です。それが瀧本が返せる精一杯だが、それさえ言えないくらい彼は追い詰められていた。

「おーい。もしかして、気絶しとったりする? そんなら軍医長呼んで、尻にいったーい注射打ってもらうか?」

 尻になんてもの注射させるつもりだ、この主計長。さてはその注射は、尻に打ったら便所から出られなくなるものだな、と考えたのも無理は無かろう。
 ちなみに軍艦では厠まで士官用と兵用で明確に分けられていた。厠に風呂、生活様式に食事内容まで。同じ屋根の下で生活を共にしているとはいえ、海軍での士官と兵の待遇の差は天と地ほども開きがある。本当にそういう所だぞ、海軍。それは大型艦になるほど顕著だった。
 しかし逆に小型艦、特にドン亀潜水艦ともなると、より過酷な任務に従事しているためか、士官も兵も分け隔てなく和気藹々としていたそうな。閑話休題。

「……俺に……」

 どこからどう見ても怒り狂っていらっしゃる主計長を前に、とうとう瀧本は降参したらしい。土下座をしている時点で降参しているのでは、とは言わぬように。

 開口、一番。若き大尉には、自分が思っていることを正直に話すしか選択肢は無かった。

「──俺にザリガニを安全に食うための調理術を教えてください、主計長様」

 ポーン、と。どこからともなく鎮守府にある柱時計が午後三時を伝える音が聞こえてきた気がして、睦郎は思わず真顔になって土下座を決め込む男をマジマジと見る。余談だがその時の彼の顔は、八十年後の世界で流行した「宇宙を背景にして呆然とする猫の顔」にそっくりであった。

 海軍呉鎮守府第五戦隊所属、重巡洋艦「古鷹」主計長私室。三月某日午前。
 瀧本大尉の意味不明な発言から、この反省会は始まった。

「とりあえずこれだけ言わせて? なにゆーてんの、お前」

 この子は何を言っているのかね、と保護者になったつもりで首を傾げてみても全く理解不能だった。何がどうなってザリガニを食べる話になるんだと。
 話と話が繋がってくれない。どうして例の喧嘩の一件から、ザリガニを食べる話に飛ぶんだ。飛びすぎだろう。投石機を使ってもこんなに話題は飛んだりしない。

「まあ、何や。面を上げぃ。人と話をするときは目を合わしてちゃんと話せて教官から言われんかったんか?」
「俺だって、今すぐにでも頭を上げたいんですぜ、主計長」
「ほぉん」
「主計長が、その手に出刃包丁を持っているのが目に入りさえしなかったら……」

 良く見たら、瀧本は額を床にめりこませながらもカタカタ小刻みに震えている。怖かったのだろう、当たり前だ。
 誰だって、瞳孔がかっぴらいていて血走った目を皿のように丸くした妖怪のような表情で手に出刃包丁を持った奴など直視したくもない。何をされるか何となく理解できるが確証の無い恐怖が瀧本を襲う。
 そもそもなぜ主計長は出刃包丁など持って佇んでいるのだ。しかも、明らかに切れ味が可笑しいだろう、その出刃包丁と言いたくなってしまうほどの逸品。刀身が鏡のように輝いて瀧本の姿をハッキリ映している。もしかしたら烹吹所からジャクっ失敬してきたのだろうか。料理人の魂になんてことを。
 主計長がお怒りなのは判るが、やめてほしいのが正直な感想。純粋に怖いから。

「……その出刃包丁、はどうなされたんですか……」
「これはおれの私物や」
「えっ? 私物?」

 まさかの主計長の私物であった。瀧本は知らないが、睦郎は艦に私物としてこの出刃包丁を持ち込んでいるのだ。その件で先日、赤岡から注意を受けたことも記憶に新しい。

「知り合いの刀匠が造った奴やねんけどな。怒りを発散させるために造った奴やさかい、切れ味が恐ろしゅうことになっとってなぁ。料理すんには怖くて使えんとかゆーておれに寄越してきた逸品や」
「は、はあ。左様でごぜえますか……」

 なんて物を寄越してくれるんだその刀匠。というより、なんてものを艦に持ち込んでくれているんだこの主計長。そして料理に使えない出刃包丁など何に使うつもりだった。

「ま……たまたま手入れするために取り出してきたモンやさかいな。何もする気はないで」
「さいですか……」
「手入れしようと取り出した瞬間に自分がやって来たんやろが」

 何とも間が悪いことに、瀧本は睦郎が引き出しから出刃包丁を取り出した瞬間にやって来てしまったのだった。
 だが主計長はなぜ、このタイミングで出刃包丁の手入れなど始めようとしたのだろう。
 深く考えてはいけない。賢い瀧本は察しているようだ。そしてその選択は正しい。

「怖いんやったらしまうで。確かに、こんな切れ味が可笑しゅうモンを安易に持ち出すんはアカンな」
「は、はは……そ、そうでありますね……」

 瀧本のザリガニ発言で荒ぶっていた内心に冷や水がかかったのだろう。睦郎はようやく冷静になってくれて、出刃包丁をそっとしまってくれた。なお、引き出しではなく行李の中に、である。怯える瀧本を気づかってくれたからだろうか。
 そこまでやってもらい、ようやく瀧本は命の危険から解放されてほうっと一息吐いた。そして、ズルズルと体を起こしてその場でちょんと正座をする。

「そんで、ザリガニがなんやって?」
「ああ、それです。主計長に、その辺で釣ってきた野生のザリガニを安全に食うための処理方法を教えて頂きたくてですね」
「はぁ?」

 聞き間違えではなかったらしい。今、瀧本は確かにハッキリ言った。ザリガニと。

「お前、ふざけとんのか?」
「いいえ、俺ぁ真面目も真面目。大真面目ですぜ、主計長」
「なら、なんでまたザリガニやねん」

 ザリガニの調理術など聞き出してどうする。そんな意味を込めて、胡乱そうな目を縮こまる瀧本に向けながら睦郎は吐き捨てた。
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