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第六週「鮪の刺身」
(29)献身と支配について
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衝撃からか硬直する睦郎に慈父のような眼差しを向けながら、小五郎はなおも続けた。
「本当はボクが乗ってやれたらいいんだけどねぇ。ボクじゃぁどうしても、自分の部下である瀧本クンを贔屓にしちゃうからネ。だから、キミにしか頼めないんだよ」
「は……」
頼ってくれるのは正直に嬉しい。だが、自分にそんな役が勤まるのだろうかとは思う。
こんなとき、脳裏に浮かぶのは決まって赤岡の顔。彼ならどうしただろうかと、つい考えてしまう。
それと同時に感じるのは、自分はなんてバカなんだろうという罪悪感。睦郎にとっては恩人である赤岡を、彼は自分自身の勝手な我が儘で深く傷付けてしまった。大切だった人の心に消えないくらい大きな傷を残した自分に、いったいなにができると言うのだ。他人の相談に乗ってやれる器でもあるまいし。
自己嫌悪で憂鬱になっている睦郎の様子をじっとみていた艦長が、ここで一言。
「ところで鷹山クン。キミは愛と恋の違いについて考えてみたことはあるかい?」
「え?」
この艦長、いったい何を言い出すのだ。
ただでさえ赤岡との関係が拗れに拗れて悩んでいる睦郎に向かって、愛だの恋だの語り出すなど正気の沙汰とは思えない。
しかし相手はこの艦の主。ムクッと起き上がってきた苛立ちを腹の中でプチッと潰す努力をしながら、睦郎はしばしの間考え込む。
愛と恋の違いとは何か。
睦郎にとってはどっちもどっち、似たようなものだ。そんなものの違いなど、考えたことさえ無かった。いざ答えろと言われてすぐ答えられるわけがない。
それでも艦長の手前、なんとか答えを捻り出そうと奮闘する睦郎。
「まあ、無いよね~普通は」
と、思いきや艦長からこんな言葉が飛んできて、ポーンと睦郎の頭をはたいていった。
判っているのならなぜそんな話を振るのだ。いよいよもって艦長が判らなくなり、睦郎の脳内は混乱し始める。
「さて、愛と恋との違いは何か。どちらも憎しみと並んで、人間の中にある最も人間臭い感情だとは思っているけどね。ボクは愛も恋も違う感情だと思っているよ。ねえ、鷹山クン」
「は、」
「人は何を持ってその感情を愛と定義付けるか────ボクはそれを、自らの身も省みない献身と相手の全てを支配したい欲求だと説こう」
献身と支配。
愛とはこの二つの比率が揺れ動いて成り立つヒトの情である。
なんとなくだが、艦長の言いたいことは判った。しかし献身はまだありあえるとして、支配とはどういうことだろう。
「憎しみなら、献身の代わりに相手への慨嘆を入れておこうか。基本は愛と同じく支配があるけどね。ただし、憎しみの場合は相手に支配されることをヨシとして、愛の場合は相手を支配することこそを至上とするけどね」
「そ、そうですか……」
「おっと、別に献身は無くても良かったかな。献身は支配の中に入っているかもしれないし」
「?」
おかしなことを言う艦長だ。献身が支配の一部とは、どういうことであろう。
「自らの全てを捧げる献身も、相手を縛り付けるという意味では身勝手な支配と同じなのサ」
コロコロと機嫌良さげに艦長は笑って、さらに続けていく。
「愛とは献身であり、支配であるからね。自分がこの世で最も愛する他者というのは、言い換えればこの世で最も自己との境界線がハッキリしている者であるんだ」
だって自分に対して献身や支配をしても、それは只の自己愛に過ぎないのだから。
相手を自己から切り離せていない愛など、所詮は自己満足の自己愛に過ぎない。自分とは完全に異なる生物を愛してこそ成立するのが他者愛だ。そこを履き違えてはいけない。
(……なら、赤岡さんのあれは)
ふと考えた。艦長の哲学に当てはめるのなら、赤岡はいったいどちらになるのかと。
「他人のことを知らないなんて当然さ。だって自分じゃないんだから。だからその人の全てを知りたい、いいや、その人自身でさえも知らないその人のことを知りたいと思ったら、それはもう相手への愛と呼べるものじゃないのかな」
「……」
「でもね、鷹山クン。愛とは万人に等しく振り撒くことができるものなんだよ。そう、ただ一人だけに捧げる愛というのはね、必ず恋から始まって恋から昇華したものなんだ」
えっ、と声を上げてしまった。
ただ一人だけに捧げる愛とは、恋を通過してやってくる。その意味とはいったいなんだろう。
「人は生きていれば、いつか必ず自分の人生を狂わされる出会いを経験する。一度の人もいるけれど、何度も何度も経験する人だっている。みんな人それぞれさ」
「……、」
艦長の一声は、どうやら睦郎の胸に思いの外深々と突き刺さったようだ。
というのも、彼にはこれでもかと言うくらいに心当たりがあったから。
────自分の人生を狂わされた、生涯でただ一回だけの出会い。
脳裏に浮かぶ光景があった。それは、二十年前のあの日のこと。当時彼が給仕の仕事をしていた、帝大の食堂での……
「でも終わりは一緒、結論は全て同じ」
「は……」
「自分の人生を狂わせた相手に対する執着を──人は恋と呼ぶんだよ」
恋とは、自分の人生を狂わせた者への執着。献身でも、支配でも、ましてや慨嘆でもなく──決して報いなど無く、残すものも無く、ただ感情を消費するだけ消費し尽くして燃やす執着である。
「献身も支配もせずただひたすら執着するだけで終わるのなら、それはただの恋でしかないよ。問題は、それをどうやって愛にまで昇華させてやるかということだけサ」
カタッと物音。見ると、椅子に座っていた艦長がひょいと立ち上がってスタスタ出口に向かっている。どうやら、睦郎が衝撃を受けて固まっている間に、艦長は艦橋にご帰還されることを決めたらしい。
きょとんと目を瞬かせる部下に、最後に一回ニコッと笑いかけて、艦長はヒラヒラと手を振った。
「いずれ破綻することが目に見えている執着で恋を終わらせるのもまた良いけど、瀧本クンはそれをしなかったからね。彼の選択に敬意を払って、年長のボクらは見守ってやろうってだけだよ。じゃあ、よろしくお願いするね~」
「あ、艦長!」
睦郎が慌てて立ち上がっても、艦長は笑い声を薄く残したまま既に廊下の向こうに去ってしまった後だった。あの体型からは考えられぬほどの俊敏さである。まったくもって信じられない。
「……」
もう追っても無駄だ。睦郎は黙って大人しく、ストンと着席する。
「……どうやって、恋を愛に昇華させる……か」
自分の掌をじっと眺める。ああ、これは海の男の手だ。固く荒れて、潮焼けした海軍軍人の手。
もうあの頃とは違うのだ。それでも、彼の中で昇華も霧散もできぬまま燻り続ける感情があるのなら……その起点になった自分にはなにができるのだろう。
「……うん、よし」
考えていても仕方がない。そっと目を閉じて、睦郎は気を引き締めるために静かに息を吐いた。
「本当はボクが乗ってやれたらいいんだけどねぇ。ボクじゃぁどうしても、自分の部下である瀧本クンを贔屓にしちゃうからネ。だから、キミにしか頼めないんだよ」
「は……」
頼ってくれるのは正直に嬉しい。だが、自分にそんな役が勤まるのだろうかとは思う。
こんなとき、脳裏に浮かぶのは決まって赤岡の顔。彼ならどうしただろうかと、つい考えてしまう。
それと同時に感じるのは、自分はなんてバカなんだろうという罪悪感。睦郎にとっては恩人である赤岡を、彼は自分自身の勝手な我が儘で深く傷付けてしまった。大切だった人の心に消えないくらい大きな傷を残した自分に、いったいなにができると言うのだ。他人の相談に乗ってやれる器でもあるまいし。
自己嫌悪で憂鬱になっている睦郎の様子をじっとみていた艦長が、ここで一言。
「ところで鷹山クン。キミは愛と恋の違いについて考えてみたことはあるかい?」
「え?」
この艦長、いったい何を言い出すのだ。
ただでさえ赤岡との関係が拗れに拗れて悩んでいる睦郎に向かって、愛だの恋だの語り出すなど正気の沙汰とは思えない。
しかし相手はこの艦の主。ムクッと起き上がってきた苛立ちを腹の中でプチッと潰す努力をしながら、睦郎はしばしの間考え込む。
愛と恋の違いとは何か。
睦郎にとってはどっちもどっち、似たようなものだ。そんなものの違いなど、考えたことさえ無かった。いざ答えろと言われてすぐ答えられるわけがない。
それでも艦長の手前、なんとか答えを捻り出そうと奮闘する睦郎。
「まあ、無いよね~普通は」
と、思いきや艦長からこんな言葉が飛んできて、ポーンと睦郎の頭をはたいていった。
判っているのならなぜそんな話を振るのだ。いよいよもって艦長が判らなくなり、睦郎の脳内は混乱し始める。
「さて、愛と恋との違いは何か。どちらも憎しみと並んで、人間の中にある最も人間臭い感情だとは思っているけどね。ボクは愛も恋も違う感情だと思っているよ。ねえ、鷹山クン」
「は、」
「人は何を持ってその感情を愛と定義付けるか────ボクはそれを、自らの身も省みない献身と相手の全てを支配したい欲求だと説こう」
献身と支配。
愛とはこの二つの比率が揺れ動いて成り立つヒトの情である。
なんとなくだが、艦長の言いたいことは判った。しかし献身はまだありあえるとして、支配とはどういうことだろう。
「憎しみなら、献身の代わりに相手への慨嘆を入れておこうか。基本は愛と同じく支配があるけどね。ただし、憎しみの場合は相手に支配されることをヨシとして、愛の場合は相手を支配することこそを至上とするけどね」
「そ、そうですか……」
「おっと、別に献身は無くても良かったかな。献身は支配の中に入っているかもしれないし」
「?」
おかしなことを言う艦長だ。献身が支配の一部とは、どういうことであろう。
「自らの全てを捧げる献身も、相手を縛り付けるという意味では身勝手な支配と同じなのサ」
コロコロと機嫌良さげに艦長は笑って、さらに続けていく。
「愛とは献身であり、支配であるからね。自分がこの世で最も愛する他者というのは、言い換えればこの世で最も自己との境界線がハッキリしている者であるんだ」
だって自分に対して献身や支配をしても、それは只の自己愛に過ぎないのだから。
相手を自己から切り離せていない愛など、所詮は自己満足の自己愛に過ぎない。自分とは完全に異なる生物を愛してこそ成立するのが他者愛だ。そこを履き違えてはいけない。
(……なら、赤岡さんのあれは)
ふと考えた。艦長の哲学に当てはめるのなら、赤岡はいったいどちらになるのかと。
「他人のことを知らないなんて当然さ。だって自分じゃないんだから。だからその人の全てを知りたい、いいや、その人自身でさえも知らないその人のことを知りたいと思ったら、それはもう相手への愛と呼べるものじゃないのかな」
「……」
「でもね、鷹山クン。愛とは万人に等しく振り撒くことができるものなんだよ。そう、ただ一人だけに捧げる愛というのはね、必ず恋から始まって恋から昇華したものなんだ」
えっ、と声を上げてしまった。
ただ一人だけに捧げる愛とは、恋を通過してやってくる。その意味とはいったいなんだろう。
「人は生きていれば、いつか必ず自分の人生を狂わされる出会いを経験する。一度の人もいるけれど、何度も何度も経験する人だっている。みんな人それぞれさ」
「……、」
艦長の一声は、どうやら睦郎の胸に思いの外深々と突き刺さったようだ。
というのも、彼にはこれでもかと言うくらいに心当たりがあったから。
────自分の人生を狂わされた、生涯でただ一回だけの出会い。
脳裏に浮かぶ光景があった。それは、二十年前のあの日のこと。当時彼が給仕の仕事をしていた、帝大の食堂での……
「でも終わりは一緒、結論は全て同じ」
「は……」
「自分の人生を狂わせた相手に対する執着を──人は恋と呼ぶんだよ」
恋とは、自分の人生を狂わせた者への執着。献身でも、支配でも、ましてや慨嘆でもなく──決して報いなど無く、残すものも無く、ただ感情を消費するだけ消費し尽くして燃やす執着である。
「献身も支配もせずただひたすら執着するだけで終わるのなら、それはただの恋でしかないよ。問題は、それをどうやって愛にまで昇華させてやるかということだけサ」
カタッと物音。見ると、椅子に座っていた艦長がひょいと立ち上がってスタスタ出口に向かっている。どうやら、睦郎が衝撃を受けて固まっている間に、艦長は艦橋にご帰還されることを決めたらしい。
きょとんと目を瞬かせる部下に、最後に一回ニコッと笑いかけて、艦長はヒラヒラと手を振った。
「いずれ破綻することが目に見えている執着で恋を終わらせるのもまた良いけど、瀧本クンはそれをしなかったからね。彼の選択に敬意を払って、年長のボクらは見守ってやろうってだけだよ。じゃあ、よろしくお願いするね~」
「あ、艦長!」
睦郎が慌てて立ち上がっても、艦長は笑い声を薄く残したまま既に廊下の向こうに去ってしまった後だった。あの体型からは考えられぬほどの俊敏さである。まったくもって信じられない。
「……」
もう追っても無駄だ。睦郎は黙って大人しく、ストンと着席する。
「……どうやって、恋を愛に昇華させる……か」
自分の掌をじっと眺める。ああ、これは海の男の手だ。固く荒れて、潮焼けした海軍軍人の手。
もうあの頃とは違うのだ。それでも、彼の中で昇華も霧散もできぬまま燻り続ける感情があるのなら……その起点になった自分にはなにができるのだろう。
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