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第六週「鮪の刺身」
(25)噂話をする時は伝声管を閉じませう
しおりを挟むそれから二週間……
「──なんでさらに深刻な方向に拗れているんだよ!!?」
一月末のある日「古鷹」某所では、機関長である鶴田の悲痛な叫び声がこだましていた。
突然の大声が鼓膜を震わせ、睦郎は思わず両の掌できゅっと耳を塞ぐ。危ないところだった。下手をすれば鼓膜が破れていただろうと思いたくなる大声だ。
鶴田は「古鷹」の機関長。そして彼が根城にしている機関室とは、基本的に大きな音が四六時中鳴り響いているやかましい環境なのだ。そんな所で部下に指示を飛ばす彼の本気の叫びは、最早音響兵器に近い。
「な、ん、で!! あんたらは!! 二人っきりで話せば話すほど泥沼になっていくんだよ!!!」
「そんなんおれに言われても困りますぅ!」
鶴田の言うことにこれでもかと心当たりがあった睦郎が、自棄を起こしたように反論を開始する。
確かに睦郎にも至らなかった点はいくつもあった。だが、それを差し引いても赤岡の方が悪いと睦郎は言い切る。
だいたいなぜ二十年も昔に終わった関係を今さら持ち出してくるのか、まったくわけが判らない。それほどまでに睦郎を恨んでいたのか。それならそうとハッキリ言ってくれれば良いだろうに。
なのになぜか赤岡は、憎むどころか睦郎の方に執着の手を伸ばす。まるで二十数年前のあの日のように。
睦郎にとって、今の赤岡は本気で自身の理解が及ばない存在と化していた。
「おれが知っとる赤岡さんは、二十年前のあれで止まっとるんやから、今の赤岡さんのことなんか知りまへんで!!」
「ええい、埒があかん!! あんたら何か親しい間柄だったんだろ!? だったら、腹括って兄貴分の本音くらい聞き出して来い!!」
「無茶言わんといてください!! それができとるんやったら、おれと赤岡さんの関係はこないに拗れとりませんっ!!!」
もう知らん、完全にお手上げだ。アフター・フィールド・マウンテン。別名、考えることを放棄する。
睦郎は自暴自棄になって、煮るなり焼くなり好きにしろとばかりに喉仏を晒しながら椅子の上で反り返った。
「おい、睦さん」
「知りません」
「はぁ……ったく……最近ケプが引き抜いてきた奴はどいつもこいつも、示し会わせたみてぇに昔の知り合いと仲を拗らせていきやがって……」
こりゃもうテコでも動かん、と悟った鶴田。自分が余計なお節介をかけたばかりに、面倒な泥沼に片足半分突っ込むことになったと口許をひきつらせる。
一方で睦郎の方は、鶴田の発言に気になる部分を見付けて戻ってきた。バネ仕掛けの人形のような動きだった。古い椅子がギシッと嫌な音を立てて軋む。ここに赤岡がいたら「椅子が壊れる」と静かに講義していただろう。
「え? 最近ケプが引っこ抜いてきた奴って……」
「そうだよ。テッポウの瀧本大尉。俺の部下とコレスの。その瀧本大尉が大慌てで陸に降りてった時があっただろ?」
「はぁ……?」
「おっと、この話は睦さんにはしてなかったな」
酢を飲んだような表情で首を傾げた睦郎の様子に気付き、鶴田はポンと手を打った。
以前、鶴田が瀧本のことを話題に出したのは赤岡との会話の最中だ。会話と言うより説教だったという突っ込みはさておき、鶴田は急に真面目くさった表情で声を低くする。
「睦さんと話したのは、年末にラウンドの近くにいた例の陸サンとこの美人の話だったな」
「ん……」
その一言で、思い出した。昨年の年末に起こった、あの奇妙で不思議な出会いのこと。
──瀧本零士によろしくお伝え願うであります
そんな伝言を通りすがりの睦郎に頼んできた、灰色の瞳の陸軍将校。鶴田が言っているのは彼のことだろう。結局正体は判らずじまいだ。今になって狐か狸に化かされたのではと思うようになったのは秘密にしておく。
しかし、彼と瀧本に何の関係があるのだろう。
「ああ、はいはい。ありましたね、そんなこと」
「灰色の目ぇしたあの陸サンな。あ、本筋から反れるんだが、そいつの正体がとうとう判明したんだ」
まさか、判明したのだろうか。その陸サンの美人の正体が。
「俺のクラスメートが陸軍方面のツテを持っててな。名前と所属がやっと割れたぜ」
「へぇ。そんで、やっこさん何者やったんです」
どうやら狐狸に騙されていた訳ではなかったらしい。相手が人間ならば、怖くもなんとも無いと睦郎はどっしり構えて続きの台詞を待った。
「聞いて驚くなよ……この一ヶ月、せんぞ散々俺たちを翻弄してくれた陸サンの正体。それはな……」
「それは?」
「……これは内密で頼むぞ。なにせ相手が相手だからな」
いやに勿体ぶっているが、そんなに面倒な相手だったのだろうか。気が付いたら生唾をのんでいた。
「あの陸サンの名前は、尾坂仙って言うんだ」
「尾坂……?」
どこかで聞いたことがある名字だった。やけに女っぽい名前は横に置いておくとして。
いったいどこで聞いたのだろうかと考える睦郎。ほどなくして、優秀な頭脳が引っ張り上げてきたある情報を認識して「あっ」と声を上げる。
「尾坂……って、今の陸軍省次長の名字やん」
陸軍省次長の尾坂隼三郎中将。聞いたことがあって当然だ。陸軍省次長の尾坂隼三郎と言えば、次期陸軍大臣と噂されている重鎮。海軍、しかもしがない主計科の士官である睦郎でもその名を聞いたことくらいある。
「ん? あれ? ……ちゅうことは、その陸サンの正体って……」
「そうさ、次長の息子だよ」
同じ名字で、同じ陸軍にいる若い男。おまけに尾坂という名字は、あまり見かけない珍しいもの。
ときたらこれはもう、その尾坂仙という男は陸軍省次長の息子ということ以外にはありえないだろう。そうとしか言えない。
「次長は歩兵だが、この息子は工兵みてぇだな。階級は大尉だそうだ」
「あれ、でも次長の息子って……」
「養子だよ。閣下は後継の男子に恵まれなかったからな。他所から養子として引き取ってきたのが、その件の美人の陸サンだ」
「…………」
何か、引っ掛かる発言でもあったのだろうか。睦郎が急に押し黙った。
表情を見ればかなり複雑そうな感情が見え隠れしているのが判っただろうが、あいにく鶴田はそれに気付かないくらいに熱心に次の言葉を探している。
「そんでな。問題はその他所がどこかってことさ」
「……」
「睦さん?」
「……聞いとりますよ。そんで、その次長の坊の実家がどないしたんで?」
「ああ、睦さん。それがな……聞いて腰を抜かすなよ」
いよいよ話が核心に入るらしい。鶴田の声がさらに小さく狭まり、場は密談の様相を呈してきた。
睦郎が耳を傾けているのを確認し、鶴田はそっと囁くようにその名を口にする。
「その次長の息子な」
「おん」
「──旧姓が九条院って言うんだよ」
「!!?」
ガタッと睦郎の手元で大きな音が鳴った。
まさか、そんな大物の名前が出てくるとは思ってもみなかった睦郎。今のは彼が油断していた故に不意打ちを食らい、慌てて机に手をついた際の音だ。普段ならこんな大きな音を出すなと叱られそうだが、しかしそんな名前を出されて平常心でいられるような奴はいないと許されるだろう。
それくらいに、鶴田の出したこの『九条院』という名前は凄まじい破壊力を持っていた。
「く、九条院……って、あの九条院侯爵家の?」
「そうさ。だから言っただろう? 聞いて腰を抜かすなってな」
慌てる睦郎を固い表情で見て、鶴田は震える唇から言葉を紡ぐ。
「やっこさんはな。あの九条院侯爵が溺愛していた三男なんだよ」
人目を憚るように小声で漏らされたその発言は、睦郎にとって冷や汗をかかせるのに十分だったようだ。
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