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第三週「牡蠣の雑炊」
(9)兄と親の修羅場を見ていると弟は強かになる
しおりを挟む「広島って何があったかいな?」
コツン、と鉛筆でいまだに目立つ空白の欄を小突きながら睦郎がぼやいた。
「牡蠣」
「それ以外のモン知りたい」
「チヌ。イワシ。ちりめん」
「海産物ばっかやん」
時は昭和五年、十二月二十四日。重巡洋艦「古鷹」が属する第五戦隊は、無事に広島県呉に入港していた。
睦郎が主計長を勤める「古鷹」は、今は沖合いに停泊中だ。そして今日も今日とて、睦郎は副長に提出する予定献立表の作成に勤しんでいる。
自分の書類を片付ける傍ら、それに付き合う赤岡は適当な返答を返していた。
「でも牡蠣、旨いよなぁ……」
この当時も広島は牡蠣の名産地。この時期の牡蠣は今が旬なので、身がぷりぷりに引き締まっていていくらでも食べられる。
「せやけどなぁ……兵食に使う牡蠣はみぃんな缶詰やねんなぁ……」
「その言い方、缶詰を使うつもりは無いと?」
「当たり前やん。広島やで? 広島ゆうたら牡蠣の名産地やん。そやのになんでまた、わざわざ缶詰を使わなアカンのですん?」
「ごもっとも」
睦郎の発言はもっともだ。今が旬の牡蠣、しかも移籍となった広島はそれの名産地。
ご当地にある食材を使った献立を考案するのは、睦郎の密かな楽しみだった。なので、今回もがっつり入れさせてもらうことにする。
「ですが、アナタ判っていますよね。来週は正月だということを」
「あっ」
「忘れていたのですか……」
今日は十二月二十四日。そして来週は正月であるため、それに応じた献立を考えなければならなかったことを、すっかり忘れていたらしい。とんだウッカリさんである。
「うわぁーん……でも牡蠣入れたいぃ」
「アナタが食に対して非常に強いこだわりがあるのを重々承知した上で言わせていただきますが、ここは妥協をするのもひとつの手ですよ。こだわるのも必要ですが、そのせいで献立に不具合が起きるのでは本末転倒でしょう」
「うぐっ」
まったく隙の無いド正論をぶつけられ、睦郎は言葉を詰めた。
確かにそうだ。食事に対してのこだわりに囚われるあまり、本質を見誤っては主計長としての立場が無い。
だが、それはそれとして、艦船勤務中の者の数少ない楽しみである食事には彩りを入れねばならぬ。乗組員の精神衛生のためにも重要なことだ。決して、睦郎個人の趣味だけではない。
そして軍港と共に生きている街のためにも、停泊している港がある場所の名産品の一つや二つを入れるのが礼儀。それが睦郎の持論だった。
「そもそもの話、アナタ牡蠣を仕入れるアテがあるので?」
赤岡は非常に現実的に物事を見ていた。
軍から糧食の支給はあるが、それでは足りなくなるものもある。特に、腐りやすい生鮮食品などは現地調達が望まれるので、艦ごとに多少の予算は組み込まれていた。
予算はあるのだろう。だが、いったいどこからその牡蠣を仕入れるつもりか。
「安心してつかぁさい。アテはちゃんとあるで」
どうやら心配する必要は無いようだ。睦郎は耳の上に鉛筆を乗せてニコッと笑った。
こういう顔を見ると非常に幼く見えるが、彼はもうそろそろ四十路に突入する年齢である。騙されてはいけない。
「前にここで世話になった漁師のあんちゃんがおるさかい、そのツテを頼らせてもらいますねん」
「そうですか」
いったいいつの間にそんな縁を……と思ったが、彼とて海軍軍人なのだ。
軍人なんてもの、転勤ばかりの職業。それも士官、さらに海軍であるなら尚更。
赤岡にだって覚えがある。海軍軍医は病院などの陸上勤務と艦船での洋上勤務を交互に繰り返すものであった。
睦郎も主計科とはいえ、海軍士官。あっちこっちを転々としている内に、様々な場所で様々な縁を結んでいるのだろう。
「……」
「ん? もしもし? もしもーし、赤岡さーん?」
「……なんです」
急に黙り込んだ赤岡を心配し、不安そうに呼び掛ける睦郎。
赤岡が直ぐに返事をしたため、その心配は杞憂に終わったのだが。
「いや、急に黙り込まはったから……」
「判りました。アナタが自らの職務にこれほど熱心に取り組んでいますからね。私も無下にはしませんよ」
睦郎の掲げる信念についてはよく判った。ならばそれに敬意を表してこんな提案をしておこう。
「そんなに牡蠣を入れたいなら、夜食にでも使えばよろしいでしょう」
「その手があったやん」
ポン、と手を打つ睦郎。正しく青天の霹靂という奴だったのだろう。その手があったか、と。
海軍では娑婆と同じく朝食、昼食、夕食があるのだが、実は他にもう一食存在していた。それが夜食だ。午後十時から翌日の午前四時までの時間帯に勤務する下士官兵に対し、必要に応じて提供される食事だ。
なるほど、盲点である。そこに牡蠣を使った料理を放り込もうという算段らしい。
「牡蠣……牡蠣……牡蠣を使った夜食用の軽いモン……」
「雑炊」
「ちょっとそれ、安直過ぎません?」
安直もなにも、牡蠣の雑炊は海軍のレシピに堂々と乗っている由緒正しき夜食なのだが……
「あぁー……しまったなぁ……横須賀出る前に弟にもっと聞いとくべきやったわぁ……牡蠣料理……」
「弟?」
気になる単語が出てきたことにより、赤岡は思わず作業の手を止めて顔を上げた。
「……そう言えば前に陸軍に弟がいるとか言っていましたね」
「うん、おれの下の弟。今、歩三(※歩兵第三連隊)の連隊長附副官やっとる」
睦郎は三人兄弟の長男だ。彼の言う「陸軍にいる弟」というのは、鷹山家の三男坊のことである。
「何の因果なのでしょうかね。兄弟で海軍と陸軍に別れてしまうなど……」
「それでもおれ、アイツとは身内の中で一番仲エエんやで」
海軍と陸軍は明治建軍以来、不仲が続いている──というのはきっと有名な話だろう。
様々な事情が運悪く折り重なり、こと日本における陸海の仲の悪さは天下一品。日本は大陸を背後に置く海洋国家という複雑な立ち位置にいるので、まあ仕方がないと言えばそこまでだが。
それでも、たとえ組織同士がいがみ合っていようとも、個人レベルともなればまた違う。
確かに個人同士でも不仲の者が多いと言えば多いが、中には組織の垣根を越えて良好な人間関係を築いている者もいたので一概には言えない。
「にしてもアイツ、なーんや知らん間にシレーっと陸幼に行っとってなぁ……その辺はホンマ強かなやっちゃで」
「なるほど。間違いなくアナタの弟ですね」
「千晴ゆうねんけどな。当主がポックリ逝っちまって、跡継ぎ関係で修羅場になっとるの見てマズイ思たんやろうな。おれが家出た後に、ちゃっかり上の弟に跡継ぎ押し付けて逃げ切りよったわ」
ケラケラ笑っている睦郎だったが、これは別に面白いから笑っているというわけではない。むしろ逆だ。
人間は、あまりにも辛い経験を一気にしてしまうと、逆に声を上げて笑ってしまう。これは、半ば諦めの入った感情なのだろう。
「それで、その弟さんと牡蠣がなぜ繋がるのです。歩三の副官ということは、勤務地は東京なのでしょう? それかもしくは、原隊が広島の歩兵第十一連隊でしたとか……」
「いんや、ちゃうで。アイツの原隊は静岡。でも、何やアイツが陸士で一番仲よぉしとった同期が、広島陸幼出身で広島の部隊が原隊で、しかも今は広島の工五で中隊長しとるとかでな。広島近辺のこととかよぉ聞かされとったらしいねん。それで、もっとその同期の話を聞いとけば良かたて後悔しとる」
なるほど。睦郎はその「弟と一番仲が良かった同期」とやらの話をもっと聞いておけば良かったと思っているのだろう。それで、陸軍では牡蠣をどうしているのか聞き出すつもりだったに違いない。ただ、たとえ接触できたとしても相手が好意的にしてくれるかどうかは不明だが。
「アイツ、なぜかその同期の名前出すを渋っとったせいで名前も聞いとらんかったしなぁ……手がかり無しやで諦めんとしゃあないな」
結局、ぐるぐる回って雑炊に戻ってきてしまった。まあ、夜食にできる牡蠣料理など、今のところこれくらいしか無いだろう。
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