軍艦乗りの献立表─海軍主計科こぼれ噺─

春蘭

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第二週「肉じゃが」

(5)給料の前借りはほどほどに

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 海軍、特に艦船勤務をする者の食事について。
 献立は主計長が軍医長の助言を受けながら慎重に決定すること。(当世風に砕けた言い方をする)

 なので、主計科と軍医科は普段から円滑な業務を遂行するための努力を惜しんではならない。人間関係は良き職場環境を構築するための第一歩なのである。
 いくら業務内容が良くとも、人間同士がギスギスしていたのでは、有事の際に連携が取れなくなるというものだから。

 軍医長である赤岡が主計長である睦郎と話し合いの機会を設けるのは、職務上必要なことなのだ。決して、彼が睦郎に肩入れしているとか、そういうものではないことを十分にご理解頂きたい。

 以上、閑話休題。

「それで、冷凍庫は直ったので?」

 今日も今日とて、赤岡に献立の相談をするためやって来た睦郎に問いかける。
 別に主計長が軍医長と話し込むなど珍しい光景でも無い。他の艦艇でも献立は軍医との相談の上で決められるもの。あの「武士は食わねど高楊枝」を地で行っているフシがある陸軍でさえも、主計の者が連隊や大隊に配属されている軍医と相談の上で決定しているのだ。
 もっとも、陸軍士官で内地に勤務している部隊の者である場合は、兵員用の食事とはまったく違うものが提供されるのだが。その辺りは割愛しよう。

「あ……うん。一応はな。機関長にいっぺんこってり隅から隅まで見てもろたから、原因も判明してちゃんと直してもらえたで。まあ、そん代わりに一札抜きでアドバンスを要求されたんやけど」
「そうですか。出港直前であたふたしていたので心配していましたよ。私の思い過ごしになったのでしたら良かった」

 ちなみに「アドバンス」というのは海軍士官の間で受け継がれている隠語で「給料を前借りする」という意味だ。

 主計科の任務その二、乗組員の給料を計算すること。

 彼らとて人の子。先立つものは必要だ。
 しかし海軍の給料というものは、各人の能力や肩書き、そしてツケの有無で渡される給料の額が毎月異なることもざらにある。それらをまとめて計算しているのも主計科の仕事だった。
 ここで海軍士官の給料について軽く説明しておこう。日本海軍では、士官は自身の食事にかかる費用は自腹。連合艦隊の司令部で振る舞われるフランス料理のフルコースについても自腹であった。また士官は洗濯をクリーニングに出していたので、その費用も給料から天引きされていくシステムとなっていた。それと上陸した際に遊びに出掛けたレス作ったツケも引いていたので、主計科というものはそれなりの激務なのだ。
 海軍軍人はスマートで格好良いのか。いや、確かにそうなのだろうが、士官にもピンからキリまである。
 たとえ憧れの短剣を吊った海軍士官と言えども、その内情は意外にも薄給だったりした。特に、少尉中尉の頃は「貧乏少尉にやりくり中尉」と揶揄されるほどの、雀の涙程度の年俸である。
 そこからさらに、准士官以上の軍人は軍服を仕立てるのも自腹であったので、さらに困窮したそうだ。

 だが、艦艇勤務者には強い味方があった。それが各種の手当て。
 潜水艦乗りや駆逐艦乗りに戦艦空母勤務者以上の高給取りが多いのはそれだ。航海加俸は排水量が小さい艦船で、さらに危険度が高い任務に従事する者ほど高かったそうだ。

 話を戻そう。給料は厳格かつ公正をもって計算されるべきことなのだが……実をいうと、そこにはちょっとした抜け道があった。
 それが「アドバンス」。要するに給料の前借りだ。
 やり方は簡単。主計長にこっそり都合を付けて一札捩じ込んで頼むだけ。後はその翌月に前借りした分の給料と主計長へ捩じ込んだ分が引かれた、悲しいくらいに少ない給料が帰ってくるという寸法だ。あまり大っぴらにして良いことではないので、このような隠語で呼ばれていた。

 今回、機関長は睦郎に大きな借りを付けて、まんまと懐を痛めずにアドバンスの話へ持っていったというわけだ。機関長が前借りした分でいったい何をするつもりなのかは不明だが、まあ正当な取引の上で行ったことだ。
 別に睦郎が騙されたり一方的な被害を被ったというわけではないので、放置しても大丈夫だろう。

「まあな。ちょお解けとった食材も余さず使いきれたし、後は残ったモンをどれだけ無駄にせんと呉に着くまでに使いきるかやな!」
「そのために今、献立を考えているのでしょう。あまり時間は取れませんので、私が助言を与えられる内に早く終わらせましょうか」
「はーい」

 軽く返事をして、睦郎は気持ちを切り替えながら赤岡と共に机に向き合う。

「それにしても、そろそろ移籍の話が来るんちゃうかーとか言われとったけど。まさか本当に移籍になるなんてなぁ」
「ええ。私もここで勤務して一年くらい経ちましたからね。そろそろ呉の海軍病院辺りに異動になるかと身構えていたのですが、まさか乗っている艦が異動するとは思ってもいませんでしたよ」

 彼らが乗り組んでいる重巡洋艦「古鷹」は今、横須賀にはいない。数日前、「古鷹」は戦隊の旗艦である「青葉」と共に横須賀を出港し、今は広島県の呉に向かって一路航海の途中である。
 現実世界では、帝国海軍第五戦隊が神奈川の横須賀から広島の呉に移籍となったのは、昭和七年の十二月だが……ここでは様々な要因が重なった結果、それが少し早まり「古鷹」を含んだ第五戦隊は昭和五年の十二月に呉への移籍が決定したことになっていた。

「でもまあ……呉、広島かぁ。広島ゆうたら、大阪にけっこう近いやん」
「それに何か問題が……ああ、そういえばアナタ、ご実家が大阪とか言っていましたね」

 訛りが強い関西弁。それから容易に察することができただろうが、睦郎は近畿の出身だ。実家は大阪で長く繁盛している商家だそうで、数字に対してべらぼうに強いのはそのせいでもあった。

「…………」
「おや、これは失礼。そういえば、アナタのご実家の話は禁句でしたね」

 何事かを思い出したのか、無言で固まる睦郎の姿にハッとした赤岡。
 表面上は平静さを装いつつも、可及的速やかに話題を変えようと努めた。

「うん……ええねんけど」
「話を戻しますが、この間の鯖カレーは中々好評だったようですね」
「ん、まあな。急拵えでジョンベラには無理ゆうてしもたから申し訳無かったけどな」

 どうやら本日の昼食として提供された鯖カレーは、どうやら成功の部類で終わったらしい。
 カレーに鯖。などという、徹夜した末に馬鹿になった頭が自棄を起こして出たような、博打同然の組み合わせの献立だったのだが成功したのならそれで良い。用は結果が全てなのだ。これなら最初は渋っていた副長も文句など無いだろう。

「でもさすがにあれはな。いくら艦ごとにレシピを多少は変えてもええゆうても、あれは特例中の特例で認められたようなもんやからなぁ。次は無い思て行動しとる」
「そうですね、それが良いでしょう、私も後になってカレーに鯖はどうかと思い始めたので……」
「え?」
「いえ、何も?」

 うっかりして最後に余計な一言を付けてしまったが、何でもない風を装って流れるように訂正しておいた。
 真性サド野郎などと言われて数多の将兵に恐れられる赤岡は、どうも睦郎の前だと気が緩むらしい。本人は決して認めないだろうが。

「その場を凌げたらそれで良いのです。同じ手が二度成功するなど、私も思ってはおりませんので」
「せやな」

 だが献立というものはやはりむつかしい。飽きさせず楽しませる。娯楽も逃げ場も無い艦内でそれを怠れば、あっという間に士気が崩壊するのは目に見えていた。

 艦内の士気の行方は、主計科が握っていると言っても過言ではない。

 一日の活力の源は食事にあり。特に海軍はその任務の性質上、嫌でも食にはうるさくならざるを得ないのだから。

「ともかくちゃっちゃと終わらせましょ。次の仕事にも取りかからなあかんからな。機関長のアドバンスの件もあるし」
「──おーい、睦さんやーい」

 睦郎が気を引き締めて気合いを入れたその瞬間、間延びした野太い声と共に扉が開けられた。

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