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不機嫌な朝
しおりを挟む結局昨日の夜中は走り込むのもそこそこに一時間もせず俺はマンションに戻った。走れば少しは発散できるかと思った心のもやもやは、走っていても何をしても頭の中からは消えてくれずいつまでも俺を苛んだ。
まだ朝日がビルの隙間から少し見えるほどしか上がっていない早い時間帯に布団から抜け起きて、余り眠れなかった身体に温かい烏龍茶を流し込み体温の上昇を促す。
あいつの声が無性に聴きたい。でも電話する時間でもない。何度も携帯の連絡先を表示して見るけれど一向に指は動かなかった。今頃はまだ寝ているだろう。俺ではない誰かが彼の隣で寝息を立てているのだと思うと余計虚しさに襲われた。
会えないのに声を聞いたら会いたくなってしまって、きっと情けない顔を下げてアパートに戻りアイツを困らせる事になるのがオチだ。暗くなった携帯の画面を見てそのままポケットに入れ、だだっ広いリビングの窓から外を眺めた。住んでいたアパートとは全く違う景色。夜にはそれは綺麗な眺めだけれど、今や俺にはどうでも良い景色になって居た。
課したそのハードルを越えなければ好きな人に逢えないという自分で作ったルールは思った以上に重たく自身の精神にのしかかり、ハードルを高く設定し過ぎたかもしれないという弱気な気持ちが生まれそうになって、そんな事ではライバルには立ち向かえないとまた己を鼓舞する。
朝の霧だか排気ガスなのかわからないビルの合間に立ち込める靄を見降ろし、何日見ても好きになれないその景色に薄いカーテンを引いて、事務所へ上がる準備をした。
*
事務所は朝七時にそのドアが開かれる。大体はトリーシャが鍵を開けているそうだが彼女が居ない場合はルイスが代わりに行う。
事務所の入口を通り静かなオフィス内を過ぎてトレーニングルームへ直行すると先客がいた。トレーニングルームはガラス張りで、ここも他の部屋同様必要に応じて中央帯を磨りガラスに切り替える事ができる。今も磨りガラスにしてありちょうど見えない所に位置する奥のランニングマシンで走る音が聞こえ僅かな影が動いて見えた。
ドアを少し開けて覗くと走る体に合わせてさらさらと揺れる金色の髪がブラインドの隙間から入り込む朝陽を反射してキラキラ光っている――ルイスだ。
悪態を吐かれた後にまた夜中に顔を合わせて気まずかったが、ずっと顔を合わせずに過ごせるはずもないから気にしないフリをして重たいガラスのドアを押し開け室内へ足を踏み入れた。
ドアの上下に付けられている金属の錠部分が擦れ合い、僅かに耳に障る摩擦音が響くとそれに気づいて彼が走ったまま振り返る。
俺の姿を確認するとすぐにマシンの速度を指で落とし、足をゆっくりと止めイヤホンを外した。
「おはようございます、今日は早いですね」
「あぁ、昨日眠れなかったんだ」
「それは……僕たちを、見た……から?」
少しの焦りを見せてルイスは小さい声で聞いた。
「違う。眠れないから走りに出たんだ。走っても無駄だったけどな。偶々タイミング悪くてすまなかった、野暮だったよ」
「別に謝られる様な事は……」
少し口を尖らせる仕草は彼を年齢より格段に幼く見せた。恥ずかしいのか走って暑いのか顔を赤らめた。
「俺だから良かったものの、あれ別の人に見られてたら大変な事になるんだろう?ああいうのは用心した方が良い」
忠告のつもりで発した俺の言葉に彼はムッとした顔をして俺は地雷を踏んだ事を悟った。
「フランスではビジュと言って男性女性関係なく頬にキスをするんです。偏見はやめて頂けますか?」
あぁ、まただ。何故かこうやって折り合いが悪くなっていく。俺の言い方が不味いのか。
「別に偏見は持ってないつもりだ。ただ心配して言ったんだ。お前は表に出てる人間じゃないが、相手は超有名人だろ?俺はまだ無名なのに散々気をつけろって口を酸っぱくして説教するじゃねぇか。アイツのスキャンダルの種を自分で蒔いてどうすんだ」
俺の正論に返す言葉が無いのかぐっと唇を噛んでルイスは顔を逸らした。
「……そんな事、十分解ってます。少し動転していて迂闊でした。君の様に夜中に出掛ける人も居るのだし、気をつけます。昨日の事は誰にも言わないでください」
悔しそうな表情を見せるとブラインドを開け機械に乗ってまた走り出した。
俺は隣のマシンの電源を入れて走る。
ルイスは横に来た俺に冷たい視線を投げて前を見たまま俺の返事を待っていた。
「誰にも言わねぇよ。俺はパパラッチじゃないんだ。他人の恋愛に首突っ込むつもりもないし、ただ気をつけた方が良いと思っただけで……それよりさ、お前が走るの初めて見たよ」
「別に、ここで走るのは初めてじゃありませんが」
「何で急に走り出したんだ。体力作りかよ?それとも体重増やせって、彼氏に言われたのか?」
「アンディは彼氏じゃありませんってば。私の兄の様な存在です。変な詮索しないで」
あんなに切ない目でルイスを見つめていたアンディが彼氏ではないのか。
「そうか、アイツの片思いか」
「なんだって僕とアンディの関係を勘ぐるんですか?君には関係ない事でしょう?」
「昨日エレベーターでお前を虐めるなと言われた。俺は虐められている側だと思ってたけどな」
ははっと笑うと、ルイスは走る速度を緩めた。
「僕だって本当は……彼はいつも僕を助けてくれるんです。昨日も危ない所を救ってもらった」
「危ないって?」
「僕は意図せず人の目を惹くところがあるらしくて無駄に絡まれるんです。昨日も公園にいるだけで若い子達三人に追いかけられて」
「はぁっ?」
走る足が驚きで絡んで転けそうになり、慌ててマシンの急停止ボタンを押下した。
「俺とエレベーターで会った後の事だよな?」
「ええ。アンディからはいつも警戒しろって言われてるんですけど、僕は別になよなよしてる方じゃないし、どう見ても誰から見ても男だと思うんです。背だって一応一八〇センチはあるから女性に見える筈はないのに」
美しいと男だとか女だとかそういう概念が関係なくなってしまうのは自分でも経験があるから理解できるが、見知らぬ人間に追いかけられるとなると厄介だ。物悲しそうに傷ついた顔を晒したルイスがふと不憫に思えた。
こんな容姿をしているからきっと普通にしていても誰彼構わず言い寄られたりするんだろう。
「その三人に追いかけられて、アンディに助けて貰えたのか、ラッキーだったな。そんなに簡単に危ない目に合うんじゃアンディが言う様に警戒した方が良いのかもな」
そう言うとまた何かが気に入らなかったらしく目を鋭くして俺を睨んだ。どうやら何を言っても腹を立てさせてしまう様だ。
「十分自覚してます。この顔の所為で嫌な思いを沢山してきたんだ。だからと言って所構わず追いかけられる所以はない。ただ少し不運だっただけ。デモ活動してた人達で、酔って気が立ってたから。だから僕に突っ掛かって来て……」
ルイスはそこで言葉を紡ぐのを止めて肩を庇うように触ってまた走り出した。
「ちゃんと逃げれる様に体力をつけようとこうやって走ってるんです。君には迷惑かけませんからほっといてください。
ダオ監督からの言伝で話があるから午後に時間を取って置く様にとの事でした。今日予定していた午後のアクショントレーニングを明日にずらしますからそのつもりで」
「わかったよ」
どう喋っても彼の気に触るようで、これ以上心配をしても逆に彼を傷つけるのだと理解し俺は寡黙に朝トレを続けた。
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