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chapter 43 苦痛
しおりを挟む「命を掛けて」
そう言われて海静はぞくっとした。
幼少の頃、言葉の通り命を掛けて母親と逃げ回った日を思い出す。
生きるか死ぬかさぁ選べと言わんばかりに追い回され、逃げなければ殺されるという恐怖心で支配された生きた心地のしない日々。
そうだ、命を掛けて染谷は俺を守るだろう。その言葉の重みが俺には解る。
だが生きている事自体が本当は辛い。苦しい過去から逃げる事は出来ないから。海静は宝になると覚悟を決めたが、過去から生まれ出る黒い不安の亡霊達を消し去ることは出来ないでいた。
そんな彼を染谷は繰り返し労わってくれる。
『貴方の過去の出来事は貴方のせいではない。貴方は十分苦しんだ。これからは私が貴方を守り抜く。』
彼の言葉にどれ程救われた気持ちだっただろう。
しかし心と裏腹に体は苦痛を求めていた。苦痛を感じる事で自分が生きていると知ったから。
海静は染谷と話し終わると部屋に籠り、染谷の言葉に想いを馳せた…。
染谷の言葉にトラウマを思い出して欲したのか、生きたいと本能が警鐘を鳴らすからなのか、体の昂りを感じた海静は一人になる必要があった。
男は死に至る前には子孫を残そうとするらしいが、追い詰められた海静にも同じく本能は携わっている。
海静は自分で身体を慰めてみようと試みたが、上手く消化出来ないでいた。
何度も試みてもどれ程強く願っても、身体は一向に満たされる事を知らない。
『何故俺がこんな身体に…』
己に弄ばれた体は熱を帯びるが、心が求めるものと体が与えられるものの空虚に彼は何度も苦悶する。
声が漏れていたのだろうか、染谷が不意に部屋をノックした。
コンコンコン…
「海静様…。起きておられますか?」
海静は返事をせずにベッドの上で布団を被り、己を持て余しながら染谷が去るのを待っていた。
「海静様?…」
しかし彼は立ち去らなかった。彼がそっとドアを開くと暗い部屋に廊下からの光が入り込み、開いた隙間から海静のベッドへ向けて男の影を映した。
そっと音を立てずに後ろ手にドアを閉め、染谷は海静の部屋に入った。
『こんな時に何で勝手に入ってくるんだよ!』
海静は早くなる鼓動を落ち着かせようと必死に堪える。果たしてそれはどちらの鼓動だっただろう。気づかない染谷は少しずつベッドへ近づいた。
「海静様…またあの夢を見ておられるのですか…?」
呟く様に語りかける染谷の声は小さく、体中で心配でたまらないと叫んでいるようだ。
海静は後ろめたい気持ちになった。染谷は真剣に彼の事を心配し、彼を中心に生活をし、守ろうとしてくれている。
そんな彼の言葉を受けて、自分は過去の苦痛を引っ張り出し、己の慰みに耽っているなど、まるで羞恥心のない娼婦にでも成り下がった様に感じた。
「…っく…ッ…」
内に籠る熱が逃げ場を失い、恥ずかしいと思えば思うほど、海静の体は言う事を聴かず声を漏らした。身体は染谷の訪れに血流を促し、容量を増す。
あの夢に魘されていると疑わない染谷は反対側に顔を向けている海静を見つめて呟く。
「貴方を守れずにいた自分が呪わしい…何故私は貴方の御傍で育てられなかったのでしょう…どうして逃げ込む場所が私の家ではなかったのでしょう…そうすればあんな男に…」
海静を目を見開いた、何故染谷がそんな事を知って…!!そして布団をガバッと取ると染谷を睨みつけた。
「何でお前がそんな事を知っている?それは俺の親も誰も知らない事だ!!知っているのはあの男と俺だけなのに!!」
染谷は起きていると思っていなかった海静が起きて今にも泣きそうに怒っている事に驚いた。
「……ええ、知っています。私以外、他の誰も知りません。ですが私は知ってしまったのです。」
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