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恵は中性的に見える子どもだった。小さい頃女の子と思われたのか見知らぬ男に連れ去られそうになり、その時連れ込まれた車の中で下半身を見せられて、無理やり男のものを触らされて吐いた。自分の吐瀉物の匂いと犯人の車の中のすえた匂いがトラウマになり、汚れている場所にいると気分が悪くなり、汚れは悪だと思うようになった。
学生時代はクラブハウスの汗の匂いも耐えられず運動部には入れなかった。女性でも不衛生な状態を見ると嫌悪感を抱く。自分の生活範囲の中で汚れていると知ると綺麗にせずにはいられなかった。
そんな症状の中にも一つだけ例外があった。
車に連れ込こまれた後、現場を目撃した爽太が大声を上げ、車のドアを開けて恵の手を引っ張って助けた。誘拐事件を未然に防いだ爽太は本物のヒーローだった。逃げる時に香った爽太の服の匂いは安心していいものという刷り込みが成立し、恵は爽太の物であれば拒否感を持たずに触れたり匂いを気にしないでいる事ができた。ヒーローの匂いだけ特別になったのだ。だがそのヒーローの部屋であっても汚部屋には耐えられない。
「掃除しろって!」
引きこもりになってしまった爽太は掃除はおろかゴミさえ捨てない。いい加減にしろと怒るとメソメソし始める。爽やかな笑顔の爽太は一体どこへ行ったのだ。俺のヒーローを返してくれ。そして出来るならファーストキスも返してくれと言いたかった。恵は別に男が好きなわけじゃない。爽太の事は好きだがそれは恩人としての好意だ。大体好きだ好きだと言う割に爽太は恵のいう事を全然聞かない。もう24歳だと言うのにいつまでああやっているつもりなのだろう。考えれば考える程腹立たしくなる。元々出来る側の人間であることを知っているから尚の事怠惰に見えた。
ゴミ出しから帰って来た恵はまだ部屋の中で着替えにもたついている爽太にいら立つ。
「まだ着替えてねぇのかよ!」
「キスしてくれたら着替える」
「さっき無理やりしただろうが!ボケっ!」
「クーン」
犬の鳴きまねをして爽太はしぶしぶ着替え始めた。大きな体をして何がクーンだと恵は憤慨する。
初めてのキスを奪われた後、盛大に胃の中のものをぶちまけて爽太は唖然としていた。そのあと何度も謝ってきたが、部屋に来るたびに隙あらば恵の唇を奪おうとする。行動がエスカレートしてきているあたり、反省しているとは思えない。おかげでキスには耐性ができ始めていたが社会人二年目になっても恵はまだ童貞だった。潔癖症が邪魔をして会社の女性たちに声を掛けられても怖くて付き合うなどという段階に進めない。他人との接点がない爽太の方が経験に乏しいはずなのに色々してくるのはなぜだ。解せないとさらに恵は不満が募る。
どちらかといえば自分が先に社会人になったのだから、先輩風を吹かせて爽太にあれこれ教えてやりたいと思っていたのに、肝心の仕事に就かないのだからいつまで経っても世話が掛かる。早くあの頃の爽太に戻ってほしいとため息が出た。
「めぐちゃん、就職したらお祝いくれる?」
シャツのボタンを閉めながら爽太が訊く。
「あぁ、あぁ、盛大に祝ってやるよ」
「やった! 何にしようかな?」
「なんでも食わしてやる。俺の方が先輩だしな」
床に脱ぎ散らかしたパジャマを拾った。
「ほんと?! だったらめぐちゃん!」
「うん? 何がいいんだよ」
洗濯機の上に畳んでおいておく。また下着を洗っていない、と洗濯機の中に放り込んで洗剤を入れてボタンを押した。
「だから、めぐちゃん」
「なんだよ、洗濯くらいたまにはしろよ」
「だからー、ご褒美に食べたいのはめぐちゃんだよぉ」
「はぁああああ?」
恵は風呂場から爽太を振り返ってこめかみに青筋を立てた。さっき股間を押し付けて蹴り上げられたばかりなのに懲りてない。
潔癖症で男のアレに対して嫌悪感は持っているが恵は健全な青年だ。性的欲求は普通の男性に比べれば随分少ないかもしれないが、一応はある。AVだって女性向けの男性器が出てこないものを見て勉強もした。自分のものを触るのもあまり好きではないし、ましてや他人のものを触ることなど考えたくないが、女性とはいたしてみたいとも思ったりする。爽太とキスはしたけど、ただ嫌悪感が起きないだけで、それは恋愛とは違うと思う。爽太とは言えアレを見せられたら吐きそうだ。無理。絶対無理。
いつこの潔癖症が治るのかはわからない。わからないけど克服しない限りは一般的な家庭というものも自分には縁遠いままになるのだろうという漠然とした不安だけは抱えている。何せ自慰でさえ若干怖いし、女性ともしたことがないのだ。だから半分諦めているようなところもある。きっと自分には他に夢中になれるものが出てくるだろうとか、別に結婚できなくたって人生は幸せに送れるだろうとか。
そんな悩みを抱えているところへ食べたいなどと言われても訳が分からない。恵はそういう場所にいない。引きこもりを心配してちょくちょく世話を焼きに来ているのにこいつは何を考えているのだ。腹が立つのに放っておけないのは、命の恩人だから。あのまま連れ去られていたら、自分はこの世に存在しなかった可能性もある。そう思い返すとやはり邪険にできない。引きこもってたってヒーローだったことに変わりはないのだ。結局突き離せないこの男の就職と立ち直りを神に願い、爽太の背中を押して面接へ向かわせた。
学生時代はクラブハウスの汗の匂いも耐えられず運動部には入れなかった。女性でも不衛生な状態を見ると嫌悪感を抱く。自分の生活範囲の中で汚れていると知ると綺麗にせずにはいられなかった。
そんな症状の中にも一つだけ例外があった。
車に連れ込こまれた後、現場を目撃した爽太が大声を上げ、車のドアを開けて恵の手を引っ張って助けた。誘拐事件を未然に防いだ爽太は本物のヒーローだった。逃げる時に香った爽太の服の匂いは安心していいものという刷り込みが成立し、恵は爽太の物であれば拒否感を持たずに触れたり匂いを気にしないでいる事ができた。ヒーローの匂いだけ特別になったのだ。だがそのヒーローの部屋であっても汚部屋には耐えられない。
「掃除しろって!」
引きこもりになってしまった爽太は掃除はおろかゴミさえ捨てない。いい加減にしろと怒るとメソメソし始める。爽やかな笑顔の爽太は一体どこへ行ったのだ。俺のヒーローを返してくれ。そして出来るならファーストキスも返してくれと言いたかった。恵は別に男が好きなわけじゃない。爽太の事は好きだがそれは恩人としての好意だ。大体好きだ好きだと言う割に爽太は恵のいう事を全然聞かない。もう24歳だと言うのにいつまでああやっているつもりなのだろう。考えれば考える程腹立たしくなる。元々出来る側の人間であることを知っているから尚の事怠惰に見えた。
ゴミ出しから帰って来た恵はまだ部屋の中で着替えにもたついている爽太にいら立つ。
「まだ着替えてねぇのかよ!」
「キスしてくれたら着替える」
「さっき無理やりしただろうが!ボケっ!」
「クーン」
犬の鳴きまねをして爽太はしぶしぶ着替え始めた。大きな体をして何がクーンだと恵は憤慨する。
初めてのキスを奪われた後、盛大に胃の中のものをぶちまけて爽太は唖然としていた。そのあと何度も謝ってきたが、部屋に来るたびに隙あらば恵の唇を奪おうとする。行動がエスカレートしてきているあたり、反省しているとは思えない。おかげでキスには耐性ができ始めていたが社会人二年目になっても恵はまだ童貞だった。潔癖症が邪魔をして会社の女性たちに声を掛けられても怖くて付き合うなどという段階に進めない。他人との接点がない爽太の方が経験に乏しいはずなのに色々してくるのはなぜだ。解せないとさらに恵は不満が募る。
どちらかといえば自分が先に社会人になったのだから、先輩風を吹かせて爽太にあれこれ教えてやりたいと思っていたのに、肝心の仕事に就かないのだからいつまで経っても世話が掛かる。早くあの頃の爽太に戻ってほしいとため息が出た。
「めぐちゃん、就職したらお祝いくれる?」
シャツのボタンを閉めながら爽太が訊く。
「あぁ、あぁ、盛大に祝ってやるよ」
「やった! 何にしようかな?」
「なんでも食わしてやる。俺の方が先輩だしな」
床に脱ぎ散らかしたパジャマを拾った。
「ほんと?! だったらめぐちゃん!」
「うん? 何がいいんだよ」
洗濯機の上に畳んでおいておく。また下着を洗っていない、と洗濯機の中に放り込んで洗剤を入れてボタンを押した。
「だから、めぐちゃん」
「なんだよ、洗濯くらいたまにはしろよ」
「だからー、ご褒美に食べたいのはめぐちゃんだよぉ」
「はぁああああ?」
恵は風呂場から爽太を振り返ってこめかみに青筋を立てた。さっき股間を押し付けて蹴り上げられたばかりなのに懲りてない。
潔癖症で男のアレに対して嫌悪感は持っているが恵は健全な青年だ。性的欲求は普通の男性に比べれば随分少ないかもしれないが、一応はある。AVだって女性向けの男性器が出てこないものを見て勉強もした。自分のものを触るのもあまり好きではないし、ましてや他人のものを触ることなど考えたくないが、女性とはいたしてみたいとも思ったりする。爽太とキスはしたけど、ただ嫌悪感が起きないだけで、それは恋愛とは違うと思う。爽太とは言えアレを見せられたら吐きそうだ。無理。絶対無理。
いつこの潔癖症が治るのかはわからない。わからないけど克服しない限りは一般的な家庭というものも自分には縁遠いままになるのだろうという漠然とした不安だけは抱えている。何せ自慰でさえ若干怖いし、女性ともしたことがないのだ。だから半分諦めているようなところもある。きっと自分には他に夢中になれるものが出てくるだろうとか、別に結婚できなくたって人生は幸せに送れるだろうとか。
そんな悩みを抱えているところへ食べたいなどと言われても訳が分からない。恵はそういう場所にいない。引きこもりを心配してちょくちょく世話を焼きに来ているのにこいつは何を考えているのだ。腹が立つのに放っておけないのは、命の恩人だから。あのまま連れ去られていたら、自分はこの世に存在しなかった可能性もある。そう思い返すとやはり邪険にできない。引きこもってたってヒーローだったことに変わりはないのだ。結局突き離せないこの男の就職と立ち直りを神に願い、爽太の背中を押して面接へ向かわせた。
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