機械仕掛けの心臓

小鷹りく

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心の臓

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 書斎で書き物をしていると戸を叩く音がした。私は机上の懐中時計を見る。今日も定刻通りだ。入室許可を下すとドアは静かに開かれ黒い燕尾服に身を包んだ青白い顔の男は部屋に入る。私へお辞儀をすると口を開いた。

「――葵様、お茶が入りました」

「うん、ありがとう。そこへ」

 指示を聴くと無駄な言葉を一切口にすること無く卓子にティーセットを置いて彼は立ち去った。まるで意思を持ち合わせぬ機械の様に、毎日寸分違わず同じ所作で部屋へ入り、出て行く。

 陽が落ち、ドアがまたノックされ、同じ様に音少なく部屋に入る彼は、今度は食事の準備が出来ました、とだけ告げる。そして返答を聞くとすぐに部屋から立ち去った。会話は毎回一辺倒。黙々と言われた仕事だけをこなす彼の目に光は映らない。

 朔弥さくやは素晴らしい寡夫であり、私の守り人である。

 よく気が利き、誰にでも優しく、私に話しかけるときはいつも胡桃色の瞳を輝かせて微笑む男だった。暑い夏には朝から氷を取り寄せて氷嚢を準備し、冬の布団には湯たんぽを入れて私が寒さに身を震わせる事などないようにと肌理細やかに計らう思い遣りがあった。頼むまでも無く全てを揃え、寝食にしても外出にしても彼に任せていれば全てが滞りなく進んだ。粗雑な輩が近づけば言葉の通り体を張って私を守る完全無欠の守り人だった。

 そんな彼が、今は命じられた事しか出来ない人形と化している。

 我が国に西洋の文化が多く輸入されるようになると同時にロボーという小さな機械もこの国に持ち込まれた。なんにでも使える精密機器で科学者達は遅れを取るまいとこぞって研究を進めていた。あらゆる実験が行われる中で、ロボーを使った人体実験も密かに行われており、体にそのロボーを埋込んで臓器機能を代替させる事が可能だという事が分かってきた。

 我が家系は能力を持ち合わせた人間が生まれる為、世代交代をしようとも当主の命を狙う敵対組織が必ず存在した。出かけ先で気を緩めていた所へ発砲の攻撃を受け、私の身を庇った朔弥は胸を撃ち抜かれ瀕死の状態に陥った。どうしても彼を諦める事が出来なかった私は、力を使ってロボーの研究者達に命じて手術を行わせ、まだ実験段階であったその機械を朔弥の心臓に埋め込ませた。朔弥は一命を取り留めた。本当に取り留めたと言っていいのか分からないが、その肉体はこの世に留まる事となった。

 しかし機械仕掛けの心臓を持ち、異質な存在となった朔弥は元の朔弥ではなかった。

 一度死にかけた所為なのか、ロボーという機械を通して身体を動かしているからなのか、感情というものが欠落していて、言われた事しか出来ない人間になっていた。

 命じなければ何もしない朔弥に私は色んな事を教えなければならなかった。眠れと言われなければ気絶するまで眠らない。食べろと言わなければ空腹であっても食べ物を口にしない。寝間着から着替えなさいと言わなければ着替えない。何時に起きなさいと言っておかなければ起きない。本来生きてはいられない筈の存在である彼の所作は以前と同じなのに、もう朔弥ではないような無表情がいつまでも私の心を悩ませた。最初は苛立ちを覚えた。どうしてこんなことさえ出来ないのだと不安が募り声を荒げる事もあった。だが朔弥は黙っていた。怒る私に謝る事も無かった。彼は感情と言うものを認識さえしていなかった。

 何度も事細かな指示を繰り返して、昨日と同様に過ごしなさいと命じる事で彼はやっと日常生活を過ごせるようになっていった。仕事を与えないと全くと言っていい程動かず、体に床ずれを起こしそうになるので、彼には依然と変わらぬ仕事を与える事にした。まるで言葉を理解できる人形に仕事をさせているような感覚を持ったが、いつかきっと前の様に柔らかく私を見つめ返すとそう信じて根気強く全てを教え込んだ。

 そしてふとした瞬間に見せる瞳の揺らぎが単なる太陽の反射だとしても、彼が少しずつ感情を取り戻して行っているような希望を抱いた。

 幼い頃から家族同然に育った朔弥。優しい微笑みをいつも私にくれた朔弥。以前の様にはもう笑わない彼をどうにか笑顔にしたかった私は一度笑うように命じてみた。

「朔弥、笑ってみなさい」

「はい、葵様」

 筋肉は動き口角が上がるが只の筋肉の反射なだけで、笑うという事を認識出来ていない。

「もっとこう、自然に!」

「はい、葵様」

 だが何度試しても笑うという事が出来ずにいた。

 彼はずっと憂いた顔をしていた。それがとても辛かった。果てるべき命を引き止められ、醜い世界に居る事がさぞ辛いのだと言わんばかりにいつでも憂いている。

 いや、それは私がそう思っているに過ぎないのだろうか。
 
 愛しいものを側において置きたい強欲から彼を死の淵に宙ぶらりんにしたままずっと苦悶を与えているような罪悪感に苛まれながら私は日々をやり過ごした。

 だが例え感情を取り戻せなくとも、朔弥が傍に居てくれるのであれば私はそれで良かった。

 *


「今日は研究室へ向かう。昼食後に車を呼びなさい」

「はい、葵様」

 今日は輸血をする日だ。月に一度、研究室で血を輸血しなければ朔弥の血色は濁る。そうなると私の心は彼を喪うかも知れない不安でいっぱいになった。

 輸血は誰の血でも良いのだと言われたが、私は自分の血でなければ嫌だった。血を抜かれるとふらふらするが、その代わり新しい血を入れられた朔弥は元気になる。それが堪らなく嬉しかった。

 彼は私の血で生き永らえている。
 私の所為で奪われようとした命を、私の血で救っている。
 欺瞞は満たされていた。

 真っ白な研究室のベッドでそれぞれ横になり、輸血用の針が血管に刺され、チューブを通して私の血が彼に流れて行くのを目で追い、横になったまま彼の様子を観察する。

 血が入ると程なく彼の血色は如実に良くなって行く。良かったと、私は不安をここでやっと解放した。輸血すれば良くなるのだと分かっていても毎回彼の様子が心配で目が離せない。機械が心臓の中でどう動いているのか分からない。研究者たちは実験段階だからと拒絶したが私は無理やり手術を実行させた。いつ心臓が止まってしまうのか、いつ朔弥が動かなくなってしまうのか誰にも分からないのだ。

 血液を流すポンプの音だけが部屋に響き、天井を仰ぎ見る度、罪の重さで頭の中が埋まっていく。朔弥を苦しめているかもしれないという悔悟の情が私を襲う。
 感情が欠落したまま、ただ言われた事をして生きて、朔弥は楽しいだろうか。
 感情がないと言う事は生きていると言えるのだろうか。
 痛みを訴えない彼がどれ程の苦しみを抱えているのか分からない。もしかしてとてつもない痛みに耐え続けているかも知れない。
 後、何度輸血をすれば朔弥は元に戻る?
 もしかして一生このままなのか?
 いや、このままでだって構わない。
 私は罪を犯している。神に背く罪だ。
 彼の苦しみを考えず、己の欲から彼を引き留めている。
 本当は彼を解放すべきでは無いのか?
 否、彼が生きている事は奇跡、ただ生きていてくれればいい。
 もとに戻らなくても、笑わなくても……。

 葛藤は尽きなかった。

 輸血のせいだろうか、同じように天井を見る彼の横顔がいつもより紅く血色づいたように見えた。そして彼の目からふと一筋涙が零れた。

「朔弥!どうした、痛むのか?!」

 慌てて上半身を起こし彼を見た。痛みに反応して生理的な涙が出ているなら相当な激痛だ。朔弥は涙を拭わず、寝転んだまま頭だけをこちらに向けた。

「いえ、葵様、痛くはありません」

 泣いた朔弥を不思議に思った。今まで涙を流した事はなかった。心の隅の希望がドクンと脈打ち始める。

「葵様、私がいないと寂しいですか?」

「朔弥?!お前……感情が戻ったのか?!」

「私が居ないとお辛いですか?」

 朔弥が……自分で言葉を紡いでいる。
 自分の感情で、私に話しかけている。
 私が寂しいかと、辛いのかと聞いている。

「———あぁ、朔弥、お前が居ないと生きた心地がしないんだ。傍に居てくれ」

 私の目からも涙がぼろぼろと零れる。止めようとしても止まらない。

「葵様、これ以上お身体を犠牲にしないでください」

 こちらを見て、朔弥も涙を流し続けていた。胡桃の瞳に輝きが戻っている。あの美しい瞳に再び光が……。

「何も犠牲になどしていない。私はお前に血を分けているだけではないか。血は毎日作られるのだぞ。心配するな」

 強がる言葉と共に笑顔を作り私は涙を拭った。眉根を寄せて朔弥は続ける。

「いえ、葵様の血はどんどん薄くなっております。一ヶ月ごとに大量に分け与えるものではありません」

「だが、そうしないとお前が腐って行くではないか」

「私は一度死んだ身です。どうして守ろうとした人の命を食い潰しながら己が生きたいと思うでしょう」

 朔弥は初めて自分の意思で動いた。腕に刺さる注射針を抜いて、そして立ち上がると私の注射針もそっと抜いた。

「何を!?まだ輸血は完了して居ないぞ!」

「葵様、私はもう十二分に生かして頂きました。どうかお身体を、私が守ろうとした命を無駄にしないで下さい」

「この命、私がどう使おうと私の自由だ」

「いえ、あなたは伊集院家の当主。その血は守らねばなりません。どうか、どうか、生きのびて下さい。私の為に命を無駄にしてはなりませぬ。私が守ろうとした命を貴方が守らずしてどうするのですか」

「だが、朔弥、お前が居なければ……私は……」

「葵様……小さな頃から貴方だけを見つめて過ごしてまいりました。そして貴方の命を守れた事を誇りに思います。
 今日、貴方の血が毛細血管の隅々にまで行き渡り、全身を巡り、私は心を取り戻したようです。だからもう輸血はいりません。これからは安心して過ごしてください」

「本当に?朔弥、本当にずっと傍に居てくれるのか?死んだりしないか?」

「死ぬか死なないかは私には分かりませんが、ロボーという機械の心臓は私の肉と血管に完全に繋がったようです。そう感じるのです」

 そう言って針跡から血を滴らせたまま、自分の心臓を指刺した。

「本当か?おい、医師を呼べ!」

「葵様……」

「いやだ、朔弥、お前嘘をついているんじゃないだろうな?この葵に嘘や気休めなど許さんぞ!」

「葵様、貴方に嘘などつきません。さぁ、帰りましょう」

 朔弥は泣き続ける私を宥め、体を支えながら研究所を後にした。

 それ以降輸血をする必要が無くなった朔弥の肌は濁る事もなく、再び温かい会話が戻り、私はまた彼の微笑みを見る事が出来る様になった。愛しいものを諦めずに居て良かったと、後悔は消え散って行った。



 *



 葵の寝床の傍に座る朔弥は悲壮な顔をして主人の手を握っていた。

「葵様……」

「朔弥、もう私も長くない、世話になった」

 か細くなった声で葵は輝きを失わない瞳を見つめた。

「葵様……嫌です置いて行かないで下さいっ……」

「実にお前が長生きしてくれて良かった。私の血を分け与えただけの事はあったな……。笑ってくれ、朔弥。お前の笑顔が、見たい」

「はい、葵様……」

 朔弥はゆったりと涙を流しながら微笑んだ。

「朔弥……すまなかった。そしてありがとう。お前が居てくれたから私は……」

 葵はゆっくり目を閉じ、それ以上喋る事はなかった。

「葵様、葵様!目をお開け下さい!私を一人にしないで下さい、葵様!」

 躰をゆするが反応はない。握った手が力を失い、だらりと垂れた。

 皺の寄ったその手に頬を擦り寄せ、その手を握りしめる自分の手の若さにゾッとしながら、朔弥は慟哭した。



 *



 朔弥は殆ど歳をとらなかった。血と酸素を循環させ滞る事なく精密に脈を打つ心臓は、肉体の老化を最小限に留め、止まることがない。

 主人の墓石の前でこれから始まる孤独の長さを憂いて朔弥は溜息をついた。

 だが守らねばならぬ者が居た。葵の孫だ。小さな手を握りしめて朔弥は呟く。

「葵様、私の心の臓はいつまで動くのでしょうか」

墓石に話しかける朔弥の服の裾が引っ張られる。

「さくや?……おじぃちゃま、ここに寝てゆ?」

「ええ、橙儀とうぎ様のお爺様はこちらでお眠りになっています」

「さくや、さみしぃ?」

「ええ、とても……」

眉尻を下げて朔弥はしゃがみ、橙儀を見つめた。

「とうぎもおじぃちゃまいなくて、さみしい。でも、とうぎ、さくやといっしょにいたげゆ。だから、なかないで」

「ありがとうございます、橙儀様」
 
朔弥はゆったりと微笑んだ。

「うん!とうぎ、ずっとさくやといゆ!」

「それは嬉しいお言葉ですね」

「うん、やくしょく!」

「ええ、約束致しましょう。きっとあなたがお爺様の元へ行く時まで、私は生きているでしょうから」

「ほんとう?」

「恐らく……」

 苦笑いしながら、機械仕掛けの心臓に手を当てて、体の中に葵の血が流れている事に温かさを感じ、その温もりよりもさらに温かな小さな手をきっと最後まで見守る事が出来る己の運命に想いを馳せるのであった。



 END
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