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第59話 頬冠
しおりを挟む町へ移動する山道へ入った途端先ほどまでの澄み切った空が一瞬にして真っ黒な空になり男は舌打ちをした。
「ちっ、雨なんか降りそうにもない天気だったのにこの暗さだとすぐに大雨になるな。引き返す訳にもいかねぇし、走るか」
男は雨宿りが出来そうな場所を探しながら走った。雷が鳴り響いているが幸い雨はまだ降り始めていない。突如現れた大きな黒雲は蜷局を巻いて空で暴れ、まるで龍が痛みを抱えて荒れ狂っているように見える。神の子を傷つけた天の怒りだろうか。そんな考えがふと頭に過ったが鬼と結託した人間の罪と思えば深い罪悪感は持たなかった。雨を凌げる大きな岩を程なくして見つけ、その下に入り込むと同時に雨は降り始めた。
「俺を追いかけてくる奴はいないだろう。村の奴らは死にかけのあいつを放っておけないはずだ」
稲光が空を切るように走り、落雷の音が少しずつ近づいている。
「おお怖い怖い」
空を窺うが思った以上に雲は分厚い。一晩中降るなら寝れる場所を探さなければならないと辺りを見廻した。森の中は雨で視界も悪くどこか不気味だ。頬冠りの男に初めて会った日も薄暗い森だったと思い出す。
山に囲まれた小さな村は窮屈だった。神の子に会いに来る町や都の人間たちは身に着けている衣服も髪型も何もかもが村のものとは違い、村を出た事の無い自分はまるで取り残された古い人種のようで焦りを感じた。誰からも見向きされない田舎者だと言われているようで来訪者が来るたび誰に何を言われた訳でもないのに恥ずかしい気持ちになった。都へ行く程の大金を稼ぐのは容易ではなく、伝手もない田舎の百姓が都で直ぐに仕事にありつけるはずもなく気持ちばかりが焦った。そんなある日、山の中で薪を拾っている途中、頬冠りの老人に出逢って運が巡って来たと思った。年老いた自分の代わりに積年の恨みを晴らす手伝いをすれば相当な額の礼を払うと話を持ち掛けられた。仇はいつも村を騒がせている青竜。鬼と取引をして村の皆を騙しているらしく言われた通りにすれば礼を払うと言う。貰った金は約束の半分でも大金で、残りの半分は仕事が終わった後もらう約束を交わした。青竜の処遇には前々から不満もあった。これは神の子と嘯いて、その実鬼と契って楽して生きている不埒な者への罰だと思った。青竜はまだ若いのに積年の恨みと言われてもぴんとは来なかったが、鬼の名前を呼ぶ所を見て老人の言っていた事は本当なのだと確信し、生死を問わずに痛めつけてやって欲しいという言葉そのままにいたぶってやった。金の入った袋に手を当ててほくそ笑んでいると、誰もいなかった筈の岩場の影からしゃがれた声が聞こえた。
「仕事は果たしたようだな」
「うわっ!」
気配なく黒い頬冠りの男が岩場から姿を現して吃驚したが、約束通り残りの半分をくれるのだろうと期待した。金が入っているだろう袋を手に持っているのが見えて安堵する。
「ああ、言われたように大勢で手籠めにしてやった。随分弱ってるがまだ生きてるはずだ」
「生死などどちらでもよいと言っただろう」
「死なれちゃこっちが後味悪くて仕方ねぇ」
「後味が良くても悪くてもお前のした事に変わりはない」
頬冠りの男は手に持っていた袋を投げつけ、それを受け取った男は中身を確認してにやついた。稲光は更に近づき、強さを増して轟いている。
「あいつにどんな恨みがあるのか知らねぇが、怖い人だねぇ、あんた」
「怖い……フフフ、面白事を言う。金の為に簡単に他者を傷つける事が出来るお前の様な人間が沢山いる事を我は嬉しく思う。同志は多ければ多いほどいい。隠れ蓑も増える」
頬冠りの内側からえる目がまたぎょろりとこちらを見て笑い、寒気を感じた男は後退りして雨の中へと出た。俺は頼まれた事をしただけ。みんなの為にやったんだ。鬼と一緒になって人様を騙した罰を下した。何も悪い事はしていない。男は誰に責められたわけでもないのに心の中で言い訳を呟き続けた。金さえもらえればこんな老人に用はない。雨が止むまでこの気味の悪い老人と一緒に居るのは勘弁だ。これだけの金があれば二度と胸糞の悪い事はしなくて済む。やっと自由だ、都へ行ける。袋を落とさぬ様にしっかり握りしめて頬冠りの男に背を向けて男は岩場を離れた。振り向くと黒い影はまだこちらを見ている。
頬冠りを深く被って顔ははっきり見えないのに目だけはしっかりとこちらを見ているのが分かった。泥の様に纏わりつく視線を振り払うように走り出した男の頭上で稲光が光り、次の瞬間直ぐ横の杉の木に雷が落ちた。ばりばりと先端から木が割れる音がして男は立ち止まる。辺りに身を守れる場所が見当たらない。あの老人のいる岩場は嫌だがやはりそこしかない。少しの辛抱だと踵を返した途端、空の轟きが頭上に聞こえた。
気配を感じて男は空を見上げた。黒い空から光る龍が大きな口を開けて自分に向かって落ちてくる。あぁ、このままこの龍に食われて死ぬのか。
そう悟った男の頭上に雷は落ちた。
ドーンと地響きが起こり、雷を受けた男はその場にぐにゃりと倒れた。
頬冠りの男は倒れた男が起き上がらないと分かると岩場から出て傍に寄る。
「あの黒い縄を外したのか。愚かな奴だ。神々に見つからぬ様わざわざ我が拵えてやったのに」
目を剥いて死んでいる男に近寄った男は頬冠りを脱いだ。頭頂には大きな角が一本ある。右上腕から下側がしなびて老人のようであったがそれ以外は屈強な体つきをしていた。自分の皺々の右腕を鋭い爪で自ら捥ぐと、死んだ男の腕を切り落として自分の腕の切り口に付けた。肩側から細胞がミミズの様に這って腕を取り込む。
「淫欲に塗れた高僧の腕ほど業は深くないが、悪意に溢れたいい腕だ。もっと多くの悪事を働ける奴だったのに神に見つかってしまっては仕方あるまい。さて、二の矢はどう刺さったか。見届けに行くか」
かつて鬼神と呼ばれた鬼は、再び頬冠りを被り雨の中に消えた。腕を捥がれ白目を剥いて死んでいる男の上に留めと言わんばかりにいくつもの雷が落ち肉は粉々にはじけ飛ぶ。
頬冠りの男はその音を気に留める事もなく村へと足を向けた。
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