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第56話 微睡
しおりを挟む振り返った薄暗い森の中には黄色く濁った目が見えた。爛々と光って薄気味悪い。押し殺したように笑いながら姿を現した男の右手は細く皺塗れで年老いているようだったが全身を覆う程大きな黒い頬冠りを被っていて顔はよく見えなかった。身の毛のよだつ枯れた太い声で男は喋る。
――まこと、恨めしいなぁ、敬翠。
「何故兄様の名を知っている!私の名まで……」
――我は何でも知っている。
男の視線が自分の涙に留まっているので敬翠は目を手で拭った。そして涙が赤い事に気付く。
――痛々しい程健気にあいつを支えておるのに報われんとは。憎しみが目から溢れ出るわけだ。
「憎んでなどいない」
自分に言い聞かせるように強い語気で敬翠は言い返した。眩暈を起こしているのか頭が大きくぶれる。
――お前の心にこびりついた穢れは取れん。人間がお前にした事はいつまで経っても消えない。全部覚えているだろう?人は醜く狡い生き物だ。あれはお前から紅生を奪おうとしているぞ。
「得体の知れぬお前に私の何が分かる。戯言を聞く耳は持ち合わせておらん。去れ」
敬翠は追い払うように手を振ったが男は笑い、動こうとはしなかった。声に聞き覚えがあるのに思い出せない。
――我に命令できる者はおらん。我は永遠そして絶対だ。かつて人であったが故に囚われた心は決して解放されぬ。喜びを知ってしまった者には悲しみが生まれ、愛しさを知った者には憎しみが残る。さぁ恨みを晴らそうぞ。
「何を言う。恨んでなどいない。私は兄様が幸せならばそれでいいのだ」
――嘘をつくな。お前はあの美しい少年が許せぬであろう。あの場所には自分がいる筈だったのに、そう思っているだろう。体をかきむしりたくなる程の憤怒に包まれている。怨んでいる事を認めてしまえ。お前からは憎悪の匂いがする。
「黙れ!あの子は人だ。人は朽ち行く。私はあの少年が死ぬまで、兄様が私に振り向いてくれるまでただ待つだけだ」
――待てるのか?あの少年が死んで、また神に瓜二つの人間が生まれたらどうする。再び待つのか?紅生はお前を利用しているだけ。神がいない間はお前が持って帰って来る精気を貪り、神の顔をした男に出逢えばお前を捨て、そいつから精気を分け与えて貰うのだ。狡い奴。美しい姿形を保っていても所詮鬼。ほら見てみろ。
頬冠りの男が指差す先を警戒しながら辿ると見たくもない光景が再び目に入る。紅生と少年はしっかりと抱き合い、唇を重ね、零れる唾液も逃してはならないと必死に愛撫し合っていた。上気した瑞々しい頬を撫でながら、紅生は少年の名前を呟き続けている。
敬翠は目を瞑って頭を振った。
「嫌だ、兄様……」
また涙が溢れて来る。尽くしていれば報われると思っていた。思い続けていればいつか振り返ってくれると信じていた。だが紅生が慕うのはいつでも自分以外の美しい存在だった。神の次は神にそっくりな男。その男が死ぬまで待ったとして、再び神と同じ顔を持つ者が現れればまた自分は後回しになるのだろう。いや、現れなかったとしても自分を愛してくれるのだろうか。そんな日は果たして……。
敬翠は胸を抑えて屈みこんだ。息が出来ない。こんなに苦しいのに、自分を見る事のない美しい紅い瞳が欲しくてたまらない。一度は手に入れたと思ったのに、視線を動かせば絶望が見え、体中に痛みが走った。自分の体を貪った僧侶たちの顔が走馬灯のように頭の中に流れ、精気の為に差し出した体を浅ましく貪る男たちが笑う。
――お前の様な穢れた者を、誰が愛すというのだろう。
絶壁で辛うじて堪えていた背中を黒い影がトンと押し、敬翠は崩れ落ちた。
「どうして私は誰にも愛されない。親に捨てられ、兄様にまで捨てられる私は……。
————憎い憎い。私の大切なものを奪った神が憎い。神と同じ顔をしたあの少年が憎い。あの子が現れなければ、ずっと二人で幸せに暮らしていたのに。私の体を愛おしそうに抱き締めた、あの腕は、あの瞳は私だけのものだったのに」
薄い氷にひびが入るように敬翠の心に亀裂が入った。そして粉々に砕けちる音が聞こえると黄色い目は鈍く笑い森の闇へ消えて行った。
*
紅生と青竜は小さな山小屋の中で微睡んでいた。風が強く吹く度に軋むおんぼろの小屋は泉から近い場所にある。そこには木を切る道具が一揃え置いてあり、一晩過ごせるように布団も一客置いてあった。雨風を凌げるようにと作られた小屋ではあるが人が長い間住むような機密な造りではなく、隙間風は入って来るし陽が昇れば木漏れ日が中まで届く。そんな無防備な小屋でも二人は構わず互いの熱を昇華させ、朝を迎えた。
紅生の胸の中にいる青竜は、逞しい首筋や腕や腹にある傷跡をそっと指で撫でていた。初めて愛おしむという行為を知り、体のだるさを抱えながら少し大人になった心持で戯れている。目を瞑ったままの紅生がくすぐったいとその指を掴んだ。
「何をしている」
「この傷、どうしたんだ」
青竜が訊く。
「恥ずかしい話だ」
「戦ってついたのか」
「戦ってついた傷など一つもない」
「じゃぁ何の傷」
「……全て自害の跡だ」
「!」
甘くほろ苦い余韻に浸っていた青竜は目を丸くして呟いた。
「躊躇い傷?」
青竜が予想外の反応をしたので、紅生は笑って青竜を抱きしめた。
「失敬な。己の命を断つのにこんなに何度も躊躇うものか。普通の侍が持つような刀では体を切れなかっただけだ」
「じゃぁ無敵って事?」
「無敵ではない。神に貰った宝剣ならば首を斬れるだろう。そうすれば俺は死ねる」
「宝剣じゃないとダメなのか」
「ああ、普通の刀では刃の方が毀れる。鬼の体は強靭だからな」
「宝剣はもうないのか」
「友人に隠された。俺の自害を防ごうとして」
「友人て、あの一緒に住んでる敬翠っていう……」
「ああ。敬は心配症でいつも俺の事ばかりだ。あいつにはあいつの生きる道があるゆえ、早く自由にしてやりたい」
紅生は仰向けになり、ぼろぼろの天井にある蜘蛛の巣に気づいた。一匹の大きな蜘蛛がじっとこちらを見ている。
「何で紅生が心配されるんだよ、こんなでっけぇ体してるのに」
青竜は紅生の胸を叩いた。
「俺もそう思うんだがな、昔不遇な状況にあったあいつを救った事があるのだが、それをずっと恩に着ているのだ。何でもかんでも俺の為と言って我慢する悪い癖が有る」
「紅生の事を好いてるんじゃねぇのか」
青竜は紅生の髪を一筋引っ張ると指に巻き付けて遊ぶ。
「かつてはそう言っていた。だがそれは偽りなのだと知った」
「偽り?」
「俺はずっと神を慕っていた。神しか目に入らないとそう敬にも告げた。それでも敬は俺を想い続けていた。そんなあいつが健気で堪らなかった。心は神に捧げたつもりだったが、毎日俺の事ばかりを考えているあいつを見ていると心は揺らいだ。そして俺も思いに応える事が出来るのかも知れないと思った矢先だった。あいつが頻繁に村へ降りるようになってな。毎月誰かと逢瀬を重ねているようで何も話してはくれんが人間の匂いを付けて返って来る。わざわざ違う香油を毎回つけて気を使わせる始末でな。あいつを鬼に貶めた張本人であるのにどうしてもっと早く気づかなかったのだろうと申し訳なくなった。村から帰るとあいつは元気になって戻ってくるんだ。それで本当は俺といる事が苦しいのだと知った。きっと俺の罪悪感を少しでも減らそうと、そう考えた末の事であろうと思う。そんな気を使わせても一緒にいたのは俺が孤独に耐えられなかったからだ。大きな体躯の鬼が孤独などと、笑えるだろう。俺はあいつに甘えていたんだ」
紅生は青竜を腕で引き寄せてその頭に顔を埋めた。
「この間家に戻ったのだが、四、五日で戻ると言っていたのに、まだ戻っていなかった。こんな事は初めてだったがきっと相手と上手くいっているのではないかと思うのだ。あいつはもう何にも気兼ねせず、自由に生きればいい」
「敬翠さんが居ないとやっぱり寂しいんだろ」
「長い間共に居たからな。幸せになって欲しい。俺に囚われる事なく生きて欲しい。俺と関わらなければ敬は鬼になる事も無かった。俺といると碌な事がないんだ」
「でも敬翠さんを救ったんだから、敬翠さんはそんな風に思ってないんじゃないか?」
「敬を自由にしてやったつもりが、結局縛っていたのは俺なのだ」
「敬翠さんがそう言ったのかよ」
「いや……」
「なら違うよ。紅生に助けられて敬翠さんは良かったと思ってると思う」
「……」
「だからこそ紅生の事を大事にしてたんじゃねぇの」
「そうだな……。お前には教えられてばかりいる」
「そりゃ、俺自由だから」
「羨ましい限りだ」
「紅生も自由だろ」
「俺は……そうだな、お前と出逢って自由になった気がする。鬼でも人でも半妖でも神様でも、俺が何であったとしても対等に俺を見てくれるお前の存在は稀有で、そして……愛しい」
青竜の額に口づけを落としてもう一度強く抱き締めると紅生の体は精気で充たされた。青竜は人であるのに精気が減らない。吸っても吸っても溢れて来る体質のようで、傍にいて抱き締めるだけでも溢れ出る精気が体を覆い、紅生の身心に充足感を与えるのだった。やはり神の一部を宿しているからだろうと紅生は思った。神の精気を分け与えられているような特別感と共に心の隅に薄暗い影が生れる。敬翠を裏切っている様な、神を裏切っている様な背徳感だ。
紅生の表情を読んだのか青龍が紅生の頬を包む。
「なぁ紅生」
「何だ」
「一つ約束しろよ」
「何を」
「約束しろってば」
「だから何をだ」
「もう自害しないって」
「青竜……」
「勝手に死ぬな。いいな、もう死のうとするな。俺がいる。敬翠さんが自由になって、あんたが寂しい思いをしても、俺がいる。俺が死ぬまでずっとあんたの傍にいる。だから生きろ」
「今の俺には宝剣がないのだから無理な話……」
「いいから、返事は?」
「あい、分かった……」
紅生はふっと笑い、青竜は厚い胸に顔を埋めて再び微睡に落ちた。
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