沈み鳥居の鬼—愛してはならない者を愛した罪—

小鷹りく

文字の大きさ
上 下
39 / 66

第39話 舞

しおりを挟む
 空に瞬く星が一つ地上に舞い降りたかのように、弁財天神は内側から光を放ちながら宙を漂っていた。暖かい燈は辺りを遍く照らし、集まった獣や人外たちは何かを待っている。

 神は鳥居の上にそっと足先をついて降り立った。羽衣は優雅にゆらゆらと揺れ、そこだけ極楽浄土の世界を切り取ったかのように眩く映る。

「なんだ、何が起きる?お前、弁財天神様に言われて私を連れてきたんだな。ここに連れてきたからには何か理由があるんだろう、風靂ふれき?」

 愛敬は風靂を見たが、風靂は他の動物たちと同じく嬉しそうな様子で弁財天を見ているばかりで知らんぷりだ。

 呼び出された理由が気になる。鬼に堕ちた自分に罰を与えるためだろうか、それとも鬼になった自分を|退治するころすためだろうか。童子になりたいと言う児を救わんと愛敬童子の名を授けた神の御心を裏切り、ただ一人鬼に堕ちずに済んだ身を敢えて自ら貶めた罪は重いだろう、だが……。

『――道は選べる、拓け、与えよ……己のためでは無く他者の為に力を使え。さすれば報われん』

 鬼になる道を選んだ。鬼の道を拓き愛する者に与える事だけを考えている。人のためではなく、彼の傍にいたいと願う自分の欲から永らえることを選んだ事に悔いはない。そして今までの苦心が全て報われたように幸福だ。その事も何もかもを見透かして尚も童子に選んだならば、何も引け目を感じる必要はない。そう思うのに不吉な予感がして堪らない。あたかも処刑宣告を待つ罪人のような心持に血の気が引いて寒くなった。これから何が始まるのか分からぬまま、愛敬は木の裏から様子を伺う。

 弁財天神は鳥居の一番上の笠木部分に立ったままゆっくりと両腕を互い違いに上下させてゆらりゆらりと揺れ始めた。群衆の中から頭が琵琶で体が人間の付喪神、琵琶牧々ぼくぼくがすくりと立ち上がると鳥居の前に座る。

 弁財天神は体を揺すり、手の甲に自分の顎を乗せてぴたりと制止すると背中からするすると宝剣を取り出した。琵琶牧々ぼくぼくはそれを合図に歌い始める。

 付喪神が奏でる雅な琵琶の音色に合わせて弁財天は宝剣を片手に細い鳥居の上で舞を踊り出した。両足程の幅しかない鳥居の笠木部分から落ちてしまうのではないかとハラハラしてしまうが、羽衣を纏った神は決して落ちたりしない。分かっているのに一挙一挙に目が離せない。ゆらりと揺れて左手を高く掲げ、片足で立つと右手にもった宝剣で空を突く。たんっと飛んだかと思えばそのまま空を切るように回転しながら蝶のように飛んでつま先で反増そりましへ留まる。凛々しく秀麗に剣を振って羽衣を翻し、戦闘神と呼ばれるに相応しく、力強い武術の型を嫋やかに組み入れ、疲れた者を包み込むような柔と剛を併せ持ったしなやかな癒しの舞を踊った。

 神が身に着けている着物は御堂の中で見た仰々しいものとは違う簡素なものだった。襦袢の上に薄い色打掛を羽織ってそれを腰で縛り、下は淡い若菜色の括袴を履いて、身体全体を羽衣が守るように包んでいる。薄い布地を越えて柔らかい体の曲線が艶めかしく見え隠れするのに厭らしさを感じさせない。母のような強さと優しさを携え、自分には持ちえぬ豊満な麗しい姿に愛敬は体がかっと熱くなるのを感じた。

 弁財天神の舞には怒りも苦しみも無く、ただ慈悲と愛に溢れていた。群衆はその美しさに溜息を零し、神の放つ光に照らされて傷ついた心と体を癒す。獣たちまで涙を流すほどに安らぎと癒しを与える。

 これを見せたかったのか――。

 愛敬は琵琶の音と歓声を背に家へと走り出した。
 
 ——心の内側が焼けるように熱い。嗚呼、私はなんと醜い生き物だろう。神はただ慈悲の舞を見せ、赦しを顕示したのに、私は自分の事しか考えられない。嗚呼、苦しい。嫉妬で焼け死んでしまいそうだ。この世の物とは思えぬ麗しい容姿をもちながら何にも屈さぬ最強の女神。温かく全てを赦すと慈悲深く包み込み、彼が今もずっと慕い続ける至高の存在。あんなものになれはしない。あの美しい舞を見て、彼が焦がれぬ筈がない。会えばきっと神のために再び生きると言い出すかも知れない。彼との時間が奪われてしまう。彼女を想いながら私を抱いてくれるならまだしも、神を目前にすればもう二度と触れてくれなくなるかも知れない。失うのが怖い。

 風靂はついて来なかった。音が聞こえなくなるほどに走った後、月明りを浴びぬように木に凭れ愛敬は膝を抱えて泣いた。


 *


 愛敬はその夜から風靂が訪れる度にまた神に遣わされたのかと気が気でなかった。今度は自分ではなく生命の裾を引っ張っていくかも知れない。直接神から声が掛かるとも限らない。会わせたくない。彼との幸せな時間を守りたい。そう思えば思う程、あの夜の事を言えぬ罪悪感が募って、憂鬱な日々が続いた。

「敬、どうした?最近元気がないように思えるが」

 ずっと何かを思い詰めているように曇った顔をして、いつもなら食事を迎える頃にそわそわと様子を窺いながら問うてくるのにいつまで経ってもひきつったような笑顔で何も言ってこない愛敬を生命は心配して聞いた。

「何でもありませんよ、兄様。最近精気を喰っていないから……」

 そう言ってしまって愛敬はハッとして顔を上げた。生命は眉根を上げる。

「すまない。いつも俺の事を気に掛けてくれているのに、俺の限界まで我慢させてしまっている事に気付かなかった」

 そう言うと生命は優しく愛敬の頭を撫でた。ぽんぽんと二度優しく触れて、それから掌で顔を包む。

「腹が減っていたなら我慢せずに言ってくれ。俺に合わせて月に一度でなくてもいい。腹が減っているのなら、いつでも構わない」

 言われてほろりと涙が零れた。生命は鬼になりたくてなった訳では無い。人のままで有りたいと願った筈。故に精気を喰らうと言う鬼独特の行為に罪悪感を覚えている。怒りに囚われ鬼に堕ち、自身の存在さえも否定しながら生きている。その悲しい想いを癒すために自分は鬼になったのに、どうして彼の事を一番に考える事が出来ないのだろう。童子の頃は彼に触れる事さえ出来なかった。今はこんなに近くに居られるのに、どうして自分の事ばかり考えるのだと、不甲斐なさに唇を噛んだ。

「自分が情けのうございます、兄様」 

「何だ、お前はいつも俺に良くしてくれる。何も情けなくはない。何故泣く」

 生命はそのまま愛敬の体を抱き締めた。ぶるると震えて愛敬は胸に顔を埋める。

「……兄様、お慕いしております」
 
 言ってしまって自分でも驚いた。反応を聴くのが怖かった。食事と称していれば、生命に罪悪感を持たせる事なく肌を重ねられると思ってずっと黙っていたのに。

「ああ……知っている」

「ほ、本当に?」

愛敬は生命を見上げた。深緋の瞳は変わらず魂を見据えるようにどこまでも澄んでいる。

「だがお前の気持ちに応える事は出来ん。俺には想う方がいる。不死の体であるからこそ尚その方を想う気持ちを偽る事が出来ない。俺は狡い男だ。卑怯だと思う。だが己の気持ちに嘘はつけない」

「……はい、承知しております」

「俺とてお前が可愛くないわけではないのだ……それも分ってくれるか」

 こくんと頷くと再び頭を撫でられて、愛敬は肩を震わせた。愛しい愛しいと体中の血液が叫ぶように彼を求めている。

「兄様……腹が減りました」

「うん、俺もだ」

 そう言って笑い、生命は優しく愛敬の唇に口づけた。翠眼からまた涙がぽろりと零れる。

「すまん、お前にいつも我慢をさせて、お前の気持ちに気付きながら、応える事が出来ぬが故に素知らぬ振りをしてお前を傷つけてきた。だから正直に言えなかった。弁財天神様をお慕いしながら、お前と褥を共にする事は俺にとっては……」

 ぶんぶんと愛敬は首を振る。

「いえ、もうこれ以上仰らないで下さい。私はあなたの傍にいるだけで、こうして貰えるだけで幸せなんです。これ以上望むものはありません」

 自分に言い聞かせるようにそう言って愛敬は傷跡の残る首に腕を回した。内に秘めていた想いをそれぞれ吐露した所為で神経が昂ったのか、その夜愛敬は哭き咽ぶほど狂おしく乱れた。何故か精気を食べても食べても満たされず、生命は愛敬の哀しげな美しい姿に絆されて、望まれるまま気をやった。

 白藤色に空が染まり、小鳥たちが鳴き始めるまで二人の夜は続いた。









しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち

鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。 心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。 悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。 辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。 それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。 社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ! 食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて…… 神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!

水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。 ⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。 ⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。 ⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/ 備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。 →本編は完結、関連の話題を適宜更新。

よあけまえのキミへ

三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。 落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。 広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。 京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。

【完結】月よりきれい

悠井すみれ
歴史・時代
 職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。  清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。  純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。 嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。 第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。 表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

来し方、行く末

紫乃森統子
歴史・時代
月尾藩家中島崎与十郎は、身内の不義から気を病んだ父を抱えて、二十八の歳まで嫁の来手もなく梲(うだつ)の上がらない暮らしを送っていた。 年の瀬を迎えたある日、道場主から隔年行事の御前試合に出るよう乞われ、致し方なく引き受けることになるが…… 【第9回歴史・時代小説大賞で奨励賞を頂きました。ありがとうございます!】

生残の秀吉

Dr. CUTE
歴史・時代
秀吉が本能寺の変の知らせを受ける。秀吉は身の危険を感じ、急ぎ光秀を討つことを決意する。

処理中です...