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第35話 愛敬童子(14)

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 鶴は普通というものがどれ程有難いのかを知った。過去を気にする者もなく、字の読めぬ事を馬鹿にしたり、籠の鳥のお前に何ができるのだと揶揄する者も、余興の為に舞え、歌えと偉そうに威張る金持ちも僧侶も来ない。人の為、神の為などと嘯いて不条理に体を奪おうとするものも居ない。

 春次が他の子たちにいじめられそうになると春乃が走って行って庇う。春乃が困っていると生命童子が手を貸す。春次が兄上疲れたでしょうと生命童子の肩を叩いたり、寝入った妹弟が足で剥ぐ布団を兄がそっとまた掛けてやる。家族の為に働き、共に食べ、笑い、泣いて、夜が来れば布団を並べて安心して眠る。これが家族というものなのだろうと思った。支え合い、思いやり、強いも弱いも関係なく互いを見守っている。親が居なくても皆こうして幸せに生きている。柚果と自分も勇気を出して寺から逃げていればこんな風に過ごせていたのだろうかと悔やまない日は無いが、愛おしそうに柚果を抱えたカルラを思い出し、こうしてここで無事に暮している自分の幸せを思えば、やはり運命だろうと想った。

 兄と慕った柚果もおらず、忘れ去られた身となった鶴は今や真に天涯孤独。このままこの家族の中で暮らしていけたならどれ程幸せだろうかと思いを馳せた。生命童子は鬼退治に行くと何日か家を不在にする事があったが、その際も弓の腕が立つ鶴が居てくれるから安心して行けると信頼を置いてくれた。童子が戦いから戻って来た時は春乃や春次と同様、鶴も童子の無事の帰還が何より嬉しかった。童子になってもなれなくても、この居心地のいい場所が自分の居場所になればどんなにいいだろう。

 だが時間は容赦なく過ぎ、御朔日参りの日はやって来た。言われるがままにお堂の中に入り、皆が揃えたように口を噤むと、不思議と花の馨りがお堂の中に立ち上り、檀上の御簾が誰も触らぬのに上がり、その不思議に驚いている間に弁財天神は姿を現した。神を初めて見た鶴は言葉を失った。その神々しさと空間・質量を漠然と凌駕する絶対的存在に声さえ出なかった。神を見つめる童子たちの視線は畏怖しながらも羨望をひた隠して控えている。あの豪傑な酒泉童子や鬼神と戦った生命童子でさえ……。

 童子に言われても信用しているようでしていなかったが神は本当にいた。自分の許には来てくれなかった。ただそれだけだった。「御稚児様はご神体と繋がる存在」などとよく戯言を言えたものだと、僧侶に騙されて言いくるめられていた事が悔しかった。
 音一つ、許可なしに立ててはならぬような緊迫した空気が漂う。蝶が耳の辺りを歌いながら通るかの如く頭の中に柔らかい声が響く不思議な空間。神と繋がるとはこう言う事か。存在はそこにあるのにしかし触れる事はなく自分の何もかもが見透かされて隠す事が出来ぬのだと知る。童子たちは面を上げろと言われるまで顔を上げなかったが鶴は一人、御簾が上がったその瞬間から神を一人見つめ続けていた。
 
 いつもは最後に呼ばれる生命童子が今回は一番始めに御前に出て膝をつく。

「弁財天神様、此度、鶴なる者を連れて参りました。童子になる素質を見た故連れて参った次第です」

「あい、分かった」

 童子は鶴を前に呼び、鶴は神の前で同じように跪いた。

「神様、つ、鶴と申します。僕は……私は幼い頃より寺におり……」

「何も喋るな。我の眼を見よ」

 言われて顔を上げ、鶴は弁財天神の眼を見た。その瞬間、両目を射貫かれた様に眩い光に視界が奪われ、目を開けておれず手で覆った。

 何とか眩しさに慣れようと少しずつ瞼を開けると、そこは暗いお堂の中でも何でもなく、空も地も何もない真っ白な世界だった。ただ二つの慈悲深い巨大な瞳だけが宙に浮いてこちらを見ており、足のない海月のような水に覆われた固まりが頭上や足下にふわふわと浮遊していた。浮いては弾け、どこからともなく生まれては膨らみ漂っている。何もないのに、全てがそこにあるのだと悟るのに時間は要らなかった。

 よくみると浮遊物の中で渦を巻いているものは自分の頭の中だった。五感が剥き出しになって、記憶も何もかもが顕な無防備に思わず己を抱きしめた。知らぬ親を乞う心も、人への恐怖も、嘲に噛み締めた憎しみも、自分のしてきた汚らわしい行為も、焼けるように燻り始めた心も、全てが得体の知れない色の塊となって浮遊している。そして巨大な二つの眼は鶴を見つめ、その奥にある、鶴自身には分からない遥か未来かなたを視ていた。

『そなた、どうしたい』

「僕、わ、私は童子になりたいです」

『何故だ』

「生きていきたいからです」

『何故生きたい』

「わ、私は欲張りだからです」

『欲張りとは』

「こんな穢れた体でも、生きていたい。死ぬのは怖い」

『死ぬのが怖いなら童子になる事は出来ん、我が童子たちはいつも死と隣り合わせだ』

 言葉に窮する。神の前では言葉など唯の繕いでしかなかった。童子たちが命を掛けて戦っている事を知っていながら浅はかな答えだったと、自分の幼さが恥ずかしくなった。二つの眼は瞬く事無く鶴を見つめ続けている。

『生きたいか……死と隣合わせだが童子として生きるはせいの極みとも言えよう…… そなたには与える力が秘められている……』

「私は童子になれるのでしょうか!?」

『翡翠は悋気の色。道に迷わねば多くを救う……』

 神が紡ぐ言葉の意味は鶴には難解だ。翡翠が嫉妬の色だと言う事は解ったが道に迷うとはどう言う意味だろう。

『紅い陽に包まれて燃え尽きたいか』

 自分の奥底にあるものがいきなり言葉になり、引き摺り出されて鶴はどうしたらよいか分からなかった。

『そなたの宿命は愛にある……人である限りそなたも救われよう……』

 空に浮かぶ両目の間に切れ込みが入り、そこからいくつもの長い手が出て来て浮遊物を中へ攫い、切り込みに引き摺り込んでいく。

 割れ目が閉じられると巨大な両眼の瞼も閉じられ、光が吸い取られるように空間は収縮し、目の前が真っ暗闇になった途端、鶴は我に返った。神は言葉を続けた。

「道は選べる。与えよ。道を拓け。柔と剛を抱え、己のためでは無く他者の為に力を使え。さすれば報われん

――そなたに愛敬童子の名を命ず」


 鶴はかくして愛敬童子となった。

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