31 / 66
第31話 愛敬童子⑩ー迦楼羅(カルラ)
しおりを挟む恐る恐る床下から這い出た鶴は足元に落ちている鬼の腕に小さな悲鳴を上げて生命童子の裾に縋りついた。
沢山いた鴉天狗たちはいつのまにか数を減らし、数体が屋根の上から柚果と怪我をした鴉天狗をそっと地面へ運んだ。嘴型の仮面をつけた男たちは鬼神に足をやられた鴉天狗を心配そうにのぞき込む。
「迦楼羅様、早く巣へ戻って治療を」
「柚果は……」
「人間は大丈夫です。気を失っているだけです。それよりカルラ様の足の方が心配だ」
男たちの間をぬって鶴は地面に横たえられた柚果に走り寄った。
「柚果!柚果!」
生きているのか確かめたくて何度も体を揺さぶる。柚果はううんと何度か頭を揺らしゆっくりと目を開いた。
「鶴……」
「柚果!良かった!生きてる」
「怪我はないか、鶴……」
気絶していたのは自分なのに優しい口調で柚果は鶴を心配した。口調の温かさに目が潤む。少し前の、まだ沢山話をしていた頃の柚果に戻ったようだった。
「僕は大丈夫だよ。鴉天狗様が怪我をしちゃったけど……」
鶴は寝ているままの柚果に震えながら抱きついた。
「怖かった。怖かったよ、柚果。死んじゃったのかと思った。鬼が柚果を狙ってたんだ。それから鴉天狗様に抱えられて屋根の上に行ってしまって。僕、僕……」
怖かったのは柚果も一緒なのだ。泣いてはいけない。鶴は溢れ出そうな涙を堪え、柚果の胸に耳を当ててその心臓の音と呼吸を確かめた。話なんか出来なくていい。そばにいてくれなくたって良い。生きていてくれればそれでいいんだ。
「怖かったな」
そっと柚果が鶴の頭に手を乗せて撫でた。柚果の気づかいが伝わる。鶴は柚果が生きている事に感謝した。そしてそれを感謝するのは、和尚たちが崇めていた神仏ではなく、鬼を追い払ってくれた鴉天狗と童子たちだと思った。
「童子様、鴉天狗様、柚果を救ってくれてありがとうございます」
鶴はそれぞれに向かって頭を下げた。
カルラと呼ばれた鴉天狗は柚果に話しかける。
「柚果、こんな場所に未練などもう無いだろう。また鬼が出るとも限らん。早く契りを結ぼう」
「カルラ様!起き上がってはなりません、処置をせねば」
「五月蠅い、大した傷ではない。早く血が止まるように足を縛れ。どの道飛んで帰らねばならん」
カルラと呼ばれた男は鴉天狗の長のようで、部下らしき男たちはいそいそと応急処置をした。両足にぐるりとサラシを巻いてカルラは上半身を起こし柚果に抱き着く鶴を見た。
「これがどれ程突き離し冷たくあしらっても心配せずにはいられなかった可愛い弟か。もうあの糞坊主はおらん。こいつは自由だろう。お前も自由になれ」
「鶴はまだ一人で生きていけない。ここに居ればまた新しい和尚が来て同じことを繰り返すだけだ。鶴にも字を教えてやってくれ。鶴とも契りを……」
「こんな子供と契りを結ぶのは御免だ。お前すらまだ条件を満たさぬから連れて行けぬというのに」
「俺だって十分子供だろう」
カルラは柚果と何かの契約をしているらしかった。だが柚果が鶴を置いていけないと渋っている。童子たちは鶴を心配して、どういう事だと二人に聞いた。柚果とカルラは事の運びを説明した。
「山を散策していた時にカルラと出逢ったんだ。初めは怖かったけど、カルラについて行って彼らの世界を見せてもらった。寺に来るものから聞く世界とこの寺の中しか知らない俺にとってカルラが棲む世界は完璧だった。自由に空を飛び、縛られるのは空と自然の摂理だけ。過不足のない因果応報の中で全ての出来事が流れていく。自分の行いが全て自分へと戻る。皆相手を思いやり、虐げる者もいない。人の浅ましさや醜さばかりを見てきた俺にとってはカルラの世界は理想の世界だった。一見獣と同じく好き勝手に生きているように見えるが、神通力を持つカルラがいれば、嘘を吐く者もいない。ここの坊主たちみたいに、有難い仏様の説法や何たらと蘊蓄を垂れて村人から金をまきあげたり、世捨て人などと宣うその裏で子供を使い私腹を肥やして好き勝手するような不条理は起こらない。皆自由なんだ」
柚果は鴉天狗たちの世界がどれ程合理的で平等で透徹した世界なのかを説明した。そして自分が生きている世界の醜悪さに絶望していた。元よりこの世はこんなものだと思っていた。欲に塗れ、その欲を満たすためにはけ口を求め、手に入れても手に入れてもさらに業を増すのが人。弱き者は生きる為に自分の尊厳も何もかもを犠牲にせねば生きていけない。見えない足枷を付けられ、羽をもがれた籠の中の鳥と同じ。搾取し合い、争い、嫉み、自由さえも奪われてやっと生きながらえる。しかし己にはその道しかないのだと思っていた。だがこの世はそんな世界ばかりではない。自由というものが存在するのだと知ったのだ。
柚果はこの寺から自分を連れ出して鴉天狗の世界に連れて行ってほしいと頼んだ。そして字を教えて欲しいとも言った。もしカルラ達の世界に居られなくなっても字が読めれば世の中を渡っていける。舞も踊れるし唄も歌える。出来る事は何でもするから、この牢獄の様な場所から救い出してくれと願ったがカルラは渋った。字を教える事はできるが、飛べない人間と契約を結び、共に暮らす事は一族全体を危険に晒す事になりかねない。人間は嘘を吐く。そして己の欲を手放すことが出来ない。人を鴉天狗たちの世界に引き入れる事は禁忌で大きな禍だと言われていた。だがカルラは柚果に惹かれていた。まるで物の怪の様に妖しく、美しく、そして若いのに全てをあきらめたように見える柚果が不思議で、何も要らない、ただ自由が欲しいと寂しそうに言う柚果を愛おしく思っていた。苦しみから解放してやりたい、愛とは何かを教えてやりたい、同じ世界に生きる者であれば、伴侶にしたいと言う程思いを募らせていた。
柚果の願いは鴉天狗の世界の禁忌を侵す事となる。カルラは愛してはならないものを愛したのだと自覚し、迷い、仲間に相談した。歳老いたものからも苦言を提され、カルラは長を辞めて柚果と二人で暮そうかとまで考えたがそれこそ鴉天狗一族全員から猛反対を受けた。カルラは特別な存在だった。神通力を持つ鴉天狗界の中でも最強の男だったからだ。協議は繰り返され、二人は契りを結ぶことにした。契りを満たせば柚果は鴉天狗の一族として認められ、カルラの伴侶として暮らせるという事になった。条件は二つだけ。カルラと契り、鴉天狗の印を魂に刻むこと。そして今まで出会った人との記憶全てを手放すというものだった。
鴉天狗の一族として迎えられるのであれば、最初の条件は何の抵抗も無く、カルラを慕い、人間の世界に居たくない柚果にとっては寧ろ望んでいた事であったが、二番目の条件を満たす事が出来なかった。鶴を忘れる事を拒絶したのだ。
自分が居なくなれば寺に残された鶴は自分の分まで捌け口を担う事になる。鶴がどうなろうとも自分は鶴自体を忘れてしまうのだから、鶴がどれ程苦しんで悲しんでも知らないで居られる、気にせずに居られる。好都合に違い無かった。だが忘れてしまうからと言って鶴をこのままにさせたく無かった。距離を置いて冷たくすればもしかして気持ちが離れて忘れる事を決断できるかも知れないと思った。それに鶴が自分の事を嫌えば自分も心起きなく去れると思ったのだが、鶴は柚果の冷たさに嘆くばかりでいつまで経っても頼りないままだった。どれだけ突き放しても柚果柚果と慕ってくる。このままここで朽ち果てるのは嫌だ。だが鶴を置いていけない。鶴も一緒に連れて行ってくれないかと頼んではみたが、異例中の異例である人間の受け入れを二人に増やす事は出来ないと言われた。そうして悩んでいる間に時間は過ぎていった。
一通り話を聴いた鶴は、柚果が自分を嫌っている訳では無かった事に心底安堵した。柚果には未来がある。この寺からでて、世界は違うけれど自由に生きる道が出来たのだ。柚果を邪魔してはならない。鶴は笑顔を作った。
「ねぇ、柚果。僕ならもう一人で大丈夫だよ。心配しなくていいんだ。柚果が元気で居てくれるなら僕はそれが一番嬉しい。鴉天狗さんたちの世界にいけるならそうして欲しい。僕は平気。柚果のしたいようにしていいんだよ。柚果には幸せになって欲しいんだ」
それは鶴の本音だった。生きている事が辛くて堪らなかった。この寺での暮らしは身心を削る。今すぐにでも逃げ出したかった。心の支えにしていた柚果とも話せなくなって悲しみに暮れていたがそれは生きているからこその苦しみ。柚果が昔の様な笑顔に戻れる世界へ行けるならそうして欲しかった。自分よりも沢山の苦しみを受けてきただろう柚果。年上だからといつも甘えてばかりできっと彼の後ろ髪を引っ張っていただろう。柚果だけでも救われて欲しい。
「ほら、こいつもそう言っている。早く未練を絶て。お前の未練が消えぬ限り第二の条件は満たされず契りも果たせぬ」
「鶴は……残していけないんだ。俺の、大切な弟だから」
鶴の視界は浮びあがって来る涙でぼやけた。いつも何でも教えてくれた柚果。家族は柚果だけだった。何もかも柚果が教えてくれた。厳しい舞や花や唄の練習も、全部柚果とだから頑張れた。柚果が耐えているのだからと、夜伽の修練も耐えた。柚果を支えに生きて来れた。だから他人の様に扱われた時は泣けて仕方なかった。自分には最早生きる意味もないと絶望した。だが柚果は自分を弟だと言ってくれた。大切な、家族だと。
「大丈夫。柚果が僕の事忘れても、僕は柚果の事忘れない。それでいいんだよ。僕ね、鬼に食べられている人を見て死にたくないって思った。ここの暮らしは辛いけど、どうやったって自分の出来る事をして生きるしかないんだって思ったんだ。ここを出て行っても今の僕には出来る事がない。文字も読めないし寺の世話になるしかないんだ。柚果には違う世界が開けているんだよ。遠慮なんかせずに行って。僕は、柚果が、僕の事、家族だって、そう思ってくれただけで……その思い出だけでちゃんと生きていけるよ」
今は涙を流しちゃだめだ。柚果の足を引っ張っちゃだめだ。鶴は感情を押し殺して笑顔を保った。
「鶴……お前……少し大人になったな」
「へへへ」
「けどな、俺はお前を残して行けない。カルラ、頼む。こいつを連れていきたい」
「駄目だ。俺の世界にも規律はある。今回の事は俺がお前に惚れているからこそ周りは受け入れたんだ。芋づる式にそいつを連れていく事は出来ない」
「柚果だけでいいんです、彼を連れて行ってください」
鶴は正座をしてカルラの前に手をついた。
「柚果を、お願いします」
「お前を置いて行くつもりはない」
「でもそんな押し問答いつまでもしてられない。そうやって柚果は何年我慢したんだよ。何年カルラさんを待たせたの。もう駄目だって諦められたらどうするの」
「そうなったら、そうなったで……」
「そんな事させない」
三人のやり取りを見ていた生命童子は割って入った。
「その、鶴が嫌じゃなければの話なんだが」
『お前は関係ないだろう』
柚果とカルラが声を合わせて抗議する。だが躊躇いがちでも生命童子は続けた。
「鶴を俺が預かるのはダメだろうか」
『え!?』
酒泉童子と鶴と柚果は揃って生命童子の顔を見た。
0
お気に入りに追加
32
あなたにおすすめの小説
隣の家に住むイクメンの正体は龍神様でした~社無しの神とちびっ子神使候補たち
鳴澤うた
キャラ文芸
失恋にストーカー。
心身ともにボロボロになった姉崎菜緒は、とうとう道端で倒れるように寝てしまって……。
悪夢にうなされる菜緒を夢の中で救ってくれたのはなんとお隣のイクメン、藤村辰巳だった。
辰巳と辰巳が世話する子供たちとなんだかんだと交流を深めていくけれど、子供たちはどこか不可思議だ。
それもそのはず、人の姿をとっているけれど辰巳も子供たちも人じゃない。
社を持たない龍神様とこれから神使となるため勉強中の動物たちだったのだ!
食に対し、こだわりの強い辰巳に神使候補の子供たちや見守っている神様たちはご不満で、今の現状を打破しようと菜緒を仲間に入れようと画策していて……
神様と作る二十四節気ごはんを召し上がれ!
よあけまえのキミへ
三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。
落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。
広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。
京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。
【完結】月よりきれい
悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
真田源三郎の休日
神光寺かをり
歴史・時代
信濃の小さな国衆(豪族)に過ぎない真田家は、甲斐の一大勢力・武田家の庇護のもと、どうにかこうにか生きていた。
……のだが、頼りの武田家が滅亡した!
家名存続のため、真田家当主・昌幸が選んだのは、なんと武田家を滅ぼした織田信長への従属!
ところがところが、速攻で本能寺の変が発生、織田信長は死亡してしまう。
こちらの選択によっては、真田家は――そして信州・甲州・上州の諸家は――あっという間に滅亡しかねない。
そして信之自身、最近出来たばかりの親友と槍を合わせることになる可能性が出てきた。
16歳の少年はこの連続ピンチを無事に乗り越えられるのか?
来し方、行く末
紫乃森統子
歴史・時代
月尾藩家中島崎与十郎は、身内の不義から気を病んだ父を抱えて、二十八の歳まで嫁の来手もなく梲(うだつ)の上がらない暮らしを送っていた。
年の瀬を迎えたある日、道場主から隔年行事の御前試合に出るよう乞われ、致し方なく引き受けることになるが……
【第9回歴史・時代小説大賞で奨励賞を頂きました。ありがとうございます!】

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる