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第30話 愛敬童子⑨-鬼神
しおりを挟む鶴と同じような着物を纏った物の怪を見たと生命童子は言っていた。ひょっとして柚果を物の怪の仲間だと勘違いしているかもしれない。鶴は勇気を出して童子たちに叫んだ。
「着物の人は、ひ、ひ、人です、人間です!僕と同じ、この寺の稚児です」
「分かっている」
生命童子の抜いた宝剣は屋根上の羽の生えた男ではなく、柚果が居た部屋へ向けられていた。
中では隣村の和尚が首を切られて倒れていた。そしてその体に覆い被さるように鬼が肉を貪っていた。床は赤く染まり、壁には血飛沫が付いている。
童子たちの視線に気づくと鬼はごくりと咀嚼していた肉を飲み込み振り返った。口元の血を腕で拭うとにやりと笑いすくりと立ち上がる。
「狙っていた獲物は取り逃したが活きの良いのが来た」
独り言のように呟く鬼の額には大きな角が一本生えていた。山中や人気のない場所を住処とし、獣の様に暮らすと言われている鬼は知能が低く言葉を喋らない。反して人に紛れたり騙したり言葉を操る鬼は強い。今まで遭遇した事のない威圧感を持つ個体に、噂に聞いた鬼神かも知れないと生命童子は宝剣を握る腕に力を込めた。
鬼神は鬼を生み出す数少ない個体。鬼同士で番う事が無い為、今いる鬼は鬼神の血肉を分け与えられたものと言われている。分け与えられて超人の如く強いのだからそれを生み出す鬼神はどれ程の力だろう。想像するだけで冷や汗が出てきた。
「なんだ、もっと若いのがいるではないか。あいつを食い損ねたから年のいった坊主で少し腹を満たしてしまった。まぁいい、小さいのは連れて帰って喰う。餓鬼どもを連れて来なかったのは正解だったな。奴らには勿体ない上質の子供だ」
鶴に気付いた鬼は舌なめずりをしながら言った。視線を阻むように生命童子は立ちはだかる。
「鶴に手出しはさせん」
「口直しにお前を先に食ってもいい。お前も若く美味そうだ。が、この匂い、お前、もしかして……」
構えた生命童子の宝剣に動じる事なく鬼は一歩近づき、鼻から息を大きく吸いこんで匂いを集めた。怒気を孕んだ鬼の体がぐんと膨らむ。生命童子は一歩後退した。後ろに隠れた鶴も同じく一歩下がる。鬼神かも知れないと思った時点で勝てるのかと言う不安が湧いていた。
「気圧されるな」
そう言いながら酒泉童子は薙刀を持って仁王立ちで屋根を見上げていた。
「あれは、鴉天狗だな」
幾度となく一人で戦いにでている酒泉童子と違って生命童子は今回一人で任務に当たれと言われている。お目付け役にと一緒に来てくれているのだから危ない時は勿論助けてくれるだろうが突然出てきた物の怪と鬼。目を逸らす余裕はない。
何とか鬼との間合いを計りながら隙を見せぬよう生命童子は屋根にいる鴉天狗を横目で見た。鴉天狗は気絶した柚果の乱れた衣服を整えながらこちらの様子を窺っている。きっと少年を鬼から救ったのだろう。敵は鬼一体だ。
「あいつが鴉天狗……鬼の仲間では無いようで一安心です」
童子たちの言葉を聞いていた鬼は屋根の上を片目で見た。ぎょろりと片方だけ動かす気味悪さにぞわりと身の毛がよだつ。
「鴉天狗が鬼の仲間?笑わせる。無知な小僧だ」
「う、煩い、憎き鬼め。退治してくれる」
これほどまでに濃い瘴気を放つ鬼と遭遇した事はない。激しく波打つ自分の心音が煩すぎて耳が痛かった。このまま生気を吸い取られそうだ。
「山にそぐわぬ色欲の生気に餓鬼どもが騒ぐから偵察させたら、美味そうな子がおるというのでやって来たのに、飛んだ邪魔が入ったものだ。鴉天狗に弁財天の眷属と半端ものとはな。横やりを入れよって不愉快極まりない」
鬼の存在が空気を澱ませる。草も木も動物達も見つからぬ様にと気配を消しているみたいに静かだ。無音の夜に禍々しい声が響く。
「新たにまつろう愚神の言霊を信じ、古の恩を忘れた痴れ者どもよ。三界皆苦に生まれしお前が憎むべきは人。卑しく子供にむしゃぶりついておった坊主を殺してやったのも我、鬼神。我は感謝されて然り」
雄弁に話す鬼は今までの鬼とは違い長い髪を綺麗に束ねて輪っかを作り、釈迦の言葉を知る知能の高い鬼神だった。
「我を忌み、鬼へと堕とした下劣な人の子孫よ。我が糧となってその罪を償うがよい」
「お前の持つ恨みなど知るか。鬼の根源であるお前こそ死すべき存在だ」
「誰に向かって口を利いている」
鬼はぶんと左腕を振った。生命童子は十分な間合いを取っていた筈だった。攻撃が届く距離ではなかった。なのに一瞬で真横に吹き飛ばされた。宝剣で辛うじて衝撃を和らげたものの、そのまま庭にあった石の灯篭にぶつかり崩れる。戦いは何の前触れもなく始まった。
「……っぐっ」
いきなり吹き飛ばされて攻撃を受けた生命童子は鶴を巻き込まなくて良かったと立ち上がった。ぼたぼたと頭から何かが流れ落ちる。血だ。頭のどこかを切ったらしい。
「生命童子様!」
心配した鶴が叫ぶ。
「師匠、鶴を頼みます」
言うが早いか鬼はまた跳躍して拳を振り、生命童子は再び三間程飛ばされた。
初めて一人で戦う鬼が鬼神とはついていない。だが鬼神を倒せたなら弁財天様もお喜びになるだろう。鬼を生む元を絶つことが出来るのだ、功績も大きい。家族の為にも、人々の為にも、こいつは倒さなければ。生命童子は深い呼吸を二度繰り返し心を落ち着かせた。命など惜しくはない。鬼を見ると底知れぬ憎しみが湧く。鬼を倒せと血が騒ぐ。激しい心音は恐怖ではなく怒りだ。
次の衝撃を受ける前に生命童子は宝剣を振り、何かを掠めた。だが切れたのは僅かな髪だけ。剣は空を切り童子は再び気配の方向へ刃を回転させた。
今度は手応えを感じた。宝剣は鬼神の右腕を捉えて突き刺さる。だが何故か鬼の目線は後方へと向けられていた。視線の先には酒泉童子が居る。彼の大薙刀の刃が鬼神の背中から刺さり鬼の体を動けぬ様にしていたのだ。
「この鬼相手に一人では無理があるようだ」
酒泉童子は生命童子に後方から話しかけ突き刺した刃を更に奥へと捻子込んだ。背中から胸へ刃が突き出て鬼神が血を吐く。生命童子は脂汗を掻いた。思ったより直ぐに助け舟が出された。一人では太刀打ちできぬと瞬時に判断が付く戦いだという事だ。
「おのれ……弁財天の犬どもが……卑怯な」
鬼神が胸筋に力を籠めると薙刀の刃がみちみちと背中から徐々に抜けていく。
「鬼に卑怯と言われても痛くもかゆくもない。大事な弟子を傷つけられては困るんでな。お前の様な大物に狙われる寺だったとは計算外だがな」
言葉では余裕を見せたが酒泉童子は内心焦っていた。まさか鬼神だとは思わなかった。ただの強い鬼なら生命童子一人で十分だが、鬼神は訳が違う。酒泉童子は薙刀を再び思いきり差し込み捩じった。
酒泉童子が鬼を薙刀で抑え込んでいる間に、生命童子は腕に刺した宝剣を力いっぱい振り下ろした。鬼神の腕がどさりと地面に落ちる。
「こんな小童に我の腕を……」
「鬼神の腕を切り落とすとは、さすが生命童子」
下がれと目配せを受け、生命童子は後方へ飛んだ。酒泉童子はそのまま刀を横に引き胴体を切り裂こうとしたが、鬼神は突き出た刃を握り薙刀を体から引き抜こうと藻掻いた。
「我の体を傷つける強さを持つとは……油断をした」
生命童子に憤怒した鬼神は更に体格を増し酒泉童子は薙刀に目一杯力を込めたが力比べの勝敗は目に見えていた。薙刀はずるずると動きこのままでは引き抜かれてしまう。不安がよぎったその時、鬼神の体が宙に浮いた。
まさか飛べるのか、と驚愕に目を見張ったが頭上には鴉天狗がおり、大きな鴉の爪を鬼神の両肩に食い込ませて地面から鬼の体を浮かせていた。
「今だ、振り抜け!」
「承知!」
酒泉童子は鴉天狗の助太刀の声に素早く反応して薙刀を振りぬき鬼神の胴体を胸から右脇腹まで切り裂いた。
「ガアァァァッ!!」
雄叫びと共に鬼はその鋭い爪で鴉天狗の両腿を切り、痛みに力の抜けた鴉天狗は爪を肩から外して地面へ落ちた。鬼もそのままどさりと仰向けに倒れる。
童子たちは今の内にともう一度攻撃を仕掛けようとしたが鬼はすぐに起き上がり、倒れていた鴉天狗の体を引き寄せた。鴉天狗は羽を動かそうとしたが足を掴まれ上手く逃げられない。
胸の中心から右脇腹まで切れて血を垂れ流しているのにこんなに普通に起き上がるとは。酒泉童子は底知れぬ鬼神の力にぞっとした。神から授かった宝剣や大薙刀で切られた傷は簡単には戻らない。だが何かを取り込んで失った血や肉を代替させれば鬼神であればすぐに修復するだろう。鴉天狗を引き離さなければと思った瞬間、何十羽という鴉の鳴き声が響き渡り、いくつもの黒い影が鬼神の体を何度も横切って渦を作った。渦が回転する度に鬼神の体に傷が生まれる。攻撃に目を取られている間に怪我をした鴉天狗は再び屋根上の柚果の元へと戻っていた。黒い渦は程なくして止み、嘴の仮面をつけた羽のある男たちが屋根の縁にずらりと並び、数体が柚果と倒れ込んでいる鴉天狗を囲んでいた。
ふらふらと立っておくのがやっとの状態に見えた鬼神の首を狙い、とどめを刺そうと童子たちは剣を振り上げた。だが鬼神はぎょろりとまた片目を寺の方へ走らせると目を動かした方向へ跳躍した。そこには寺の和尚が隠れていた。
「ヒィッーーー!助けて下さい、童子様!」
音を聞いて和尚が様子を見に外へ出ており、鬼神がそれに気づいたのだ。鬼に首を掴まれ地から浮いた足をばたつかせている。
「穢れた肉で我の体をつなぐは不本意だがこのまま首を斬られては恨みが晴らせぬ」
「た、助けてー!」
「黙れ」
鬼神は坊主の口の両端に爪をひっかけ左右に切り裂いた。ドボドボと口から血を流す和尚を見て鬼は厭悪の表情を見せた。
「人はこの汚い僧侶どもを高僧と呼ぶらしいな。幼子を使って色欲と財欲を満たす汚らわしい下種に縋り極楽へ導かれると信じているのだから、人間とは救いようのない愚かな生き物だ。そんな人間を助けようとするお前らの神も不毛の存在。
生命童子と言ったな。死を司る者が生命の名を受けるとは何たる皮肉。愚かな弁財天の考えつきそうなことよ。古の理を壊し、人に生み出された偽物の神など捨てて、始祖である我の元へ戻れ。お前ならば我の右腕にしてやってもいい」
「何を血迷った事を言っている!弁財天様を侮辱する奴は何人たりとて許さん。俺は弁財天様の為に、人の為に闘う。お前が何者であっても、鬼ならば殺す!」
「フッ、知らぬが仏とはよく言ったものだ。禁忌を破るはその呪われた血のせいか。我を選ばなかった事、必ずしや後悔するだろう。其方の父の様にな」
「俺の父を殺したのはお前か!?」
鬼は問いには答えず切られた腕を見ていた。鬼の手はまだ生命童子の足元にあったが取りに来ようとはしなかった。手負いの上に首を取られる危険を冒したくないからだ。
「我が腕は神棚にでも飾っておけ。怨念は消えぬ。お前の体に刻まれた呪いも消えぬ。生き地獄を見る覚悟をしておくがよい」
鬼神は生命童子をぎろりと睨み、そのまま和尚を引き摺り山の中へと入っていった。
「待て!!」
追いかけようとする生命童子の腕を酒泉童子がぐいと引き留めた。
「何故止める、酒泉!今やらねば……」
「鬼神は今の我らには倒せん」
二人掛かりでなければ腕は落とせなかった。鴉天狗たちの助太刀がなければ薙刀は抜け、鬼神に殺されていた。幼子でありながら鬼を八つ裂きにした生命童子であってもあの鬼神には敵わない。鴉天狗もどこまで援護してくれるかは未知だ。最善を尽くして健闘はしても命を落とす可能性は高い。鬼の修復力は人間とは比較にならないのだ。自分の命はどうなってもいいが生命童子だけは守りたかった。
取り逃したと落胆する生命童子に、命拾いをしたのは我らだと肩を叩き、二人は床下へ避難させた鶴を呼んだ。
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