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第18話 狼①

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 曇天の空に翔ける鷹は、優雅に空を回遊しているように見えて、その実血眼になって獲物を探していた。森の木蔭に動きが見えると急転直下して鋭い爪の生えた足で獲物を捕らえ飛び去っていく。自然の世界は厳しいが、あんな風に自由に飛び回って生きていけたらと生命童子は空に思いを馳せていた。

 春次の事だけが気掛かりだったが、愛敬童子に任せていればきっと問題ないと確信していた生命童子は人気のない山奥でひっそりと身を潜め一人で暮していた。愛しい春乃は死に、仲間を悉くその手で殺し、愛敬童子に合わせる顔もない。角の生えた醜い姿を弟の前に晒すことも出来ない。生命童子は生きる意義を見出す事が出来ぬまま、生きていた。
 春次を天涯孤独にするなという愛敬童子の言葉は心に突き刺さったままだったが、己が鬼に堕ちたことを許すことが出来ず葛藤する心を抱えたまま生命童子は何度も自害を試みていた。しかし完全に鬼になった肉体は強靭で、自分では首を切ることが出来なかった。人が作った刀では身体にはつけられても骨を切ることが出来ない。宝剣であれば恐らく骨を断つ事が出来るのだろうが今は叶わぬことだった。首を切る事を諦め今度は餓死する事を試みたが、鬼の体は生気を吸う事でも保たれる為、数か月食べずとも死にはしなかった。如何ともし難い強い肉体に童子は心底辟易した。これではいつまで経っても死ねはしない。生きていれば腹は減り何かを口にしたくなる。苦し紛れに木の実や草を食べて腹を膨らしてみたが、空腹感は変わらなかった。形容し難い飢餓感は常に感じており、それを満たすには人の精気が必要なのだろうと思った。もしくは人を喰らうことでそれが満たされるのだろうと、少なくとも体はそう感じていた。早くこの体を殺してしまわなければ、月日が経ち記憶が薄れ、気がふれた折には何をするか分からない。生命童子は焦燥感に駆られ、毎日どうやって死のうかと考えて暮らした。  
 神の言葉を守れず鬼になった自責の念はどんな拷問よりも激しく童子を苦しめ続け、生き永らえる事が苦しい。苦しいが自分を殺す事さえ出来ない。童子は何度も神へ祈った。狂い堕ちてしまうまえに、正気である内に殺してくれと願ったが、いつまで経っても鬼のままだった。

 *

 ある満月の夜半、ふと風に誘われて山道を歩いていた。するとどこかで叫び声が聞こえた気がして声が聞こえた方へ走っていくと狼に襲われそうになっている人間が居た。夜中に山道を歩くなど、襲って下さいと言わんばかりの危うい行動であったが人には人の理由があるのだろう、大きな荷物を背負ったまま腰を抜かしていた。蓑を被って猟師の振りをした生命童子はすぐさま人の前に立ちはだかり助けようとした。その男は自分が助かるのだと分ると、すまねぇと言い残しそのまま走って逃げ去ってしまった。逃げる後ろ姿を見るとなんとも遣る瀬無い感情が再び沸き上がったが、鬼になってもまだ人を助けようとしている自分に安堵を覚えた。腹が減っていても人を食べようなどと心によぎりもしない。自分はまだ人の心を保てている、体は鬼だとしても人なのだと思う事が出来た。そんな心を知ってか知らずか狼はじっと生命童子を見つめていた。

「お前も生きてゆかねばならぬのに邪魔をしてすまなかった」

 童子は目の前の大きな狼にそう呟いた。狼にとってあの人間は滅多に出会えない御馳走だったのかも知れない。月夜に照らされ光る銀色の毛に覆われたその獣はゆっくりと生命童子に近づいた。

「それにしても立派な狼だ。この山の主であろうか。であれば俺を食い殺せるやも知れんな……狼に食われる算段はした事がなかったが、この命がお前の命に変わるなら、それで良いのかも知れん。食うか?」

 そう言って生命童子は屈み、狼に腕を差し出した。狼はびくりと一度後方へ跳んだが再び差し出された手に鼻を近づけた。すんすんと鼻を鳴らして匂いを嗅いでいる。

「俺はお前にとって御馳走になるか、それともこんな硬そうな肉は好かんか。長い間湯浴みもしておらぬから匂うかも知れんな」

 一人話す生命童子の周りを狼はゆっくりと歩き、色んな方向から匂いを嗅いだ。たじろぐ事なく童子はじっとしていた。

「なんだ、用心深い狼だな。食っても構わんと言っただろうに。その代わり首を噛み千切ってくれねば困るぞ」

 そう言って首を指さした。狼は童子の髪や角や顔に鼻先を付けもう一度しっかりと匂いを嗅ぐと、大きな舌でぺろりと童子の顔を舐めた。

「なっ……」

 一度舐め始めると、飴でも食べているかのように何度も何度も狼は生命童子の頬を舐める。

「ふふっ、くすぐったい……人懐っこい狼だな。人に飼われていたのか。もしや先ほどの人間を食うつもりはなかったのか」

 ふわふわとした毛に手を伸ばしてゆっくりと毛流れに沿って撫でると頬を摺り寄せて尻尾を右へ左へと振る。久方ぶりに自分以外の温もりを感じて生命童子は顔を綻ばせた。狼はもっと撫でろと生命童子の手の平の下に頭をこすりつけてくる。

「ははっ、俺を食べもしなければ、怖がりもせんのか。そう言うものも世の中には居るのだな……」

 狼の鼻梁を手の爪で優しく擦ってやると気持ちよさそうに目を細めた。

「お前は一人か……寂しくはないのか?人はお前を見れば食われると腰を抜かすだろう?お前が人と仲良くなりたくとも、人はお前を敵とみなし、矢を向けるだろうに。生きていて辛くはないか。お前に仲間はおらんのか?」

 それはまるで自分に問いかけるような言葉達だった。言っている事がわかるのか、何かを感じたのか、狼はいきなり遠吠えを上げた。鳴き声に呼応するかのように遠くの山から狼の遠吠えが返って来る。

「そうか、お前には友がいるのだな」

 生命童子がポンポンと狼の頭を撫でると狼は駆けだした。仲間の元へ行くのだろう、一度だけ振り返ったその狼の目は翡翠色に光っていた。

 次の夜、狼は生命童子の寝床へとやって来た。










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