18 / 66
第18話 狼①
しおりを挟む曇天の空に翔ける鷹は、優雅に空を回遊しているように見えて、その実血眼になって獲物を探していた。森の木蔭に動きが見えると急転直下して鋭い爪の生えた足で獲物を捕らえ飛び去っていく。自然の世界は厳しいが、あんな風に自由に飛び回って生きていけたらと生命童子は空に思いを馳せていた。
春次の事だけが気掛かりだったが、愛敬童子に任せていればきっと問題ないと確信していた生命童子は人気のない山奥でひっそりと身を潜め一人で暮していた。愛しい春乃は死に、仲間を悉くその手で殺し、愛敬童子に合わせる顔もない。角の生えた醜い姿を弟の前に晒すことも出来ない。生命童子は生きる意義を見出す事が出来ぬまま、生きていた。
春次を天涯孤独にするなという愛敬童子の言葉は心に突き刺さったままだったが、己が鬼に堕ちたことを許すことが出来ず葛藤する心を抱えたまま生命童子は何度も自害を試みていた。しかし完全に鬼になった肉体は強靭で、自分では首を切ることが出来なかった。人が作った刀では身体にはつけられても骨を切ることが出来ない。宝剣であれば恐らく骨を断つ事が出来るのだろうが今は叶わぬことだった。首を切る事を諦め今度は餓死する事を試みたが、鬼の体は生気を吸う事でも保たれる為、数か月食べずとも死にはしなかった。如何ともし難い強い肉体に童子は心底辟易した。これではいつまで経っても死ねはしない。生きていれば腹は減り何かを口にしたくなる。苦し紛れに木の実や草を食べて腹を膨らしてみたが、空腹感は変わらなかった。形容し難い飢餓感は常に感じており、それを満たすには人の精気が必要なのだろうと思った。もしくは人を喰らうことでそれが満たされるのだろうと、少なくとも体はそう感じていた。早くこの体を殺してしまわなければ、月日が経ち記憶が薄れ、気がふれた折には何をするか分からない。生命童子は焦燥感に駆られ、毎日どうやって死のうかと考えて暮らした。
神の言葉を守れず鬼になった自責の念はどんな拷問よりも激しく童子を苦しめ続け、生き永らえる事が苦しい。苦しいが自分を殺す事さえ出来ない。童子は何度も神へ祈った。狂い堕ちてしまうまえに、正気である内に殺してくれと願ったが、いつまで経っても鬼のままだった。
*
ある満月の夜半、ふと風に誘われて山道を歩いていた。するとどこかで叫び声が聞こえた気がして声が聞こえた方へ走っていくと狼に襲われそうになっている人間が居た。夜中に山道を歩くなど、襲って下さいと言わんばかりの危うい行動であったが人には人の理由があるのだろう、大きな荷物を背負ったまま腰を抜かしていた。蓑を被って猟師の振りをした生命童子はすぐさま人の前に立ちはだかり助けようとした。その男は自分が助かるのだと分ると、すまねぇと言い残しそのまま走って逃げ去ってしまった。逃げる後ろ姿を見るとなんとも遣る瀬無い感情が再び沸き上がったが、鬼になってもまだ人を助けようとしている自分に安堵を覚えた。腹が減っていても人を食べようなどと心によぎりもしない。自分はまだ人の心を保てている、体は鬼だとしても人なのだと思う事が出来た。そんな心を知ってか知らずか狼はじっと生命童子を見つめていた。
「お前も生きてゆかねばならぬのに邪魔をしてすまなかった」
童子は目の前の大きな狼にそう呟いた。狼にとってあの人間は滅多に出会えない御馳走だったのかも知れない。月夜に照らされ光る銀色の毛に覆われたその獣はゆっくりと生命童子に近づいた。
「それにしても立派な狼だ。この山の主であろうか。であれば俺を食い殺せるやも知れんな……狼に食われる算段はした事がなかったが、この命がお前の命に変わるなら、それで良いのかも知れん。食うか?」
そう言って生命童子は屈み、狼に腕を差し出した。狼はびくりと一度後方へ跳んだが再び差し出された手に鼻を近づけた。すんすんと鼻を鳴らして匂いを嗅いでいる。
「俺はお前にとって御馳走になるか、それともこんな硬そうな肉は好かんか。長い間湯浴みもしておらぬから匂うかも知れんな」
一人話す生命童子の周りを狼はゆっくりと歩き、色んな方向から匂いを嗅いだ。たじろぐ事なく童子はじっとしていた。
「なんだ、用心深い狼だな。食っても構わんと言っただろうに。その代わり首を噛み千切ってくれねば困るぞ」
そう言って首を指さした。狼は童子の髪や角や顔に鼻先を付けもう一度しっかりと匂いを嗅ぐと、大きな舌でぺろりと童子の顔を舐めた。
「なっ……」
一度舐め始めると、飴でも食べているかのように何度も何度も狼は生命童子の頬を舐める。
「ふふっ、くすぐったい……人懐っこい狼だな。人に飼われていたのか。もしや先ほどの人間を食うつもりはなかったのか」
ふわふわとした毛に手を伸ばしてゆっくりと毛流れに沿って撫でると頬を摺り寄せて尻尾を右へ左へと振る。久方ぶりに自分以外の温もりを感じて生命童子は顔を綻ばせた。狼はもっと撫でろと生命童子の手の平の下に頭をこすりつけてくる。
「ははっ、俺を食べもしなければ、怖がりもせんのか。そう言うものも世の中には居るのだな……」
狼の鼻梁を手の爪で優しく擦ってやると気持ちよさそうに目を細めた。
「お前は一人か……寂しくはないのか?人はお前を見れば食われると腰を抜かすだろう?お前が人と仲良くなりたくとも、人はお前を敵とみなし、矢を向けるだろうに。生きていて辛くはないか。お前に仲間はおらんのか?」
それはまるで自分に問いかけるような言葉達だった。言っている事がわかるのか、何かを感じたのか、狼はいきなり遠吠えを上げた。鳴き声に呼応するかのように遠くの山から狼の遠吠えが返って来る。
「そうか、お前には友がいるのだな」
生命童子がポンポンと狼の頭を撫でると狼は駆けだした。仲間の元へ行くのだろう、一度だけ振り返ったその狼の目は翡翠色に光っていた。
次の夜、狼は生命童子の寝床へとやって来た。
0
お気に入りに追加
32
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
白鬼
藤田 秋
キャラ文芸
ホームレスになった少女、千真(ちさな)が野宿場所に選んだのは、とある寂れた神社。しかし、夜の神社には既に危険な先客が居座っていた。化け物に襲われた千真の前に現れたのは、神職の衣装を身に纏った白き鬼だった――。
普通の人間、普通じゃない人間、半分妖怪、生粋の妖怪、神様はみんなお友達?
田舎町の端っこで繰り広げられる、巫女さんと神主さんの(頭の)ユルいグダグダな魑魅魍魎ライフ、開幕!
草食系どころか最早キャベツ野郎×鈍感なアホの子。
少年は正体を隠し、少女を守る。そして、少女は当然のように正体に気付かない。
二人の主人公が織り成す、王道を走りたかったけど横道に逸れるなんちゃってあやかし奇譚。
コメディとシリアスの温度差にご注意を。
他サイト様でも掲載中です。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
上意討ち人十兵衛
工藤かずや
歴史・時代
本間道場の筆頭師範代有村十兵衛は、
道場四天王の一人に数えられ、
ゆくゆくは道場主本間頼母の跡取りになると見られて居た。
だが、十兵衛には誰にも言えない秘密があった。
白刃が怖くて怖くて、真剣勝負ができないことである。
その恐怖心は病的に近く、想像するだに震えがくる。
城中では御納戸役をつとめ、城代家老の信任も厚つかった。
そんな十兵衛に上意討ちの命が降った。
相手は一刀流の遣い手・田所源太夫。
だが、中間角蔵の力を借りて田所を斬ったが、
上意討ちには見届け人がついていた。
十兵衛は目付に呼び出され、
二度目の上意討ちか切腹か、どちらかを選べと迫られた。
浪漫的女英雄三国志
はぎわら歓
歴史・時代
女性の身でありながら天下泰平を志す劉備玄徳は、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮を得て、宿敵の女王、曹操孟徳と戦う。
184年黄巾の乱がおこり、義勇軍として劉備玄徳は立ち上がる。宦官の孫である曹操孟徳も挙兵し、名を上げる。
二人の英雄は火花を散らしながら、それぞれの国を建国していく。その二国の均衡を保つのが孫権の呉である。
222年に三国が鼎立し、曹操孟徳、劉備玄徳がなくなった後、呉の孫権仲謀の妹、孫仁尚香が三国の行く末を見守る。
玄徳と曹操は女性です。
他は三国志演義と性別は一緒の予定です。
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる