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それは吹雪の中で始まる

それぞれの思惑 1

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 恐怖に震えて竦んだ足は、普通に歩けばものの数秒でたどり着ける距離にも、恐ろしいほどに時間をかけてしまう。
 この部屋の出口であるドアまで、あと数歩という所にもかかわらず、匂坂はその数歩をいつまでも縮められずにいた。

「ねーねー?もっと逃げないのー?今度は追いかけっこがしたいなー、ボク」

 そんな匂坂の背中に、少女の楽しそうな声が響く。
 その声は、思ったよりも近くから聞こえてはいなかったか。

「っ!?ひぃぃぃぃ!?来るな、来るなぁぁぁ!!」

 少女が近くまで来たことは、その声よりも今も響き続けているチェーンソーの唸り声で、はっきりと伝わっている。
 それは紛れようもない、死の気配だろう。
 それに怯える匂坂はさらに足を急がせようとして、またしても躓いてしまっていた。

「あははっ!そんなんじゃ、追いかけっこにならない・・・きゃあ!?」

 既に近くまで来ている少女に、匂坂のその失態は致命傷だろう。
 そんな彼の振る舞いに笑い声を上げた少女はしかし、自らも盛大にすっ転んでしまっていた。

「・・・へ?」

 死の覚悟すら決める失態に、強く目を瞑っていた匂坂は、背後から聞こえてきたその間の抜けた悲鳴に思わず振り向いてしまう。
 そこにはものの見事にすっ転んで、情けない格好を晒している少女の姿があった。

「み、見ないでぇ・・・」

 流石にそんな姿を見られるの恥ずかしいのか、少女はホッケーマスク越しに恨みがましい瞳を匂坂へと向け、涙声で見ないでと訴えかけていた。
 その願いは、すぐに叶えられる。

「・・・とにかく、ここから逃げないと」

 少女の情けない姿に僅かばかりの心の平静を取り戻した匂坂は、崩れてしまっていた体勢を素早く立て直すとドアへと急ぐ。
 しかし完全に落ち着きを取り戻していない彼は、施錠されたままのドアをガチャガチャと捻ってしまっていた。

「何で!どうして開かないんだ!?あっ・・・そっか、鍵を・・・」
「おい!!要兄ぃ、何かあったのか!!?返事しろ!!」

 ドアが開かないことに動揺した匂坂が、そのイージーなミスに気付いて若干の恥ずかしさを感じていると、その向こう側から荒っぽい声が響いていた。
 その声の主はドンドンと激しくドアをノックしており、その衝撃はドアノブを掴んでいた匂坂にも伝わるほどであった。

「ちょ、ちょっと待ってください!今鍵を開けますから!」
「あぁ?誰だてめぇは!!何で要兄ぃの部屋にいる!?」
「えっと、それはですね・・・」

 今すぐにでもドアを蹴破って中に入ってきそうな外の男、力也の雰囲気に、匂坂は慌ててを鍵を開けるから待っててくれと訴えかけている。
 しかしその声は、彼の不法侵入を示す言葉だ。
 案の定、それに対して激昂した様子を見せる力也に、事実後ろ暗いことのある匂坂はうまく返答を返せずにいた。

「ちっ、はっきりしねぇ奴だな・・・しゃらくせぇ!!」
「うわっ!?」

 匂坂のはっきりとしない物言いに苛立つ力也は、彼の予想通りにドアを蹴破ってこの部屋へと押し入ってくる。
 そのドアに張り付いていた匂坂がそれを避けられたのは、始めからそれを予想していたからか。

「要兄ぃ!何が・・・」

 ドアを蹴破り部屋へと入ってきた力也は、真っ先に自らの兄を心配する声を上げる。
 しかし彼はすぐに目にするだろう、その兄の無残な姿を。

「・・・ちっ、そういう事かよ」

 兄の無残な姿に言葉を失った力也はしかし、すぐに何かを悟ったように舌を打つ。
 彼の目線の先には、今だに床に蹲ったままの血塗れの少女の姿があった。

「やってくれたなぁ、姉貴よぉ?」
「・・・あら、貴方の仕業ではなくて?」

 一人何かに納得したような仕草を見せる力也は、そっと後ろへと振り返っている。
 そこには扇子で口元を隠しながら、部屋の様子を窺う一華の姿があった。

「あぁ?何で俺が、兄貴を殺さねぇといけねぇんだよ?てめぇと一緒にしてんじゃねぇぞ」
「ふふふそうね、確かに貴方の言う通りだわ。貴方なら腕力で脅せば、兄さんを言いなりに出来るものね」

 お互いに兄を殺させた犯人が相手だと疑う姉弟は、片方を牙をむき出しに、もう片方は穏やかに笑みを見せながら睨み合っている。
 それは暗に、お互いに動機があると白状しているようなものであったが、それは互いにとって周知の事実であるのか、二人とも特に気にしていないようだった。

「でも、だとしたら考えて欲しいのだけど・・・私がこんな雑な仕事するように思える?兄さん一人殺しても、何にもならないじゃない?」
「・・・あれはともかく、娘の方は殺らないとってか?確かに、姉貴の仕事にしちゃ妙だが・・・この天候だ、予定が狂ったっておかしかねぇだろ?」
「あら?それもそうね」

 多くの遺産を受け継ぐはずであった長男が亡くなれば、その娘に遺産が流れるかもしれない。
 そんな単純な仕組みではないとしても、その存在が面倒くさいものであることは確かであった。
 私が計画したのならば、そんな不手際はしないと笑う一華に、力也も納得する姿勢を見せている。
 しかし、外はこの悪天候だ。
 このロッジにやってきたのが予定にない行動であれば、この殺人もまた予定にない突発的な出来事ではないのかと力也は疑う。
 そんな彼の言葉に、一華もまた反論は出来ないと、心底おかしそうに笑みを漏らしていた。
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