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終わりに
窓 健吾
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大学に入学して一年目はひたすら必死だった。
環境の違いと新しい人間関係についていくのがやっとだったけれど、二年目に少し慣れてきて、一般教養でよく顔を合わせる人間がわかってきた。
一般教養の講義は大教室で行われる。扇型に六ブロックに机が配置されている大教室は、百人が余裕で収容できる教室だ。俺は前から三列目の左端に座ることが多い。彼は中央寄りの右側。
いつのまにか、いつも視界の端に入ってきていた。お互い前を向いているから目が合うことはない。言葉すら交わしたこともない。ただ彼がそこにいるというだけで、頑張ろうという気持ちになった。
初めは、その気持ちに名前なんてついていなかった。
年末の試験前になると、ノートを貸してくれという普段見ない顔がわらわらと湧き出す。
ちょうど昨日見たドキュメンタリーの、ハイエナが餌を探し回っている姿によく似ている。いつもは友人が盾になってくれるけれど、今日は風邪でいないから誰かに捕まる前に帰ろうとしたけれど。
「なぁ、えーっと、サトウだっけ? ノート貸してよ」
ハイエナに見つかってしまった。名前すらまともに覚えていないのに良く借りようと思うな。その積極性だけはすごいと思う。
迷いもせずに断ろうとしたとき、ハイエナの肩を抱いた奴がいた。
「よ、久しぶり。ノート貸して欲しいなら俺のコピーやるよ」
「ミヤ? おまえのノートじゃ」
「何だよ、俺めっちゃ真面目だよ?」
ハイエナは抵抗しようとしていたが、ずるずると引っ張っていかれた。それはあの右側にいる彼だった。
べつに言葉を交わしたことがある訳じゃない。今日のは偶然かもしれない。助けてくれた……なんてことになるのだろうか。
気になったけれど、他のハイエナに見つからないように、さっさと家に帰った。心臓がやけにうるさい。
俺はオメガだ。忘れかけていたことを思い出す。
ミヤと呼ばれた彼は、たぶんアルファだ。アルファとオメガなら自然で……ありなのか?
いや、無理だ。顔だってまともに見たことがない。名前だってお互いに知らない。
頭に上った熱を冷ますために顔を洗った。洗ったあとの顔を見てみたけれど、野暮ったい髪型、野暮ったい服。あんな垢抜けた「ミヤ」の隣には立とうなんて、許されるはずがない。
始まってもいないのに、何を俺は夢見ているんだろう。恥ずかしい。
アルファの友人にはこんな気持ちになったことはない。だから、俺がオメガとして誰かを好きになるなんてないのかと思っていた。
試験が終わり三回生になれば、一般教養はもう取る必要がない。もう、彼と顔を合わせることもないのだろうか。顔なんて合わせないほうが、俺にとってはいいのかもしれない。
想うだけで終わらせなければならない、こんな恋なんて。
「健吾、新しくできた共通講義棟の上の学食行こうぜ。景色すごいから」
「新しいなら高いんじゃない?」
「一回ぐらい行っとこうって」
引っ張っていかれた学食は、高台の上に建てられた高層ビルということもあって街が一望できた。いちおう学食扱いだから、普通の店よりは安いけれど学食としては少し高い。
一回来ればじゅうぶんかと思った時、窓際に彼を見つけた。
友人に囲まれて楽しそうに笑う彼。
後ろには青空が広がって、反射するものもないのにキラキラと光っているように見えた。
「景色いいし、メニューも結構好きだな」
「……うん、そうだね」
「健吾が気に入った!?」
「俺だって、たまには贅沢もいいと思うよ」
「良いよ、良い! 新しいとこって楽しいよな」
新しいもの好きな友人が楽しそうにメニューの話をする。流行りものが取り入れられていて良いらしい。
友人の話に相槌を打ちながら、窓の外を指差して笑う彼を眺めた。
◇
そろそろ子供達もレストランに慣れていって良いだろうと、義両親が個室のあるレストランで結婚十年目を祝ってくれた。
デザートとドリンクが運ばれて、祐志と子供達は早々に食べ終えてしまった。子供達は高層階の景色に夢中で、祐志が見えるものが何なのか教えてあげている。
窓際で外を指差して笑う祐志を見ていて、ふと蘇る記憶があった。
あの時の「ミヤ」だ。
どうして忘れていたんだろう。記憶のない間にどんな奇跡が起きていたのか。
榊原じゃなければ人生もっと違っただろうかと思っていたけれど、榊原じゃなければ祐志と縁談なんてなかっただろう。
「健吾君? 疲れちゃった?」
「いえ、なんか、幸せだと思って……」
祐志と子供達を見て思っていたことがポロリと漏れてしまう。本当のことだけど少し恥ずかしいと思って義母を見れば、感激した様子だ。
「私も健吾君がお嫁さんで幸せよ」
「ありがとうございます」
優しい義母は記憶を失った俺をずっと気遣ってくれている。裕志に悪いところがあったら叱ってあげるから言いなさい、子供達の世話に疲れたらいつでも預けに来て、と温かな笑顔とともに言う。
「俺もお義母さんが祐志のお母さんで良かったです」
「あら、うふふふ、嬉しいわ」
年齢を重ねても少女のような優しい雰囲気を纏った義母と、祐志がそのまま年齢を重ねたような義父。
その中に俺も混ぜてもらって、穏やかな時間が流れている。なんで、忘れてしまったんだろう。
言葉すら交わしたこともなく、ただすれ違うだけの時間に思いを募らせていた。オメガとアルファといっても、立場が違いすぎて叶わない夢だと思っていた。
それが、こんな奇跡のような未来が待っているなんて。
窓際で祐志が光一を抱えて落とす真似をすると、啓一が祐志の足にしがみついて噛み付いた。悲鳴を上げて光一を下ろす祐志を、子供達が二人がかりで容赦なく攻撃している。
大学時代の祐志はいかにも今風な学生で、子供が好きなんて感じではなかった。俺だってまさか自分が出産するなんて思ってもみなかった。
今は当たり前になった子供達と祐志と俺の生活が、ふわふわと夢の中のように感じてしまう。雲の上の幸せだ。
「私はベータで、お父さんとの間に子供ができたのは奇跡みたいなものだと思っていてね、祐志を甘やかしてしまったって反省していたの」
義母がぽつりと呟いた。義母がオメガでないとは知らなかったから、少し驚いてしまった。アルファとベータでは、男女であっても子供はできにくい。
「祐志と一緒になってくれてありがとう」
「え、いや、俺の、ほうこそ……、その、榊原の家が無理言ったのに」
「無理を言ったのは宮園だよ。祐志が健吾君が好きだと言うから、無理して縁を繋いで貰ったんだ」
「え!? そ、そうなんですか。あの! 嬉しい……です」
義父の言葉に驚いた。義両親がいなければ盛大に自分の頬を抓りたい気分だ。夢を見過ぎていないだろうか。祐志が俺を?
「オメガは噛まれてしまうと、どうしても番のアルファに情が湧く。君が祐志を思ってくれる気持ちが、そういうものじゃないかと私達は不安なんだ」
「それはないです。俺はずっと抑制剤で抑えてきて、発情期の記憶がないまま無くなって、あまり本能に振り回される感覚がわかりません。だから自分がオメガっていうのも少し自信がないんです。でも、祐志のことは、番になる前から……きっとその、嫌いではなくて……」
俺がオメガの本能で祐志に盲目的に従っているわけではないことを伝えたかった。それがなんだか告白みたいになってしまって恥ずかしくなってくる。
最後までまともに言えずに、茹で蛸になって絶句してしまっていると、義母が優しく声をかけてくれた。
「あらあら、ごめんなさいね。冷たいジュースもあるわよ」
「この店の冷たいデザートも美味しいんだ。まだ席の時間は余裕があるから、追加しようか」
断る間もなく追加注文のために給仕を呼ぶ義両親に慌てていると、子供達が飛んできて「アイス!」と叫んだ。
「まだ食べるのか。凄いな……」
「男の子だもの。祐志もこれぐらいの時はびっくりするぐらい良く食べたのよ」
祐志が座りながら呟くのに義母が笑って答えている。
「啓一も光一もそっくりで楽しいわね」
「そうですね」
啓一と光一の隣に祐志が座って、その隣に義父が座っていると成長記録のようで面白い。みんな、よく似ている。
「二人とも、どんな人を連れてくるのかしらね。楽しみだわ。祐志も早かったし、私も元気なうちにひ孫が見られるかもしれないと思うとウキウキしちゃうわね」
「そんな、二人ともまだ十歳だし」
「あと十年なんてあっという間よ」
そうだ、色々あったけれど過ぎてしまえばあっという間に思える。あんなに小さかった子供達も、もう俺の胸まで身長がある。食べる量は俺よりも多い。
身長を抜かされるのも数年の話だろう。
食事のあと、子供達は義両親に旅行に連れて行ってもらった。義両親は事あるごとに俺と祐志が二人の時間をとれるようにしてくれる。子供達もいつものことに慣れていて、祖父母との旅行を楽しみにしている。
記憶をなくした俺が突然祐志を受け付けられなくなるのではないかと心配しているんだろうか。
思い出しても思い出せなくても、きっと俺は祐志が好きだ。何故なら、今思い出したからといって心は変わらないからだ。ただ、嬉しく思う気持ちがひとつ増えただけ。
「健吾、どうした?」
「ん、啓一や光一はどんな大人になるんだろうね。外見は祐志によく似てるけど」
「啓一は心配いらないだろうなぁ。問題は光一だ。あいつマザコンの気があるから、健吾に似た人を連れてくらならいいけど、変なのに騙されないと良いけど」
「俺? 光一はテレビ観てても悪役とか好きみたいだから全然違うよ」
他愛もない話をして、未来を二人で語る。
こんな何気ない日々が愛おしい。
少しだけと祐志に寄り添えば、肩を抱かれて引き寄せられた。当たり前に唇が合わさって、こんなことが当たり前になった未来に感激してしまう。
ふわふわと時間の狭間を漂っているみたいだ。漂って祐志から離れてしまわないように、目の前の祐志にしがみついた。
また、当たり前に服が脱がされて、素肌が触れ合う。
欲望に満ちた目で見つめられて、心と身体が期待に震える。
祐志が酷いことをするなんて想像もつかない。
いつだって優しすぎるぐらいに優しくて、俺が強請るまでくれないのに。
ただ一つ不安なのは、記憶の一部に黒く塗りつぶされたところがある。酷く禍々しくて、いつもは見ないふりをしている。
祐志を感じて満たされながら、自分に問いかける。
なあ俺、何をそんなに怖がっている?
俺はいったい何をしてしまった?
祐志のくれる波に呑まれながら、その熱に励まされながら黒い場所に手を伸ばそうとした。
俺はこれを知らなきゃいけない。欠けて不完全な俺を受け入れてくれる人たちがいる。これが祐志を傷つけることのないように俺がどうにかしなければ……だけど、怖い。
今の幸せをなくしたくない。
「健吾、どうした?」
「は……ぁ?」
祐志が動きを止めて俺を見ている。
いつの間にか涙が溢れていた。だって祐志は後悔しているんじゃないか? 番になることでオメガの心が変化するなら、アルファにもそういうことがあるのかもしれない。
「祐志、好きだよ」
「俺もだよ、健吾」
縋るように囁けば、ほしい答えが返ってくる。
頭の中の黒い場所に鍵をかけて、祐志のくれる夢に溺れていった。
◇
窓から光一とマックスの後ろ姿を見送る祐志の背中がやけに寂しそうだ。
俺もびっくりしたし寂しいけれど、光一が選んだ人なら親といえ文句をつけるのは良くない。そもそも犯罪者でもなければ反対のしようがないから。
「祐志」
「健吾……まさか娘を嫁に出す気持ちを味わうとは思わなかった……」
「二人ともアルファなんだから、どっちがどっちかなんてわからないし、そんなのは二人の問題なんだから邪推するの良くないよ……」
「光一の首に噛まれた跡が見えた」
「……」
眉を下げて泣きそうになっている。ずいぶん久しぶりにこの顔を見るけれど、俺は祐志のこの顔に弱い。
「なんかな、なんか色々もう……」
「祐志……噛んであげようか?」
言ってみたらすごく良い案のように思えてきた。
光一は男でアルファだけどそっち側、ということは俺だってオメガでも男なんだから無しではないはずだ。
「健吾……冗談、だよな?」
「冗談に聞こえる?」
頭を抱えて唸っている祐志が可愛くて愛おしい。心配しなくても今さらそんな欲望は湧かないけれど、肩に手を置いて「屈んで」と囁いた。
びくっと肩を震わせた祐志が諦めたように屈んでくる、その首筋に吸い付いて跡をつけた。噛むのは傷つけそうで怖いから、俺にはこれが精一杯だ。
「噛み方わからないから、とりあえずこれでいいかな」
あからさまにホッとした様子の祐志が、がばっと抱きついてきた。二人でくっついてソファに座る。うん、俺たちはこの形がしっくりくる。
「光一が選んだ人なら大丈夫だよ」
「……うーん」
あんなに小さかった子供たちもパートナーを選ぶ年頃になった。
相手がオメガでもない男性ということには少し驚いたけれど、光一が嬉しそうだったからそれでいい。そもそも、恋愛の機微なんて俺には難しい。とっくに成人した光一が成人男性とどんな時を過ごして、その先も一緒に生きたいと願ったのかはわからなくていい。
って、昨夜も祐志と話し合ったんだけどな。
「祐志」
「分かってるけど……頭で理解するのと感情が違って困ってる。光一は抜けてるから騙されてるんじゃないか」
「光一はそこまで抜けてないよ」
「だけど光一だぞ」
「あのねぇ……」
祐志がこんなに子煩悩だとは思わなかった。
それなら、と言い方を変えてみた。
「祐志、祐志には俺がいるよ。子供でも光一のことばかり心配されると寂しい」
「俺だって……」
感激したように押し倒してくる祐志を受け止めながら、頭の片隅に「めでたしめでたし」という言葉が浮かんだ。
環境の違いと新しい人間関係についていくのがやっとだったけれど、二年目に少し慣れてきて、一般教養でよく顔を合わせる人間がわかってきた。
一般教養の講義は大教室で行われる。扇型に六ブロックに机が配置されている大教室は、百人が余裕で収容できる教室だ。俺は前から三列目の左端に座ることが多い。彼は中央寄りの右側。
いつのまにか、いつも視界の端に入ってきていた。お互い前を向いているから目が合うことはない。言葉すら交わしたこともない。ただ彼がそこにいるというだけで、頑張ろうという気持ちになった。
初めは、その気持ちに名前なんてついていなかった。
年末の試験前になると、ノートを貸してくれという普段見ない顔がわらわらと湧き出す。
ちょうど昨日見たドキュメンタリーの、ハイエナが餌を探し回っている姿によく似ている。いつもは友人が盾になってくれるけれど、今日は風邪でいないから誰かに捕まる前に帰ろうとしたけれど。
「なぁ、えーっと、サトウだっけ? ノート貸してよ」
ハイエナに見つかってしまった。名前すらまともに覚えていないのに良く借りようと思うな。その積極性だけはすごいと思う。
迷いもせずに断ろうとしたとき、ハイエナの肩を抱いた奴がいた。
「よ、久しぶり。ノート貸して欲しいなら俺のコピーやるよ」
「ミヤ? おまえのノートじゃ」
「何だよ、俺めっちゃ真面目だよ?」
ハイエナは抵抗しようとしていたが、ずるずると引っ張っていかれた。それはあの右側にいる彼だった。
べつに言葉を交わしたことがある訳じゃない。今日のは偶然かもしれない。助けてくれた……なんてことになるのだろうか。
気になったけれど、他のハイエナに見つからないように、さっさと家に帰った。心臓がやけにうるさい。
俺はオメガだ。忘れかけていたことを思い出す。
ミヤと呼ばれた彼は、たぶんアルファだ。アルファとオメガなら自然で……ありなのか?
いや、無理だ。顔だってまともに見たことがない。名前だってお互いに知らない。
頭に上った熱を冷ますために顔を洗った。洗ったあとの顔を見てみたけれど、野暮ったい髪型、野暮ったい服。あんな垢抜けた「ミヤ」の隣には立とうなんて、許されるはずがない。
始まってもいないのに、何を俺は夢見ているんだろう。恥ずかしい。
アルファの友人にはこんな気持ちになったことはない。だから、俺がオメガとして誰かを好きになるなんてないのかと思っていた。
試験が終わり三回生になれば、一般教養はもう取る必要がない。もう、彼と顔を合わせることもないのだろうか。顔なんて合わせないほうが、俺にとってはいいのかもしれない。
想うだけで終わらせなければならない、こんな恋なんて。
「健吾、新しくできた共通講義棟の上の学食行こうぜ。景色すごいから」
「新しいなら高いんじゃない?」
「一回ぐらい行っとこうって」
引っ張っていかれた学食は、高台の上に建てられた高層ビルということもあって街が一望できた。いちおう学食扱いだから、普通の店よりは安いけれど学食としては少し高い。
一回来ればじゅうぶんかと思った時、窓際に彼を見つけた。
友人に囲まれて楽しそうに笑う彼。
後ろには青空が広がって、反射するものもないのにキラキラと光っているように見えた。
「景色いいし、メニューも結構好きだな」
「……うん、そうだね」
「健吾が気に入った!?」
「俺だって、たまには贅沢もいいと思うよ」
「良いよ、良い! 新しいとこって楽しいよな」
新しいもの好きな友人が楽しそうにメニューの話をする。流行りものが取り入れられていて良いらしい。
友人の話に相槌を打ちながら、窓の外を指差して笑う彼を眺めた。
◇
そろそろ子供達もレストランに慣れていって良いだろうと、義両親が個室のあるレストランで結婚十年目を祝ってくれた。
デザートとドリンクが運ばれて、祐志と子供達は早々に食べ終えてしまった。子供達は高層階の景色に夢中で、祐志が見えるものが何なのか教えてあげている。
窓際で外を指差して笑う祐志を見ていて、ふと蘇る記憶があった。
あの時の「ミヤ」だ。
どうして忘れていたんだろう。記憶のない間にどんな奇跡が起きていたのか。
榊原じゃなければ人生もっと違っただろうかと思っていたけれど、榊原じゃなければ祐志と縁談なんてなかっただろう。
「健吾君? 疲れちゃった?」
「いえ、なんか、幸せだと思って……」
祐志と子供達を見て思っていたことがポロリと漏れてしまう。本当のことだけど少し恥ずかしいと思って義母を見れば、感激した様子だ。
「私も健吾君がお嫁さんで幸せよ」
「ありがとうございます」
優しい義母は記憶を失った俺をずっと気遣ってくれている。裕志に悪いところがあったら叱ってあげるから言いなさい、子供達の世話に疲れたらいつでも預けに来て、と温かな笑顔とともに言う。
「俺もお義母さんが祐志のお母さんで良かったです」
「あら、うふふふ、嬉しいわ」
年齢を重ねても少女のような優しい雰囲気を纏った義母と、祐志がそのまま年齢を重ねたような義父。
その中に俺も混ぜてもらって、穏やかな時間が流れている。なんで、忘れてしまったんだろう。
言葉すら交わしたこともなく、ただすれ違うだけの時間に思いを募らせていた。オメガとアルファといっても、立場が違いすぎて叶わない夢だと思っていた。
それが、こんな奇跡のような未来が待っているなんて。
窓際で祐志が光一を抱えて落とす真似をすると、啓一が祐志の足にしがみついて噛み付いた。悲鳴を上げて光一を下ろす祐志を、子供達が二人がかりで容赦なく攻撃している。
大学時代の祐志はいかにも今風な学生で、子供が好きなんて感じではなかった。俺だってまさか自分が出産するなんて思ってもみなかった。
今は当たり前になった子供達と祐志と俺の生活が、ふわふわと夢の中のように感じてしまう。雲の上の幸せだ。
「私はベータで、お父さんとの間に子供ができたのは奇跡みたいなものだと思っていてね、祐志を甘やかしてしまったって反省していたの」
義母がぽつりと呟いた。義母がオメガでないとは知らなかったから、少し驚いてしまった。アルファとベータでは、男女であっても子供はできにくい。
「祐志と一緒になってくれてありがとう」
「え、いや、俺の、ほうこそ……、その、榊原の家が無理言ったのに」
「無理を言ったのは宮園だよ。祐志が健吾君が好きだと言うから、無理して縁を繋いで貰ったんだ」
「え!? そ、そうなんですか。あの! 嬉しい……です」
義父の言葉に驚いた。義両親がいなければ盛大に自分の頬を抓りたい気分だ。夢を見過ぎていないだろうか。祐志が俺を?
「オメガは噛まれてしまうと、どうしても番のアルファに情が湧く。君が祐志を思ってくれる気持ちが、そういうものじゃないかと私達は不安なんだ」
「それはないです。俺はずっと抑制剤で抑えてきて、発情期の記憶がないまま無くなって、あまり本能に振り回される感覚がわかりません。だから自分がオメガっていうのも少し自信がないんです。でも、祐志のことは、番になる前から……きっとその、嫌いではなくて……」
俺がオメガの本能で祐志に盲目的に従っているわけではないことを伝えたかった。それがなんだか告白みたいになってしまって恥ずかしくなってくる。
最後までまともに言えずに、茹で蛸になって絶句してしまっていると、義母が優しく声をかけてくれた。
「あらあら、ごめんなさいね。冷たいジュースもあるわよ」
「この店の冷たいデザートも美味しいんだ。まだ席の時間は余裕があるから、追加しようか」
断る間もなく追加注文のために給仕を呼ぶ義両親に慌てていると、子供達が飛んできて「アイス!」と叫んだ。
「まだ食べるのか。凄いな……」
「男の子だもの。祐志もこれぐらいの時はびっくりするぐらい良く食べたのよ」
祐志が座りながら呟くのに義母が笑って答えている。
「啓一も光一もそっくりで楽しいわね」
「そうですね」
啓一と光一の隣に祐志が座って、その隣に義父が座っていると成長記録のようで面白い。みんな、よく似ている。
「二人とも、どんな人を連れてくるのかしらね。楽しみだわ。祐志も早かったし、私も元気なうちにひ孫が見られるかもしれないと思うとウキウキしちゃうわね」
「そんな、二人ともまだ十歳だし」
「あと十年なんてあっという間よ」
そうだ、色々あったけれど過ぎてしまえばあっという間に思える。あんなに小さかった子供達も、もう俺の胸まで身長がある。食べる量は俺よりも多い。
身長を抜かされるのも数年の話だろう。
食事のあと、子供達は義両親に旅行に連れて行ってもらった。義両親は事あるごとに俺と祐志が二人の時間をとれるようにしてくれる。子供達もいつものことに慣れていて、祖父母との旅行を楽しみにしている。
記憶をなくした俺が突然祐志を受け付けられなくなるのではないかと心配しているんだろうか。
思い出しても思い出せなくても、きっと俺は祐志が好きだ。何故なら、今思い出したからといって心は変わらないからだ。ただ、嬉しく思う気持ちがひとつ増えただけ。
「健吾、どうした?」
「ん、啓一や光一はどんな大人になるんだろうね。外見は祐志によく似てるけど」
「啓一は心配いらないだろうなぁ。問題は光一だ。あいつマザコンの気があるから、健吾に似た人を連れてくらならいいけど、変なのに騙されないと良いけど」
「俺? 光一はテレビ観てても悪役とか好きみたいだから全然違うよ」
他愛もない話をして、未来を二人で語る。
こんな何気ない日々が愛おしい。
少しだけと祐志に寄り添えば、肩を抱かれて引き寄せられた。当たり前に唇が合わさって、こんなことが当たり前になった未来に感激してしまう。
ふわふわと時間の狭間を漂っているみたいだ。漂って祐志から離れてしまわないように、目の前の祐志にしがみついた。
また、当たり前に服が脱がされて、素肌が触れ合う。
欲望に満ちた目で見つめられて、心と身体が期待に震える。
祐志が酷いことをするなんて想像もつかない。
いつだって優しすぎるぐらいに優しくて、俺が強請るまでくれないのに。
ただ一つ不安なのは、記憶の一部に黒く塗りつぶされたところがある。酷く禍々しくて、いつもは見ないふりをしている。
祐志を感じて満たされながら、自分に問いかける。
なあ俺、何をそんなに怖がっている?
俺はいったい何をしてしまった?
祐志のくれる波に呑まれながら、その熱に励まされながら黒い場所に手を伸ばそうとした。
俺はこれを知らなきゃいけない。欠けて不完全な俺を受け入れてくれる人たちがいる。これが祐志を傷つけることのないように俺がどうにかしなければ……だけど、怖い。
今の幸せをなくしたくない。
「健吾、どうした?」
「は……ぁ?」
祐志が動きを止めて俺を見ている。
いつの間にか涙が溢れていた。だって祐志は後悔しているんじゃないか? 番になることでオメガの心が変化するなら、アルファにもそういうことがあるのかもしれない。
「祐志、好きだよ」
「俺もだよ、健吾」
縋るように囁けば、ほしい答えが返ってくる。
頭の中の黒い場所に鍵をかけて、祐志のくれる夢に溺れていった。
◇
窓から光一とマックスの後ろ姿を見送る祐志の背中がやけに寂しそうだ。
俺もびっくりしたし寂しいけれど、光一が選んだ人なら親といえ文句をつけるのは良くない。そもそも犯罪者でもなければ反対のしようがないから。
「祐志」
「健吾……まさか娘を嫁に出す気持ちを味わうとは思わなかった……」
「二人ともアルファなんだから、どっちがどっちかなんてわからないし、そんなのは二人の問題なんだから邪推するの良くないよ……」
「光一の首に噛まれた跡が見えた」
「……」
眉を下げて泣きそうになっている。ずいぶん久しぶりにこの顔を見るけれど、俺は祐志のこの顔に弱い。
「なんかな、なんか色々もう……」
「祐志……噛んであげようか?」
言ってみたらすごく良い案のように思えてきた。
光一は男でアルファだけどそっち側、ということは俺だってオメガでも男なんだから無しではないはずだ。
「健吾……冗談、だよな?」
「冗談に聞こえる?」
頭を抱えて唸っている祐志が可愛くて愛おしい。心配しなくても今さらそんな欲望は湧かないけれど、肩に手を置いて「屈んで」と囁いた。
びくっと肩を震わせた祐志が諦めたように屈んでくる、その首筋に吸い付いて跡をつけた。噛むのは傷つけそうで怖いから、俺にはこれが精一杯だ。
「噛み方わからないから、とりあえずこれでいいかな」
あからさまにホッとした様子の祐志が、がばっと抱きついてきた。二人でくっついてソファに座る。うん、俺たちはこの形がしっくりくる。
「光一が選んだ人なら大丈夫だよ」
「……うーん」
あんなに小さかった子供たちもパートナーを選ぶ年頃になった。
相手がオメガでもない男性ということには少し驚いたけれど、光一が嬉しそうだったからそれでいい。そもそも、恋愛の機微なんて俺には難しい。とっくに成人した光一が成人男性とどんな時を過ごして、その先も一緒に生きたいと願ったのかはわからなくていい。
って、昨夜も祐志と話し合ったんだけどな。
「祐志」
「分かってるけど……頭で理解するのと感情が違って困ってる。光一は抜けてるから騙されてるんじゃないか」
「光一はそこまで抜けてないよ」
「だけど光一だぞ」
「あのねぇ……」
祐志がこんなに子煩悩だとは思わなかった。
それなら、と言い方を変えてみた。
「祐志、祐志には俺がいるよ。子供でも光一のことばかり心配されると寂しい」
「俺だって……」
感激したように押し倒してくる祐志を受け止めながら、頭の片隅に「めでたしめでたし」という言葉が浮かんだ。
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コンプレックスの固まりの男が、αとΩにデロデロに甘やかされて幸せになるお話です。
小説家になろうにも掲載。
運命じゃない人
万里
BL
旭は、7年間連れ添った相手から突然別れを告げられる。「運命の番に出会ったんだ」と語る彼の言葉は、旭の心を深く傷つけた。積み重ねた日々も未来の約束も、その一言で崩れ去り、番を解消される。残された部屋には彼の痕跡はなく、孤独と喪失感だけが残った。
理解しようと努めるも、涙は止まらず、食事も眠りもままならない。やがて「番に捨てられたΩは死ぬ」という言葉が頭を支配し、旭は絶望の中で自らの手首を切る。意識が遠のき、次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。
【完結】選ばれない僕の生きる道
谷絵 ちぐり
BL
三度、婚約解消された僕。
選ばれない僕が幸せを選ぶ話。
※地名などは架空(と作者が思ってる)のものです
※設定は独自のものです
※Rシーンを追加した加筆修正版をムーンライトノベルズに掲載しています。
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ありがとうございます!
思い入れの大きな作品なので、寂しいと言って頂けて嬉しいです。
これからも頑張ります!
ありがとうございます。二人とも若くて視野狭窄気味なところから、成長していく感じが伝わってたら嬉しいです。
健吾父は、運命のつがいと出会うんだけど、かなり辛い思い出になっちゃって、男Ω大嫌いになった設定があった気がします(うろ覚え) だからといって子供虐めて良い理由にはなりませんね!
彼の初めてだったらどうしよう とかのちょっとピントのずれた所が、好きです。シリアスエロになる、かと思えば、違うし、そういう所も凄く好き。
シリアスになりきるのはハードルが高くて、つい気が抜けるところを入れてしまいますが、好きと言って頂けて嬉しいです!!