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第五章 はじまりの終わり

向き合う

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 開け放した窓から入ってきた風が、カーテンと爽太のカーディガンを揺らす。私はのっそりとベッドから起き上がり、カーテンレールに吊るしたカーディガンに触れた。
 ……よし、乾いてる。
 昨日二次会から帰ってすぐに洗って一晩私の部屋に干し、お昼過ぎまでこうして風通しのいいところで乾かしたのだからもう大丈夫。
 そのまま窓の外から下を覗き込み、私以外の車がないことを確認して窓とカーテンを閉める。
 親が帰ってくる前に出発しないと面倒なことになる。私は鍵をシャツワンピースのポケットに入れ、スマホと財布と化粧ポーチを入れた通勤用のバッグを肩に掛け、最低限のお泊まりグッズを詰めたバッグと爽太のカーディガンを手にして静かに部屋を出た。
 玄関の外には秋晴れの空が広がっている。ヤッチとくーちゃんが婚姻届を提出する日に雨なんて似合わないから、晴れてくれて本当によかった。
 からっとした空気の中を突っ切るようにして車へ向かい、トランクにバッグを二つとも入れて運転席に座る。カーディガンだけは着いたらすぐに持ち出せるように助手席に置いておくことにした。
 シートベルトをしてエンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させる。大通りの交通量を見る限り、何事もなければ三十分で着けそうだ。
 目的地は、爽太の家。
 信号待ちのタイミングで、点けっぱなしだったラジオの音声が爽太の好きな地元プロ野球チームの情報コーナーに切り替わる。私は即座にラジオを切り、信号が青になったのを確認してアクセルを踏んだ。



 いつもと同じように青い車の前に自分の車を停め、できるだけドアの音を立てないようにしながら降りる。何気なく見た爽太の車のシートは運転席以外全て倒されていて、昨日コントラバスを載せた時のままなのだと一目でわかった。
 手にカーディガンだけを持ち、玄関の前でチャイムを鳴らす。
 反応がない。しばらく待ってもう一回押してみるけれどやっぱり出てこない。
 私はポケットを探り、この家の合鍵を取り出した。雫型のチャームが、光を反射してきらりと瞬く。
 連絡なしで来たのも、爽太に知られずに家に入るためにこの鍵を使うのも今日が初めてだ。知りたくないことを知らないままでいられるよう、それはやめておこうと決めていた。
 でも、一番知りたくなかったことはもう知っている。
 広い玄関にあるのはスニーカーが一足と、昨日爽太が履いていた革靴だ。誰かが、というか女が来てる様子は私がこの家にお邪魔するようになってから一度もない。『他の女連れ込まない』という私からのリクエストを、爽太はちゃんと守ってくれている。
 コントラバスの音が小さく響く中、私は来客用のスリッパに履き替えて歩き出す。玄関を上がってすぐ、左側の襖を開ければ防音室に篭ってコントラバスを弾く爽太の背中が見えるようになる。
 ……あ、『白鳥』だ。久しぶりに聴くけどやっぱりいい曲。
 サンサーンスの『白鳥』をコントラバス用に編曲したこれはレッスンの課題曲で、夏頃によく聴かせてもらった。水面下での努力を外に見せない爽太に『白鳥』なんて明らかに狙った選曲だろうと思ったのが少し懐かしい。
 見せないのは、それだけじゃなかったけど。
 音が止んだところで私は防音室のドアをノックした。振り返った爽太が慌てて立ちあがろうとする前に部屋に入り、「おじゃましてます」と告げる。
 爽太が、さっき慌てていたとは思えないくらい落ち着いた笑みを浮かべた。
 
「いらっしゃい。反応ないからちょっと心配してた」
「ごめんね、寝てて気づかなかった」

 私はとっさに嘘をつく。お昼前くらいからメッセージや着信が入っていたけれど、どうせ会いに来るのに話す必要はないと思って通知だけ見てそのままにしておいたのだ。
 
「昨日頑張ったもんな。いつから聴いてた?」
「ついさっき。今日も練習?」

 ほぼフルコーラス聴いたのも秘密にしておく。
 微笑んだまま、爽太はコントラバスを優しく撫でた。

「そろそろ先生に返さなきゃいけないから、今のうちにたくさん弾いておこうと思って」
「そっか」

 あれだけ弾けるようになったのに惜しいな、と思うけれど、もう機会がないのだから仕方ない。弾き納め、私にとっては聴き納め、ということになりそう。

「邪魔してごめんね」
「そろそろ休憩しようと思ってたからちょうどよかった。美波、何飲む?」
「その前に、さ。ちょっと話があるんだけど、いい?」

 防音室を出ようとした爽太が、ほんの少し不思議そうな顔をする。

「いいよ。座って話そうか」

 言いながら爽太は防音室を出てリビングへ行ってしまう。……本当は、玄関に近い和室こっちで話したかったんだけどな。
 爽太の後に続いてリビングへ移動し、ソファの空いたスペースに腰を降ろす。
 隣にいる爽太の顔を見ないようにしながら、私は小さく息を吸って口を開いた。

「爽太、さ。好きな子いるでしょ」
「目の前にいるけど」

 ほんの少し笑いを含んだ声が右側から聞こえてくる。いつもだったら私が『なにそれ』と返してそのままじゃれ合いになったり、遅めの時間だったら二階に行く雰囲気になったりするけれど、今日は。

「違うよ」
「……美波?」
「爽太の好きな子、私じゃないよね」
「美波」

 普段より少し低くて鋭い声で名前を呼ばれる。

「ごめん、美波が何のこと話してるのかよくわからない。俺が好きなのは」
「――昔の私、でしょ」

 爽太が息を呑む気配がした。
 私は身体半分だけを右に向け、爽太の目をまっすぐ見て告げる。

「爽太が好きなのは昔の……高校の頃の、私だよ」
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