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第二章 探り合い
おじゃましてます
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玄関を出たとたん、春のやわらかくてあったかい空気が頬に触れた。その空気の中を突っ切るようにして車へ向かい、運転席に座って助手席にバッグを置く。
よく晴れた四月の午後。陽ざしでほどよく温められた車の中はとても心地よくて、このまま昼寝したいくらい。
でも、昼寝の前にまずは運転。
シートベルトをしてエンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させる。道の端からこっちに向かって手を振っている近所のおばあちゃんを引っかけないように注意しながら大通りに出て、周囲の流れに合わせてアクセルを踏み込む。道は空いてるから目的地まではだいたい三十分。約束の時間ぴったりに着けそうだ。
目的地は、爽太の家。
無事に異動希望が通って四月から地元勤務になった爽太は、実家には戻らずに一人暮らしをしている。荷物が片付いたから遊びに、というか泊まりにおいで、とお招きを受けたので今夜は爽太の家で過ごすのだ。
読み通りの時間に到着して爽太の車の前に自分の車を停める。バッグを持って車から降り、玄関の前でチャイムを鳴らす。
反応がない。しばらく待ってもう一回押してみるけれどやっぱり出てこない。
……時間、まちがえたかな。
スマホを取り出して昨日のやりとりを確認してみる。二時半頃、という私のメッセージに対して『了解』という返事が来ているから時間は合ってる。
いい天気だから昼寝でもしてる?
それとも、もしかして。
嫌な想像をしてしまって、寒くもないのに背中がすうっと冷たくなる。あの時みたいに扉を蹴り飛ばしたい衝動に駆られたけれどさすがにそれは我慢して、代わりにドアのハンドルに手をかけてみる。
ハンドルは何の抵抗もなく下がった。ということは、鍵はかかっていない。
開ける? それとも開けない?
――開ける一択でしょう。
音を立てないようにそっとドアを開ける。広い玄関にあるのはスニーカーが一足。誰かが、というか女が来てる様子は今のところ見られない。
私はふうっと息を吐き出した。心に余裕ができたとたんに五感がクリアになってきて、今まで聞こえていなかった音の存在にもようやく気づく。
玄関の鍵をかけてから靴を脱いでスニーカーの隣に並べる。ラックからスリッパを拝借して、足音を立てないようにしながら一歩、二歩と足を進めて静かに襖を開ける。
やわらかい低音がさっきよりも大きくなった。邪魔をしないように、と思ったけれど聞こえてくる音に違和感があって、思わず和室の中に設置された小部屋のドアをノックしてしまう。
……返事はない。音は止まない。つまり、聞こえてない。
音が途切れたタイミングでもう一度ノックをしてドアをそっと開け、爽太に声をかける。
「おじゃましてます」
コントラバスの練習中だった爽太が振り返り、弓を持ったままの右手を顔の前に持ってきた。ごめん、のポーズだ。
「ごめん、もうそんな時間だった? 全然気づかなかった」
「やっぱり、弾いてる時ってチャイム聞こえない?」
「聞こえないな。……美波、ドア閉めて」
言われるままに部屋の中に足を踏み入れてドアを閉める。それを確認してから爽太が弓を構える。
小部屋の中に音が満ちた。高校三年の夏に部活を引退してから初めて聞く、耳とおなかにしっかり響く低音。これが部屋の外で聞く分にはあの程度の音量に抑えられるのだから、防音室の効果は絶大だ。
弓がゆっくりと弦から離れ、残響が消えたところで爽太がふうっと息を吐いた。
「こんな感じだったから」
「あー」
これじゃ外の音が聞こえるわけがない。気づかないのは当たり前だった。
「だから、美波が来たら入ってもらえるように鍵開けておいた」
「……不用心じゃない?」
「まあね。音、どのくらい外に聞こえてた?」
「あんまりわかんなかったよ」
他のことに気を取られて聞こえてなかっただけ、とも言えるけどそれは秘密にしておく。
「じゃあ、夜中とか早朝とかだけ避ければ練習しても大丈夫そうかな」
「たぶん」
私の返事に、爽太がほっとしたような顔を見せた。
「ほんと、じいちゃんとばあちゃんのおかげで助かった」
据え置き型の防音室があるこの一軒家は爽太のお母さんの実家だ。おばあちゃんが亡くなり、おじいちゃんも施設で暮らすことになったため去年から空き家になっていたらしい。
爽太は今、ここで一人暮らしをしている。
二月の同期会の一番のビッグニュースは私と爽太がつきあいだしたことではなく、ヤッチとくーちゃんの結婚が決まったという話だった。高一の頃から十年間、喧嘩も仲直りもたくさん繰り返してきたふたりがついに結婚することがとても嬉しかったから。
『胡桃があの五重奏また聴きたいってずっと言ってるから、余興と胡桃へのサプライズってことで一緒に演ってくれないかな』
くーちゃんの願いを叶えてあげたいというヤッチの壮大な計画にも、全員が迷うことなく賛同した。
そんなわけで五重奏の再結成が決まったけれど、正直なところ一番のネックは爽太だった。
まず、高校時代は部の楽器を使っていたから自前の楽器がない。楽器を入手したとしてもかなり大きい音が出るから練習場所も考えないといけない。引退してから全くコントラバスを触っていない爽太は、休みの日にカラオケボックスとかで練習するだけじゃなくて平日にもある程度の練習時間を取る必要がある。
練習場所と時間を確保するために、爽太は防音室のあるこの家に住まわせてほしいとおじいちゃんに頼んだ。
よく晴れた四月の午後。陽ざしでほどよく温められた車の中はとても心地よくて、このまま昼寝したいくらい。
でも、昼寝の前にまずは運転。
シートベルトをしてエンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させる。道の端からこっちに向かって手を振っている近所のおばあちゃんを引っかけないように注意しながら大通りに出て、周囲の流れに合わせてアクセルを踏み込む。道は空いてるから目的地まではだいたい三十分。約束の時間ぴったりに着けそうだ。
目的地は、爽太の家。
無事に異動希望が通って四月から地元勤務になった爽太は、実家には戻らずに一人暮らしをしている。荷物が片付いたから遊びに、というか泊まりにおいで、とお招きを受けたので今夜は爽太の家で過ごすのだ。
読み通りの時間に到着して爽太の車の前に自分の車を停める。バッグを持って車から降り、玄関の前でチャイムを鳴らす。
反応がない。しばらく待ってもう一回押してみるけれどやっぱり出てこない。
……時間、まちがえたかな。
スマホを取り出して昨日のやりとりを確認してみる。二時半頃、という私のメッセージに対して『了解』という返事が来ているから時間は合ってる。
いい天気だから昼寝でもしてる?
それとも、もしかして。
嫌な想像をしてしまって、寒くもないのに背中がすうっと冷たくなる。あの時みたいに扉を蹴り飛ばしたい衝動に駆られたけれどさすがにそれは我慢して、代わりにドアのハンドルに手をかけてみる。
ハンドルは何の抵抗もなく下がった。ということは、鍵はかかっていない。
開ける? それとも開けない?
――開ける一択でしょう。
音を立てないようにそっとドアを開ける。広い玄関にあるのはスニーカーが一足。誰かが、というか女が来てる様子は今のところ見られない。
私はふうっと息を吐き出した。心に余裕ができたとたんに五感がクリアになってきて、今まで聞こえていなかった音の存在にもようやく気づく。
玄関の鍵をかけてから靴を脱いでスニーカーの隣に並べる。ラックからスリッパを拝借して、足音を立てないようにしながら一歩、二歩と足を進めて静かに襖を開ける。
やわらかい低音がさっきよりも大きくなった。邪魔をしないように、と思ったけれど聞こえてくる音に違和感があって、思わず和室の中に設置された小部屋のドアをノックしてしまう。
……返事はない。音は止まない。つまり、聞こえてない。
音が途切れたタイミングでもう一度ノックをしてドアをそっと開け、爽太に声をかける。
「おじゃましてます」
コントラバスの練習中だった爽太が振り返り、弓を持ったままの右手を顔の前に持ってきた。ごめん、のポーズだ。
「ごめん、もうそんな時間だった? 全然気づかなかった」
「やっぱり、弾いてる時ってチャイム聞こえない?」
「聞こえないな。……美波、ドア閉めて」
言われるままに部屋の中に足を踏み入れてドアを閉める。それを確認してから爽太が弓を構える。
小部屋の中に音が満ちた。高校三年の夏に部活を引退してから初めて聞く、耳とおなかにしっかり響く低音。これが部屋の外で聞く分にはあの程度の音量に抑えられるのだから、防音室の効果は絶大だ。
弓がゆっくりと弦から離れ、残響が消えたところで爽太がふうっと息を吐いた。
「こんな感じだったから」
「あー」
これじゃ外の音が聞こえるわけがない。気づかないのは当たり前だった。
「だから、美波が来たら入ってもらえるように鍵開けておいた」
「……不用心じゃない?」
「まあね。音、どのくらい外に聞こえてた?」
「あんまりわかんなかったよ」
他のことに気を取られて聞こえてなかっただけ、とも言えるけどそれは秘密にしておく。
「じゃあ、夜中とか早朝とかだけ避ければ練習しても大丈夫そうかな」
「たぶん」
私の返事に、爽太がほっとしたような顔を見せた。
「ほんと、じいちゃんとばあちゃんのおかげで助かった」
据え置き型の防音室があるこの一軒家は爽太のお母さんの実家だ。おばあちゃんが亡くなり、おじいちゃんも施設で暮らすことになったため去年から空き家になっていたらしい。
爽太は今、ここで一人暮らしをしている。
二月の同期会の一番のビッグニュースは私と爽太がつきあいだしたことではなく、ヤッチとくーちゃんの結婚が決まったという話だった。高一の頃から十年間、喧嘩も仲直りもたくさん繰り返してきたふたりがついに結婚することがとても嬉しかったから。
『胡桃があの五重奏また聴きたいってずっと言ってるから、余興と胡桃へのサプライズってことで一緒に演ってくれないかな』
くーちゃんの願いを叶えてあげたいというヤッチの壮大な計画にも、全員が迷うことなく賛同した。
そんなわけで五重奏の再結成が決まったけれど、正直なところ一番のネックは爽太だった。
まず、高校時代は部の楽器を使っていたから自前の楽器がない。楽器を入手したとしてもかなり大きい音が出るから練習場所も考えないといけない。引退してから全くコントラバスを触っていない爽太は、休みの日にカラオケボックスとかで練習するだけじゃなくて平日にもある程度の練習時間を取る必要がある。
練習場所と時間を確保するために、爽太は防音室のあるこの家に住まわせてほしいとおじいちゃんに頼んだ。
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