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壱.患
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隼矢斗は左隣に座る華耶にちらと目を向けた。
初めて出会った十の頃の華耶はふくふくとした頬を持っていた。今は少しまるみを減らしたその頬には、十六という年頃の娘らしく紅が差されている。見知らぬ姿に胸がざわりとした。
指先は、どうだろうか。
隼矢斗のまなざしは今度は華耶の膝の上で行儀よく揃えられた手へと向かう。短く切り揃えられた爪の先が深緑に染まっているのが見え、隼矢斗の胸のざわつきが次第に凪いでいく。
華耶のありようは、きっとあの頃と変わらない。
そう胸の内で呟き、隼矢斗は気取られないよう小さく息を吐く。その拍子に緊張ですっかり忘れていた鳩尾の痛みが戻ってきたが、服の飾り紐を直す体でそこを軽く撫でるようにして気を紛らわす。
今はまだ駄目だ。華耶が邸を離れるまで、いやせめて、おれが部屋へ戻るまでは保たせなければ。
「それでは」
声を掛けられて隼矢斗は体を左へと向けて座り直す。隼矢斗と同じように右を向いて座り直した華耶と真正面から目が合った。
そのまなざしに浮かぶ哀しみの色に気づかないほど隼矢斗は愚かではない。それでも、もう決まってしまったことだ。
華耶が床に手をつき、深々と頭を下げた。
「西の里一の姫、華耶はこれより隼矢斗さまの許嫁となります。精一杯努めさせていただきます」
「中つ里一の子、隼矢斗はこれより華耶を許嫁とし、里の繁栄のため力を尽くす。よろしく頼むぞ、華耶」
決まり通りの隼矢斗の言葉に華耶が面を上げて静かに微笑む。
鳩尾がぎりりと痛んだが、どうにか表情は動かさずに済んだはずだった。
どうにか華耶が帰るまで持ち堪えた隼矢斗は、人払いを済ませた寝所で体を丸め鳩尾の痛みに耐えていた。
このところ、痛みが以前より強くなっている気がする。
ここ中つ里の長の一の子として生まれ、快活すぎるが故に怪我をすることはままあれど病気ひとつしなかった隼矢斗。そんな隼矢斗の体に異変が現れたのはふた月程前だった。
食べたものを戻す。腹を下す。鳩尾が痛む。
隼矢斗の立場で食うに困って傷んだものを口にするなどありえないし、次代の里長である隼矢斗に毒を盛るような愚か者はこの里にはいない。
毎日のことではないにしろ度々繰り返されるそれのせいで隼矢斗はじわじわと弱っていき、困り果てた父は、代々薬師が長を務める西の里の娘を隼矢斗の嫁に貰いたいと申し入れたそうだ。
「断れば中つ里にしか生えていない貴重な薬草を渡さない、と言ってやったのだ。西の里長は面食らって一の姫を出すと申し出てきた。里長の子の中でもいっとう優れた薬師とのことだ」
寝込んでいる隼矢斗の枕元に座った父が笑う。
「これで薬師が手に入る。おまえも子が成せるようになる。中つ里は安泰だ」
ありがとうございます、と短く返すと父は満足したような顔をして寝所から出ていった。
父の何事にも強引すぎるやり方を隼矢斗はよく思っていなかった。そのため近頃では父と対立することもあったし、今回の件も事前に聞かされていれば隼矢斗は受け入れなかっただろう。薬草を使って脅しをかけるなど卑怯だ、と言いたかった。
そう思う反面、父がそれほどまでに隼矢斗を失いたくないのかと思うと嬉しくもあった。対立こそすれど親としての情は失われてはいなかったらしい。
……華耶には申し訳ないけれど。
西の里の一の姫、華耶のことを隼矢斗は思い浮かべる。
十の頃に一度だけ顔を合わせたことのある華耶。まるい顔に屈託のない笑みを浮かべていたその娘が、脅される形で病人である自分の嫁になるのが不憫でならなかった。
華耶を娶るという話が持ち上がってからずっと、隼矢斗の頭にはひとつの考えがあった。
おれの病が癒えたら離縁してやるべきなのだろうな。
その思いは久方ぶりに華耶を見ていっそう強くなった。年頃の娘になった華耶は、許嫁となることを誓うあの場で哀しみを帯びたまなざしを隼矢斗に向けてきたのだ。
……華耶には好いた男がいるのかもしれないな。
華耶からそんな思いを向けられる男のことを隼矢斗はほんの少しだけ妬ましく感じた。それと同時に華耶への申し訳なさが募っていく。
隼矢斗は心を決めた。
華耶との祝言は里と里との関係が絡む以上もう止められない。けれど、本当の意味で夫婦にはならない。
体の具合が悪いとかどうとか理由をつけて夫婦の契りを先延ばしにし、おれの病が癒えたら清いままで西の里へ戻してやろう。
父は文句を言うかもしれないが、そもそもおれを死なせないための縁組なのだからおれが無事ならばそれで問題はない。病を癒やしたその手腕を褒め称え、西の里で薬師として一層研鑽を積むのが華耶のためだと言えば華耶が誹りを受けることはないはずだ。
隼矢斗は嫁入り前の支度として時々中つ里にやって来るようになった華耶にわざと冷たく当たるようにした。その度に華耶の美しい顔が翳り、隼矢斗の鳩尾も痛んでいった。
自分の痛みを華耶に気取られないように取り繕っていた隼矢斗は、華耶の双の眼が時折何かを探るように細められていることに気づかなかった。
初めて出会った十の頃の華耶はふくふくとした頬を持っていた。今は少しまるみを減らしたその頬には、十六という年頃の娘らしく紅が差されている。見知らぬ姿に胸がざわりとした。
指先は、どうだろうか。
隼矢斗のまなざしは今度は華耶の膝の上で行儀よく揃えられた手へと向かう。短く切り揃えられた爪の先が深緑に染まっているのが見え、隼矢斗の胸のざわつきが次第に凪いでいく。
華耶のありようは、きっとあの頃と変わらない。
そう胸の内で呟き、隼矢斗は気取られないよう小さく息を吐く。その拍子に緊張ですっかり忘れていた鳩尾の痛みが戻ってきたが、服の飾り紐を直す体でそこを軽く撫でるようにして気を紛らわす。
今はまだ駄目だ。華耶が邸を離れるまで、いやせめて、おれが部屋へ戻るまでは保たせなければ。
「それでは」
声を掛けられて隼矢斗は体を左へと向けて座り直す。隼矢斗と同じように右を向いて座り直した華耶と真正面から目が合った。
そのまなざしに浮かぶ哀しみの色に気づかないほど隼矢斗は愚かではない。それでも、もう決まってしまったことだ。
華耶が床に手をつき、深々と頭を下げた。
「西の里一の姫、華耶はこれより隼矢斗さまの許嫁となります。精一杯努めさせていただきます」
「中つ里一の子、隼矢斗はこれより華耶を許嫁とし、里の繁栄のため力を尽くす。よろしく頼むぞ、華耶」
決まり通りの隼矢斗の言葉に華耶が面を上げて静かに微笑む。
鳩尾がぎりりと痛んだが、どうにか表情は動かさずに済んだはずだった。
どうにか華耶が帰るまで持ち堪えた隼矢斗は、人払いを済ませた寝所で体を丸め鳩尾の痛みに耐えていた。
このところ、痛みが以前より強くなっている気がする。
ここ中つ里の長の一の子として生まれ、快活すぎるが故に怪我をすることはままあれど病気ひとつしなかった隼矢斗。そんな隼矢斗の体に異変が現れたのはふた月程前だった。
食べたものを戻す。腹を下す。鳩尾が痛む。
隼矢斗の立場で食うに困って傷んだものを口にするなどありえないし、次代の里長である隼矢斗に毒を盛るような愚か者はこの里にはいない。
毎日のことではないにしろ度々繰り返されるそれのせいで隼矢斗はじわじわと弱っていき、困り果てた父は、代々薬師が長を務める西の里の娘を隼矢斗の嫁に貰いたいと申し入れたそうだ。
「断れば中つ里にしか生えていない貴重な薬草を渡さない、と言ってやったのだ。西の里長は面食らって一の姫を出すと申し出てきた。里長の子の中でもいっとう優れた薬師とのことだ」
寝込んでいる隼矢斗の枕元に座った父が笑う。
「これで薬師が手に入る。おまえも子が成せるようになる。中つ里は安泰だ」
ありがとうございます、と短く返すと父は満足したような顔をして寝所から出ていった。
父の何事にも強引すぎるやり方を隼矢斗はよく思っていなかった。そのため近頃では父と対立することもあったし、今回の件も事前に聞かされていれば隼矢斗は受け入れなかっただろう。薬草を使って脅しをかけるなど卑怯だ、と言いたかった。
そう思う反面、父がそれほどまでに隼矢斗を失いたくないのかと思うと嬉しくもあった。対立こそすれど親としての情は失われてはいなかったらしい。
……華耶には申し訳ないけれど。
西の里の一の姫、華耶のことを隼矢斗は思い浮かべる。
十の頃に一度だけ顔を合わせたことのある華耶。まるい顔に屈託のない笑みを浮かべていたその娘が、脅される形で病人である自分の嫁になるのが不憫でならなかった。
華耶を娶るという話が持ち上がってからずっと、隼矢斗の頭にはひとつの考えがあった。
おれの病が癒えたら離縁してやるべきなのだろうな。
その思いは久方ぶりに華耶を見ていっそう強くなった。年頃の娘になった華耶は、許嫁となることを誓うあの場で哀しみを帯びたまなざしを隼矢斗に向けてきたのだ。
……華耶には好いた男がいるのかもしれないな。
華耶からそんな思いを向けられる男のことを隼矢斗はほんの少しだけ妬ましく感じた。それと同時に華耶への申し訳なさが募っていく。
隼矢斗は心を決めた。
華耶との祝言は里と里との関係が絡む以上もう止められない。けれど、本当の意味で夫婦にはならない。
体の具合が悪いとかどうとか理由をつけて夫婦の契りを先延ばしにし、おれの病が癒えたら清いままで西の里へ戻してやろう。
父は文句を言うかもしれないが、そもそもおれを死なせないための縁組なのだからおれが無事ならばそれで問題はない。病を癒やしたその手腕を褒め称え、西の里で薬師として一層研鑽を積むのが華耶のためだと言えば華耶が誹りを受けることはないはずだ。
隼矢斗は嫁入り前の支度として時々中つ里にやって来るようになった華耶にわざと冷たく当たるようにした。その度に華耶の美しい顔が翳り、隼矢斗の鳩尾も痛んでいった。
自分の痛みを華耶に気取られないように取り繕っていた隼矢斗は、華耶の双の眼が時折何かを探るように細められていることに気づかなかった。
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