三上さんはメモをとる

歩く魚

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三上さんとメモ帳

いつも通りの日常

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 優しくぬるい、春の風を感じていた。
 空を見上げると、桜の花びらが宙を舞い、淡い香りが鼻腔をくすぐる。
 たとえ傷を負いまくって、どこかの怪物のようにつぎはぎだらけになった心でさえ、今日は幸せを感じてしまうだろう。
 そんな爽やかな昼下がりに俺は――一年ぶりに、全力ダッシュを決めていた。

「はぁ……はぁ……」
 
 駆ける――なんてカッコいい言葉は似合わないな。肩にかけたトートバッグが走るたびに揺れ、分厚い教科書が脇腹に突き刺さってイライラする。
 それに加えて口の中は乾き、凄まじい疲労感から、俺の下半身が乳酸に支配されるのも時間の問題だと理解できる。
「大学入ってから全然運動しなくなったよな」
「マジそれな? ちょっとスポーツやるだけでキツいわぁ」
 とかなんとか、運動部上がりの陽キャの言うそれと同じレベルではない。
 こちとら中高六年間帰宅部なのだ。
 そんなフィジカル貧弱男が、果たして目的地まで満足にたどり着くことができるだろうか?
 否である。
 ちなみに、俺が高校で学んだ中で覚えているのは反語だけだ。
「文系よ、安心しろ。算数と数学で覚えておくのは四則混合だけで良い」とは誰の名言だったか。俺だった。
 話が逸れてしまったが、ともかく俺は、走っては歩き、息を整え、また走るというダサすぎるマラソン姿を、あられもなく披露しながら大学へと向かっていた。

「よし、なんとか講義に間に合いそうだ……」

 10分ほど走ったせいで、口の中は血の味でいっぱいだ。
 大学の隣にある大きな公園で読書に熱中していたせいで、危うく講義に遅れるところだった。
 まったく、いくらSFの新刊に夢中だったとはいえ、二年生にもなってこんな理由で評価を落としてたまるものか。
 四年生までに単位を残していると地獄だと、ネットか何かで見た気がする。
 他の生徒が就活に集中するなか、自分だけ毎日のように大学に通わないといけないんだとか。
 その上、友人たちが企業面接の結果や次回への対策を話している間、肩身の狭い思いをするらしい。
 デリカシーのない友達に「お前まだ就活終わってないの?」と煽られようものなら、大学生活特有の薄っぺらい友情など簡単に壊れてしまうだろう。
 まぁ、元から大学を卒業すれば自動的に消え去ってしまう、儚い命な気がするが。
 その真偽はどうであれ、個人的に、単位を落としてばかりだと借金しているみたいで居心地が悪い。
 どうせ借金するなら、毎月、毎年きちんと同じ量を返していきたいと思わないか?
 そもそも借金なんてしたくないけどな。
 とりとめのないことを考えながらゆっくりと呼吸を整えつつ、かつ早足で進む。

 校門にさしかかると、俺と同じように、中途半端に不真面目な生徒が大勢歩いているのが見えた。
 友達と話しながら、浮ついたような過剰なリアクションをとる生徒。見ていて楽しいものではないが、これぞまさしく「大学生」という感じのテンションである。
 それに対して一人で歩いている生徒は、皆一様にイヤホンを装着し、スマホを見ながら歩いている。その背中はどんよりとしていて覇気はなく、大学生活を満喫しているようにもまた、見えない。
 そして、自分もこの「どんより」の中の一人として、誰かに認識されていると思うと、少し憂鬱な気分になる。
 他人から見た自分なんて、想像以上にちっぽけなものだとしてもだ。

「はぁ……はぁ……ふぅ」

 ようやく呼吸が整ってきた。
 群れになって校門をくぐり、多くの生徒と同じく、前方にある大きな校舎――ではなく、その脇にある小さく白い校舎に入った。
 講義開始まで10分ほど。入口から教場が近いということもあり、あまり混み合ってはいない。
 俺は、エレベーターに並ぶ生徒を尻目に、悠々と階段に向かう。
 当然、文明の利器に頼る方が体力的には楽だろう。
 しかし、わざわざ自分が乗れるまで順番を待つことの方が、俺には面倒に思える。
 とはいえ、ここからの階段はまた大変だ……。
 教場は四階。鎮まりかけている心臓が、再び荒ぶること間違いなし。
 そう考えながら、遥かなる旅路へ一歩二歩と踏み出したあたりで、やけに嬉しそうな声が耳に入る。

「やべ、席取られちゃってるよなぁ~」
「前の方座りたくないし、サボっちゃう?」
「いいねぇ! たまにはありっしょ! 今日はオールで飲みまくろうぜ!」
「「うぇ~~~い!!」」

 声の主が誰だかは分からないが、二日に一回はこんな感じの会話を耳にしているな。
 たまにはと言いつつ、おそらく彼らは日頃、講義を受け流す技術だけを学んでいるに違いない。
 そして、試験期間に地獄をみる……というわけでもなく、その時期になると「情報通」の友人から、過去の試験問題をいただくのだろう。
 勉強だけしていると、後々思い出に浸れるような中身がなくなる。
 しかし、遊んでばっかりいても、なんやかんやで思い出も単位も得られてしまう。
 悲しい哉。これが社会のルール……もとい、陽キャの必勝法というやつなのだ。
 当然、就活の際も「思い出」を駆使して勝ち残る。
 残念ながら、大学デビューもしなかったし、仮にチャレンジしても失敗していたであろう俺は、講義をサボることは滅多にしない。
 苦笑しながら階段を上り、真面目に教場へ急ぐ。

「……人が多くて進みにくいな……」

 目的の階にやっと辿り着いたが、目の前にはいつも通り、凄まじい数の生徒の群れ。
 俺の通う大学は、いわゆるマンモス大学というやつだ。
 一年から四年まで、計一万人以上の生徒が在籍している。
 種類が多いとはいえ、各学部ごとの生徒数も相当なものだ。
 そのため、自然と一つ一つの教場は大きくなり、生徒達が溢れて席に座れないなんてことはないのだが……。
 知識の習得を目的に講義を受ける生徒なんて半分もいないだろう。
 喧騒をかきわけ、やっとのことで教場に入ると、内職に勤しみたい生徒の心が全面に押し出され、教場の後ろの席ばかりが埋まっており、歪な分布図を形成している。
 ゆうに二百人を超える生徒が席についてスマホに集中したり、机によっかかったりして談笑している。
 俺も含めて、正直みんな似たような人間に見えてしまうな。
 一年生の時はこの光景に圧倒されたものだが、慣れてしまえば何とも思わない。

「さてと……すいません、ちょっと通ります」

 人が溜まっている入口付近を避け、少し奥へと入る。
 かくいう俺も真面目半分、不真面目半分といったところだが、生憎と後ろの席争奪戦に参加したりはしない。
 仮に授業開始が近くとも、遅刻しないようにさえ気をつければ、余裕を持って教場へ向かうことができる。
 
 何故なら、俺には「定位置」があるからだ。

 
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