ディラン・ヴァイパー

歩く魚

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 翌朝、昼過ぎに目を覚ましたディランは身支度を整えて家を出た。
 基本的に昼前にはギルドに到着し、寝坊しがちな冒険者のためにクエストボードに依頼書を貼ったり、ウィンドモアの周辺を軽く見回っていたが、今日は少し寝過ぎてしまった。
 ギルドの人々も同じように余分に夢の中にいるのは分かっていたし、見回りなんていうのは散歩がわりにやっているだけだから、誰も心配していない。
 しかし、今日は何故だか胸騒ぎがする。ギルドを視界にとらえた時、ディランは漠然と感じ取った。

 冒険者は常に命をかける仕事だ。男たちは昼であっても酒を飲むし、声はデカい。
 ギルドの外でも笑い声が聞き取れるはずなのに、今日はやけに静かだ。昨晩は年に数回というほどのどんちゃん騒ぎだったが、それでもとっくに目覚めている頃。
 
 ディランが扉に手をかけようとした時、中から女性の荒々しい声が聞こえた。入っても良いものかと少しばかり思案していると、反対側に扉が開き、ピンク髪の女性が飛び出してきた。
 ボンフォルトの娘、オリビアだ。父親に似て竹を割ったような性格をしていて、特に目元がそっくりだ。
 そして、その目元には涙が浮かんでいた。

 オリビアはディランを一瞥すると、そのまま走り去っていく。
 今にも口を閉じようとしている扉を引き留めて、ディランは中に入った。

「オリビ――ディランか……すまないな、目覚めを悪くしちまって」

 声の主はボンフォルトだった。一瞬、オリビアが戻ってきたのだと思ったのだろう。ディランは力なく項垂れる大男に歩み寄ると、背中を軽く叩いてやる。

「ありがとう。お前は寡黙な男だが、優しさに溢れているな」
「一体何があったんだ? 君たちが喧嘩するなんて――」
「喧嘩じゃない。俺が悪いんだ」

 ディランは首を傾げる。
 娘を溺愛しているボンフォルトだが、今日の様子はいつもと違う。

「いや、ボンフォルトだけが悪いんじゃない。俺たち全員さ」
「そうだ、あの子に非はないんだよ」

 一人目がベテラン冒険者のドリン、二人目はグレイグだった。
 ドリンはディランより少し年上だが、後退することを知らない長い茶髪を蓄えている。双剣を用いた目にも止まらぬ斬撃は、街の外の冒険者にもよく知られている。
 グレイグはボンフォルトと同じく、ウィンドモアが誇る強力な冒険者。背丈は百六十くらいで細身だが、彼の持つ杖はディランに匹敵するサイズで、そこから天地を裂くほどの魔術を繰り出すことができる。
 この二人が揃って自分を悪者だというのはどういう状況だろう。
 ディランが不思議に思っていると、ボンフォルトが口を開いた。

「……フォルモンド家、ウィンドモアを代々治めている名家ってやつだよ」
「名家だって? 忌々しい――」

 ボンフォルトの言うことを楽しみにしている冒険者たちでも、今日ばかりは反発せずにはいられない。

「ドラゴン退治に役立ったからって、何やってもいいのかよ!」
「落ち着けよ、声を荒げたって何も変わらないだろ」
「お前はそれでいいのかよ! お前の親父さんはドラゴンに殺されたが、あの人ならきっと、エマちゃんが犠牲になるくらいなら喜んで命を差し出したはずだ! 俺だってこんなこと言いたくないんだ、クソっ!」

 一人がギルドの扉を思い切り開いて出ていった。

「ディランはまだ会ったことがないからな。フォルモンド家ってのは――」

 フォルモンド家は、ウィンドモアという街が他国に負けない力を得るのに強く貢献した家だという。
 同じような立場の貴族は他にも存在するが、前大戦――勇者が魔王を討った戦い――において、ウィンドモアを魔族の侵攻から守るために多くの物資を調達したのがフォルモンド家なのだ。
 特に、ウィンドモアのギルドは全てと言って良いほどフォルモンドの恩恵を受け、戦争による勝利と同時に繁栄を手にした。
 ギルドの傘下にいる者たちにとって、フォルモンドは絶対に逆らえない存在だった。

「――上がダメだと、革命なりなんなりで倒されるものじゃないのか?」
「普通はな。でも、フォルモンドがおかしくなったのは今の党首の代からなんだよ」

 現当主のウィリアム・フォルモンドは気性が荒く、気に入らないことがあるとすぐに部下に命じて「躾け」を行っていた。
 それに対してウィンドモアの住民は反感を覚えていたが、彼に息子――つまり次期当主となるホープが産まれてからは落ち着いていたらしい。
 彼が十五になった時、ウィリアムとその妻、そしてホープは一部の部下を引き連れて、地方にある別荘に移り住んだ。
 そして今日、彼らは自らの領地であるウィンドモアに戻ってきたのだ。
 ギルドを訪ねてきたウィリアム・ホープ親子に対して、ギルドマスターは歓迎の意を示した。ウィリアムの気性はとっくに治っていたと思っていたし、ホープも二十五と分別のつく年頃。
 しかし、ギルドマスターに告げられたのは――、

「――お前の娘はよく育った。ホープの性処理道具として使ってやろう、だとよ」

 ボンフォルトは拳を強く握りしめた。

「真っ当に育ったと思ってた息子は、父親の悪いところを継いだとんだクソガキだったってことだ!」

 父親が息子に影響を与えたのか、息子に自分の血が表れるのを見て元に戻ったのか。
 どちらかはわからないが、少なくとも一方が一方を止めるような関係ではない。

「あいつらはゴミだが兵力はとてつもない。――豪傑のボンフォルトと呼ばれる俺が、オリビアのことを考えて何もできないだなんて笑っちまうだろ」

 ここにいる者たちは皆、自分の家族を守りたくて手が出せないのだ。
 個人としての力が優れていても、軍隊を相手にするのは分が悪い。圧倒的な力を持っていようが、守りながら戦うのは難しい。

 その時、ギルドの扉が勢いよく開け放たれた。向こう見ずな若者の心臓の鼓動のような、感情に身を任せた行動。
 肩で息をしている、セルゲイが立っていた。

 ・

「僕か行きます! 通してください!」
「どうしてお前が二人を助けられるって言うんだ! お前は俺たちの息子同然で、お前も俺たちを家族だと思ってるのはわかってる。でも、それだけじゃ無理なこともある!」

 ギルドに向かう途中でオリビアと出会ったのだろう。セルゲイは事情を聞き、鬼のような形相で飛び込んできた。自分の見た目など気にしていないのだろう、金髪が獅子のように逆立っている。
 だが、ギルドに集まっている面々――ボンフォルトやグレイグを含めた全員――がそれを止める。
 ウィリアムは護衛を何人か連れていたし、彼ら自身もそれなりに腕が立つ。たかだかセルゲイの一人が行ったところで、返り討ちにされるのが目に見えていた。
 しかし、それでは気が収まらない。

「家族を人質に取るなんてクソッタレのやることだ! 僕は、僕は――」
「――そうだ、クソッタレのやることだ」

 しばらく声を発していなかった人物――ディランに対して視線が集まる。
 ディランが汚い言葉を使うのを聞くのは、誰もが初めてだった。

「幸運なことに、ぼくには家族がいない。だからぼくが様子を見てくるよ」
「待ってくださいディランさん、僕も連れて――」
「もちろん。でも、君はぼくを見ててほしい。決して手を出さず、君にできることを考えるんだ」

 セルゲイ以外の全員が、その言葉が「生贄」を意味するものだと理解していた。
 ディランは自らの命を犠牲にして、どうにかしてウィリアムが気を治めてくれないかと、そうしようとしている。
 だがセルゲイは理解していない。本当にディランが彼を頼っていると、そう受け取っている。

「分かりました。早く行かないと」

 セルゲイは階段に向けて一歩踏み出す。ディランはギルドの面々に顔を向けると、「大丈夫」だと言うふうに、少しだけ口の端を吊り上げた。

 ・

「わ、私の娘など、大した教育もしておりませんので、かえってホープ様の評判を下げてしまう可能性があるのではと思うのですが……」

 自分の娘を卑下するなんて、なんて屈辱なのだろう。
 ギルドマスターは今すぐにでも目の前の鼻につく顔を殴ってやりたかったが、娘の命を考えて必死にこらえている。

「そうは言うけどね――」

 ギルドの二階にはギルドマスターの私室、エマの部屋、執務室、そして応接室があった。
 このギルドには歴史があると祖父、そして父に何度も聞かされていた。
 だから自分の部屋の老朽化が進んでいても、応接室だけは、時代に合わせたアップデートをしていた。自分の一族が取るに足らない品性しか持ち合わせていないと思われるのが嫌だったからだ。
 しかし、見てみろ。自分が選び抜いたソファには、自分の娘を道具として使い捨てようとしている下劣な貴族が座っていて、息子の方は高級なローテーブルに足を乗せている。
 自分の隣に座っているエマが縮こまっている。恐怖で相手の目を見ることすらできていない。
 できることなら今すぐこいつらをブチ殺して、そうでなくとも家族のような間柄のギルドの面々と共に袋叩きにしてやりたいと考えていたが、自分も合わせて全員が家族を失うことを恐れていた。
 こいつらにはその力があり、躊躇がなかった。
 だから、自分にできることは、どうにかして愛娘を乏して興味を失ってもらうことだけ。

「そもそも他人の評価なんて必要ないとは思わないかね? 私たち一族がウィンドモアにとって最も貢献したと言うのは変えようのない事実だし、ギルドなんていう前時代の異物になりつつある団体の、大したことない娘を使い潰したところで評判になどならんよ」

 それにしても、どうしてホープの方はこんなにもふてぶてしく育ってしまったのか?
 最後に彼らを見送った時、彼が十五の時には利発そうな少年だったのに。血というのはその人の素質まで黒く塗りつぶしてしまうのか、それとも外面が良かったのか。
 ともかく、ホープがウィリアムに似てしまったということは、彼の靴の裏にびっしりと書いてあった。

「君の娘は――なんと言ったか」
「エマです」

 応接室の壁際に控えている護衛のうち、銀色の髪をした男が答えた。熱い胸板を堂々と張った中年の男だったが、指の先から肘まで覆う独特の鎧を身につけているのが目につく。
 ウィリアムたちを含め、どの護衛よりも鋭い視線で周囲を警戒している。
 立ち姿だけで、ギルドの中でもずば抜けた強さを誇るボンフォルトに匹敵する――もしやそれ以上の使い手なのかもしれないと、彼は背筋が凍るようだった。

「エマは外見だけならなかなかじゃないか。仮に息子が飽きたとしても、うちには大勢男がいる。どれも遺伝子は優秀で、ちょっとばかし気は荒いが、エマを上手く使うことができるぞ? どうだ、出来の悪そうな子供は君に――」

 たとえ自分が無惨に殺されたとしても、ここでウィリアムを殴らなければ死んでいるのと同じだ。
 自分の娘の名誉のために、マスターは命を捨てようと覚悟した。自分が殺されれば、もしかしたらギルドメンバーが敵討ちをしてくれるかもしれない。同じように、他のギルドとの連合軍になれば――勝てる確率が0から0.01くらいには上がる。
 マスターは勢いよく立ち上がると、両足に力を入れて命をかけた一撃を放とうと拳を握る。

「なんだ?」

 突然立ち上がったマスターに、小馬鹿にしたようにホープが声をかける。

「座りっぱなしだと腰が痛くなるようだな。お前の娘は座らせはしないから安心しろ。ずっと立ったままで――」
「お前を二度と立てなくしてやる」

 握った拳を、右腕を何よりも素早くホープにぶつけようとした。
 だが、それが勢いを持つ前に固まった。

「やめておけ」

 自分を止めたのが誰か、マスターは視線を向けるより先に理解した。腕に伝わる冷たい金属の感覚。腕鎧の男だ。

「俺も、昔はそれなりに強かった覚えがあるんだが」

 嘘ではない。マスター職を継ぐ前に冒険者をやっていた自分がどのくらいの強さであるか。
 ボンフォルトなどには見劣りするが、それでも貴族の護衛に取り立てられてもおかしくないはずだ。
 老いているとはいえ、そんな自分の攻撃を察知し、音もなく近付き止めたこの男は一体何者なのか。
 だが、それを知ることはできない。なぜなら――、

「お、おいっ! こいつは俺殴ろうとしたな! 今すぐ殺せ!」
「彼は足を滑らせただけかもしれません」
「そんなわけがあるか、殺せ!」

 引き攣った笑みの男の命令によって、死ぬからだ。
 腕鎧の男は小さくため息をつくと、自分にだけ聞こえる音量で「すまない」と囁き、右の拳をマスターの心臓目掛けて振るった。
 恐怖よりも父親への心配が勝った。娘の悲痛な叫びが部屋に響いた。
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