上 下
51 / 87

51 農園主の息子

しおりを挟む
 腹をくくれジルヴェスター。男だろ。失敗しても金を貰わなきゃいいだけだ。成功すれば金貨二千枚。……二千枚。二千枚かあ。でかいなあ。

 本当に成功すれば。先日から温めていた俺のあの妄想が現実的なものになる。ただの夢想に過ぎなかったアレに手が届く。クラースさんが良いと言えば、という前提がある話だが。

 俺は、自分の頬を全力でベチンと叩いた。日傘の薄い影が揺れ、後ろの視線が強くなった気がしたが気づかないフリをした。この機会を逃してなるものか。やらぬ後悔よりやる後悔。

 息を吸って強く吐き出し、元気に踊る白い虫に勢いよく手を伸ばした。お前の意識はどこにある。今は何を見て感じている。樹液が止まり、木が眠りにつく時期以外はいつ何時でも取り憑いて、季節外れの雪を降らせる白魔虫。

 今年の実は問題ない。しかし一日でも早く始末せねば、来年の収穫に響く。一個体は小さくとも、集団になればその分木が時間をかけて、確実に命を絶たれてしまう。



「これはお前のための木じゃねえんだよ。……眠れ、眠れ。天は両手を広げている。死の眠りは温かい。夜がお前を待っている。お前の夢はそこにある。甘い水はそこにある」

 今日は前年と比べて特別気温が高い日で、日差しがとても強かったそうだ。早々に日傘持ち役が交代し、また交代し。二時間ほど経った中で、計八人がそれを勤めてくれた。遮るものがなにもない広大な農園である。数十分間立っているだけで辛かっただろうと思う。

 俺はずっとそれらのことに気がつかないままだった。体内を巡る蜘蛛の糸のような細い冷気に集中していた。それはやがて縫い糸ほどの太さになり、毛糸になり、縄になり。増えたな、と思っているとするり、するりと腕を這い、また蜘蛛の糸の太さになって手のひらから吐き出されてゆく。

 あれほど気持ち悪かった手中の虫が、なぜか我が子のように思えてきたその瞬間、冷気が手の指先からどこかへピンと繋がった感触がした。それはみるみるうちに外へ、外へと広がっていった。

 広がる糸の先端は、針の先のようだった。糸をかけ、引き出して、また糸をかけて引き出して。それは徐々に勢いがつき、高速で繰り返されてゆく。やがてそれらは一枚の、気が遠くなるほど薄く繊細で大きなレース編みへと変化した。目で見ているわけではないが、そんな気がしていた。

 文章を書いているときのように、周りの音は遠くなっていた。温度もなく光もないその空間で、細く冷たい糸しか見えず感じない時を過ごしていた。



 距離感覚も失ったころに針の先端がどうにも見えにくくなり、一旦止めるかと思った瞬間、収穫が目前である黒曜葡萄の艷やかな一房が突然目に飛び込んで、一気に現実へ引き戻された。

「……あの、多分限界です。今日は戻ります……あれ? いつ交代されたんですか」
「私で八人目になりますよ、呪術師様。何も飲まれていないようですし、移動の前にこれをどうぞ。少々ぬるくなっていますがね。ああ、急に立ち上がってはいけません。どうぞこちらへお掛けください」

 言われずとも俺は今、まともに立てなくなっていた。覚えていないがべったり座っていたらしく、あちこち泥だらけである。近くには小さな椅子が置いてあった。これを使うようにと声をかけたのだが、俺は反応すらしなかったらしい。

「ご挨拶が遅れました。僕はここの農園主の息子のオスカーです。父が無理を言ったようで申し訳ない。でも来てくださって助かりました」
「いえ、まだ効果の保証はできませんし、上手くやれるかどうかもまだわかりません。ところで凄く美味しいですね、これ」

「我が農園自慢の葡萄ジュースです。お酒はさすがに良くないかなと。でも良い葡萄ですからとっても美味しいでしょう?……ほら、効果はちゃんと出ていますよ。報酬があれで足りるかどうかの方が僕は心配ですね」

 息子だと言った彼はシャベルを取り出し、服が汚れることも厭わずにざくざくと土を掘り返していた。本当に大丈夫なのかと心配したが、杞憂だった。

 あれだけ元気に踊り狂っていたあの白い虫たちは、見る限りの全てがぷつりと眠ったように止まっていた。ただ寝てるだけだろうと何度も突いてみたのだが、微動だにしなかった。

 とりあえずは成功した、先は長いけど、とため息をついたその瞬間、ドッと眠気が襲ってきた。彼に肩を貸してもらい、ふらつきながら馬車へと戻った。

 きちんと座ったはずなのだが一瞬で寝ていたらしく、気がついたら農園主の息子にもたれかかるどころか、膝枕状態で眠っていた。

 泥のついた服で申し訳ない、図々しすぎるだろ俺、と思ってはいたものの身体が言うことを聞こうとしない。来たときは驚きのあまり見上げてしまったエッカルトさんの立派な屋敷に出戻ってからは、うつらうつらとしながらも軽食のパンなどをいくつかいただき、なぜか洗ってやると言ってきかない彼の申し出をお断りしてバスルームに入っていった。

 途中何度も落ちかけたがどうにかこうにか身支度を終え、適当に歯を磨き、やけにサラサラとした涼しい生地の夜着を借りてその日は眠った。

 こんこんと眠り続けた。泥のように、どころではない。夢すらひとつも見なかった。気がついたら朝方だったが、日付は二日飛んでいた。



「あなたはまだお若いのに、凄腕の呪術師様なんですね。うちの畑の五分の一はすでに駆除が済んでいたようですよ」
「五分の一かあ。あの広さじゃ仕方ないかもしれませんが。まだまだだなあと思います」

「うちの朝食はいかがですか? この玉子料理、とっても美味しいでしょう。あなたのために取り寄せた勢養鶏の卵ですよ。ここにあるパンは全て初春小麦を使って焼いてもらいました。小麦の風味と甘みがとても強いでしょう?」
「わざわざありがとうございます。でも俺は単に依頼を受けた側なんで、お客さん扱いなんて──」

「とんでもない。うちの救世主様なんですから。お若いのに凄いですよね。ちなみにもうご婚約などはお済みですか?」
「え? いえ、特にはないですね。というか、まだ完全に終わってませんから。調子に乗ってしまうので、その辺で勘弁してください」

「そうですか! それは良かった。ちなみに僕は次期当主なんですが、正直言うと葡萄農園の主ってのはね、儲かるんですよ。とってもね。学友はみんな将来安泰じゃないか、なんて言ってくれるくらいにね。覚えることはその分とても多いですが、生き物相手の商売ですから真面目にやるつもりです」
「あ、はい。すごいんですね、頑張ってください。今回成功すればの話になりますが、害虫が出たらまた請け負います」

「あなたがここに居てくださればすぐに対応ができますよね? ジルヴェスターさん、僕と取引をしませんか。あなたは駆け出しの呪術師様、商売というのはどこもそうですが、最初はとても大変でしょう。うちの農園も最初からこんなに広くはなかった。少しずつ拡大して爵位を手に入れるまでに至ったんですよ」
「専属で、というお話ですか。うーん……、その、ありがたいお話ですが、今住んでいる家から離れたくないし、いずれ自分のものにしたいんですよね。だから──」

「じゃあ、その家は僕が買い取りましょう。どうぞあなたに差し上げます。そこは別荘にして、馬車で通えばいいですから。どうですか、うちに来ませんか?」
「その……、ここまではかなり遠いですよね。あまり現実的ではないかなと……」

 雲行きが怪しくなってきたぞ。なんだ、呪術師は珍しいと聞くが、そんなでかい金を支払ってまで欲しくなるものなんだろうか。貴族の考えることはわからん。しかも今回が特別なだけで、お客さんがつかなければどうにもならない水モノ商売。自分で言ってて悲しいが。

「すみません、同居人もいますので持ち帰って検討させてくださ……」
「多少の無理はいたしますよ。あなたに来てもらうためならね。あなたが僕の専属になる日が今からとても楽しみだ」

 何なんだよお前らは。前からずっと思っていたが、呪術師の手っていうのは触り心地がいいのかよ。何かいい匂いでも発してんのか。

 俺はずっと眠っていたので彼の名なんかは忘れたが、この農園主の息子は当然のように俺の手を掬い取り、勝手にキスしてきやがった。

 しかも『僕の専属』って何なんだよ。話が違ってきてるじゃないか。俺になにをやらせるつもりだ。あいつを殺せ、こいつをシメろ、と命令されるんじゃないだろうな。

 もうわけがわからん、と思いながら目線をなんとなく他に向けると、薄く開いた扉の影に人が立っているのが見えた。エッカルトさんである。

 ちょっとお宅の息子さん、朝からおかしなことを言ってますよ、とチクりたい気持ちが湧いてきたが、なんだかこっちも様子がおかしい。

 黒紫色の気配オーラが見える。いや何も見えないはずなのだが、それは扉の隙間からジェラジェラと漏れ出ている。視線の先には息子がいるが……え? なんか変じゃないか? それは我が子に向ける目じゃない気がする。

 悔しさや、言いたいことを必死で抑えているのだ、という暗い感情を丸出しにしてエッカルトさんは自分の息子を睨んでいた。何なんだ、仲が悪いのかよ。いや、そんな感じじゃない気がする。なんか男同士にしかわからない独特の敵意というか、意思表明に見えるというか。

 つつ、と指を指先で撫でられて、ゾワッとして思わず手を離してしまった。一応客先ではあるからマズいと思ったが、息子はにっこり笑っている。友好というか不敵な笑みで。

 この日からは虫との戦いに足して、エッカルトさんとその息子との、いらない戦いの幕が切って落とされた。……農園主って暇なのかなあ。めちゃくちゃいいご身分だなあ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人

こじらせた処女
BL
 幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。 しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。 「風邪をひくことは悪いこと」 社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。 とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。 それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?

平熱が低すぎて、風邪をひいても信じてもらえない男の子の話

こじらせた処女
BL
平熱が35℃前半だから、風邪を引いても37℃を超えなくていつも、サボりだと言われて心が折れてしまう話

熱中症

こじらせた処女
BL
会社で熱中症になってしまった木野瀬 遼(きのせ りょう)(26)は、同居人で恋人でもある八瀬希一(やせ きいち)(29)に迎えに来てもらおうと電話するが…?

咳が苦しくておしっこが言えなかった同居人

こじらせた処女
BL
 過労が祟った菖(あやめ)は、風邪をひいてしまった。症状の中で咳が最もひどく、夜も寝苦しくて起きてしまうほど。 それなのに、元々がリモートワークだったこともあってか、休むことはせず、ベッドの上でパソコンを叩いていた。それに怒った同居人の楓(かえで)はその日一日有給を取り、菖を監視する。咳が止まらない菖にホットレモンを作ったり、背中をさすったりと献身的な世話のお陰で一度長い眠りにつくことができた。 しかし、1時間ほどで目を覚ましてしまう。それは水分をたくさんとったことによる尿意なのだが、咳のせいでなかなか言うことが出来ず、限界に近づいていき…?

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

エレベーターで一緒になった男の子がやけにモジモジしているので

こじらせた処女
BL
 大学生になり、一人暮らしを始めた荒井は、今日も今日とて買い物を済ませて、下宿先のエレベーターを待っていた。そこに偶然居合わせた中学生になりたての男の子。やけにソワソワしていて、我慢しているというのは明白だった。  とてつもなく短いエレベーターの移動時間に繰り広げられる、激しいおしっこダンス。果たして彼は間に合うのだろうか…

(…二度と浮気なんてさせない)

らぷた
BL
「もういい、浮気してやる!!」 愛されてる自信がない受けと、秘密を抱えた攻めのお話。 美形クール攻め×天然受け。 隙間時間にどうぞ!

イケメン大学生にナンパされているようですが、どうやらただのナンパ男ではないようです

市川パナ
BL
会社帰り、突然声をかけてきたイケメン大学生。断ろうにもうまくいかず……

処理中です...