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43 サロン・黒鳶
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「いらっさ……あれー、ジルくんじゃん。飲みに来た系? ママー、ドン・ペルリオン一本いただきましたー。いぇーい」
「おいやめろ。店主さん、俺はお客さんじゃないですから。いや出さないで。要らないですって。ていうかなんでお前がここにいんだよ。大人の社交場じゃなかったのかよ」
「は? ここウチの店なんだけど。宿の仕事と掛け持ちしてんの。ママはあたしのリアルママ。似てんじゃん。見たらわかるっしょ」
「店主さんのが百倍美女だろ。いやいやいや! 店主さん! 俺働きに来た身でお金持ってないんですって!」
「初めてなんだしいいじゃない。美女って言ってくれちゃう君に我がサロンからの、お・も・て・な・しっ。どーん。これ美味しいわよー」
店主にさあ座れ、ほら座れとカウンター席に促されておずおずと腰を下してから口にしたその酒は、確かに美味しいものだった。
花の香りがふわりと鼻腔を通り抜け、果物らしき甘味と酸味が爽やかに広がってゆく。最後に残る彫刻蜂の蜜のような甘味は全くしつこくなく、すうっと消えて、どんな味がしていたかまた確かめたくなり、ついつい杯が進んでしまいそうな味だった。
美味しいです、と素直に感想を述べると店主がにっこり微笑んだ。長い睫毛をふわりと下目蓋に降ろし、目尻を下げたとろけるようなその笑顔。大きな娘がいる歳だが、年齢があまりわからない。
この店主をお目当てに男性客が多数来店するに違いない。きっとそうだろう。彼女目当てに来る彼らをいかにその気にさせてゆくか。俺の占いに目を向けさせるか。それは全て彼女にかかっているのだ。彼女に気に入られなけりゃ話にならない。この一瞬でそう悟った。
「ねージルくん。言っとくけどママはすでに人妻だからね。ヒトノモノでーす!」
「わかってんよ。お前の母さんなんだろ。そりゃそうだ」
「や、結婚自体は五回してるし。今はまだ独身じゃないからってイミ」
「マジすか。すげえモテますね」
「ちょっとメルちゃん、わたしはもう別れる気はないんだからねー。これで終わりにしときたいわよ」
「でもさママー、みんないっつも嫉妬拗らせておかしくなんじゃん。あたし年近いパパとかやだし」
「いや、俺好きな人いるからいい」
「知ってんよ色ボケ地下組織ヤロー。かんぱーい!」
「反社会組織くんでもかっこいいから問題なーい。かんぱーい!」
いや違いますって、と反論してもこの親子の独特のリズムは俺じゃひとつも崩せなかった。酔ってんのかよ、と小娘に聞くと『本日一杯目ー。いぇい』と言ってグラスをひょいと持ち上げた。素面でこれか。なんかもうすでに負けてる気がする。
「改めまして、わたしが店主のジェニファーです。ママって呼んでね! メルヤとお友達だったのねー」
「いえ、お友達ってほどでは。仕事仲間になりますね」
「いやいやウチらマブだから。熱い恋バナし合った仲。ほらー、クラースさんとどこまでイッたか一から十まで教えろし」
「やだ素敵。ママにも教えてー。ねぇねぇ、どっちが上なのぉ?」
「お前が下だったらめっちゃウケる。ホウフクゼッチョウ? ゼツリン? ムズい。わかんね」
「抱腹絶倒だっての。辞書引けよ。何なんスかこの会話。俺働きに来ただけなのに……」
カウンター越しにきゃらきゃらと笑い続ける彼女たちは、『えーいいじゃなーい。いつも強気な男が夜は違う、みたいなぁ』『えーやだー! マジウケるから! あーでもさママー、優しさのキワみの人が夜は男剥き出しでサカるとかめっちゃよくね?』と好き勝手に喋っている。
内容は全て彼女たちの妄想の産物である。事実とは異なっています。
これが女性の怖いところだ。複数になると悪魔になる。俺の怖い顔の威力も瞬時に打ち消されてしまう。あ、そういえば。ママさんから見て、俺がここにいること自体が営業妨害にならないだろうか。
なんか顔と雰囲気の怖い奴がいる。お客さんはきっと楽しく飲めなくなるだろう。客足は遠のいて売り上げに影響する。迷惑をかけてしまうなら、裏で控えておく方が良いか。
「んー、どっちでもいいわよぉ。カウンターに居てくれても裏で控えてくれてても。いつもは男の従業員がすぐ裏にいるのよね。衛兵さん代わりにね。でも辞めて故郷に帰ろうかなーって言ってるからさぁ、入れ代わりでジルくんが来てくれたら助かるなぁ」
「ていうかジルくん別に怖くなくね? 目は鋭いけどそれだけじゃん」
「そうよね。かっこいいわよねぇ。どこかの俳優さんに似てるー」
『こないだ話したあいつのこと? あれよりはまだ怖くね?』『んーん、そのあとに話したあの人のことよ。なんか迫力あってぇ、薄めの唇とかも似てるー』と、また女同士で会話に花を咲かせているのを横目にしながら、俺はひとり考えていた。
大きな特徴のない店が多く立ち並ぶ繁華街。カードを持って周りをキョロキョロ見回していたら、通りすがりのどこかのお店の人が気さくに声をかけてくれたのだ。
街中ではよくあることだ。迷ったのかな、うちの店を探している人かもな、などと思って声をかけてきてくれる人。悪い例だと親切めいて声をかけ、話で気を引いているうちに迷い人の鞄の中の財布を抜き取る泥棒など。
これらはクラースさんなら特に多い。人に道を尋ねられる方になるが。彼が声をかけられる側になることが多いのだ。
道端に俺が出ても、衛兵以外の人に声をかけられることなど一度もなかった。それが今日、初めてそういう親切な人が現れた。突然だ。本当に今までいなかったのだ。そんな人は。
何かがおかしい。何かが変わった。それが自分ではわからなかった。メイドの小娘たちのように、単に肝が座っている人だったのか。ばあちゃんはその辺のことを言わなかった。しまった、ちゃんと確認しておけばよかった。
「常勤の話、真面目に考えておきます。女性だけじゃ絶対危ないと思いますし」
「是非お願いねー。いま夫はアトリエに詰めてるから、機会があったら紹介するわね」
「ママー、パパリンまた嫉妬するからしばらくしてからのほうがいーよ」
「それもそうね。あの人もコドモよねぇ」
「コドモじゃない男なんてこの世に存在するわけねーし。あたし今シンカクを突いた」
『核心を突いた』だろ、と小娘の発言に内心で突っ込みながら、小傷が多く年季を感じる焦げ茶色のカウンターと、そこに置かれたグラスの汗を指で拭いながらしばらく黙って考えていた。
突然の転職話。宿の仕事は体力を使う。ただでさえ呪術というのは体力を削ってしまうのに、このままずっとギリギリまで続けられるかはいささか疑問ではあった。
寿命を削るまでは行かずとも、操作を誤れば次の日に響いてしまう。駄目だ、これは持ち帰りだ。クラースさんに相談しよう。
「いらっしゃいませぇ」
「おー、アーベルさんじゃん。お疲れー。てか見てるだけでめっちゃ暑苦しいんだけど。脱ぎなよ上着ー」
「よう、メルヤ。相変わらずだな、そのざっくばらんな接客がよ。ママはいつ見ても綺麗だね!」
「ありがとねぇ、アーベルさんも男前よぉ。お外に出る仕事は暑くて大変でしょー」
「そりゃあもう暑いよ! 今年はどうなっちゃうのかね! 去年よりはマシだといいけど」
「でも冷やした米酒が美味くなるじゃん。アーベルさんアレめっちゃ好きじゃん」
「めっちゃ好きよ! 大好きよ! でもママに注いでもらわないと僕、美味しく飲めなーい。直接お口に注いでー?」
「ったく手のかかるオッサンだなー。ほら駆けつけ一杯。キンキンだよ!」
「僕ママがいいって言ったよね!? 悔しいっ。でも飲んじゃうっ」
……ばあちゃんから場所はサロン、と聞いたときは、落ち着きのある紳士淑女がしっとりと上品な口調で会話を楽しみ、時には商談にも使うような大人の場所、というのを想像したことを覚えている。
メルヤは大口を開けて笑っているし、ママはおっとりとした上品な口調でガンガン下ネタを飛ばしている。仕立ての良さが一目見ただけでよくわかるスーツを着た、外商かなにかの仕事帰りなのであろう男性客は、まるで中身だけが下町のオヤジにすり替わったようである。
会話を楽しむ、くらいしか合っていない。ゲラゲラという笑い声が響き続けるこの場所で、俺の占いは果たして買ってもらえるのだろうか。あの高級宿屋の仕事はしばらく続けたほうがいいかもしれない。
ママさんに『じゃあ洗いものだけよろしくねぇ』と依頼され、空いた時間は適当に掃除をしたり本を読んだりして過ごしていた。これで今日一日終わるかもなあ、とそのときはぼんやりそう思っていた。
こういう主に酒を扱う店では、よっぽどのことがない限り衛兵を呼ばないそうだ。他のお客さんが醒めてしまうから。お客さん側もそのことはわかっていて、ふざけていても基本的に行儀は良いと。
俺の占いを売る機会は案外早く訪れた。酔客の一人が騒ぎ出したのがきっかけだ。
「おいやめろ。店主さん、俺はお客さんじゃないですから。いや出さないで。要らないですって。ていうかなんでお前がここにいんだよ。大人の社交場じゃなかったのかよ」
「は? ここウチの店なんだけど。宿の仕事と掛け持ちしてんの。ママはあたしのリアルママ。似てんじゃん。見たらわかるっしょ」
「店主さんのが百倍美女だろ。いやいやいや! 店主さん! 俺働きに来た身でお金持ってないんですって!」
「初めてなんだしいいじゃない。美女って言ってくれちゃう君に我がサロンからの、お・も・て・な・しっ。どーん。これ美味しいわよー」
店主にさあ座れ、ほら座れとカウンター席に促されておずおずと腰を下してから口にしたその酒は、確かに美味しいものだった。
花の香りがふわりと鼻腔を通り抜け、果物らしき甘味と酸味が爽やかに広がってゆく。最後に残る彫刻蜂の蜜のような甘味は全くしつこくなく、すうっと消えて、どんな味がしていたかまた確かめたくなり、ついつい杯が進んでしまいそうな味だった。
美味しいです、と素直に感想を述べると店主がにっこり微笑んだ。長い睫毛をふわりと下目蓋に降ろし、目尻を下げたとろけるようなその笑顔。大きな娘がいる歳だが、年齢があまりわからない。
この店主をお目当てに男性客が多数来店するに違いない。きっとそうだろう。彼女目当てに来る彼らをいかにその気にさせてゆくか。俺の占いに目を向けさせるか。それは全て彼女にかかっているのだ。彼女に気に入られなけりゃ話にならない。この一瞬でそう悟った。
「ねージルくん。言っとくけどママはすでに人妻だからね。ヒトノモノでーす!」
「わかってんよ。お前の母さんなんだろ。そりゃそうだ」
「や、結婚自体は五回してるし。今はまだ独身じゃないからってイミ」
「マジすか。すげえモテますね」
「ちょっとメルちゃん、わたしはもう別れる気はないんだからねー。これで終わりにしときたいわよ」
「でもさママー、みんないっつも嫉妬拗らせておかしくなんじゃん。あたし年近いパパとかやだし」
「いや、俺好きな人いるからいい」
「知ってんよ色ボケ地下組織ヤロー。かんぱーい!」
「反社会組織くんでもかっこいいから問題なーい。かんぱーい!」
いや違いますって、と反論してもこの親子の独特のリズムは俺じゃひとつも崩せなかった。酔ってんのかよ、と小娘に聞くと『本日一杯目ー。いぇい』と言ってグラスをひょいと持ち上げた。素面でこれか。なんかもうすでに負けてる気がする。
「改めまして、わたしが店主のジェニファーです。ママって呼んでね! メルヤとお友達だったのねー」
「いえ、お友達ってほどでは。仕事仲間になりますね」
「いやいやウチらマブだから。熱い恋バナし合った仲。ほらー、クラースさんとどこまでイッたか一から十まで教えろし」
「やだ素敵。ママにも教えてー。ねぇねぇ、どっちが上なのぉ?」
「お前が下だったらめっちゃウケる。ホウフクゼッチョウ? ゼツリン? ムズい。わかんね」
「抱腹絶倒だっての。辞書引けよ。何なんスかこの会話。俺働きに来ただけなのに……」
カウンター越しにきゃらきゃらと笑い続ける彼女たちは、『えーいいじゃなーい。いつも強気な男が夜は違う、みたいなぁ』『えーやだー! マジウケるから! あーでもさママー、優しさのキワみの人が夜は男剥き出しでサカるとかめっちゃよくね?』と好き勝手に喋っている。
内容は全て彼女たちの妄想の産物である。事実とは異なっています。
これが女性の怖いところだ。複数になると悪魔になる。俺の怖い顔の威力も瞬時に打ち消されてしまう。あ、そういえば。ママさんから見て、俺がここにいること自体が営業妨害にならないだろうか。
なんか顔と雰囲気の怖い奴がいる。お客さんはきっと楽しく飲めなくなるだろう。客足は遠のいて売り上げに影響する。迷惑をかけてしまうなら、裏で控えておく方が良いか。
「んー、どっちでもいいわよぉ。カウンターに居てくれても裏で控えてくれてても。いつもは男の従業員がすぐ裏にいるのよね。衛兵さん代わりにね。でも辞めて故郷に帰ろうかなーって言ってるからさぁ、入れ代わりでジルくんが来てくれたら助かるなぁ」
「ていうかジルくん別に怖くなくね? 目は鋭いけどそれだけじゃん」
「そうよね。かっこいいわよねぇ。どこかの俳優さんに似てるー」
『こないだ話したあいつのこと? あれよりはまだ怖くね?』『んーん、そのあとに話したあの人のことよ。なんか迫力あってぇ、薄めの唇とかも似てるー』と、また女同士で会話に花を咲かせているのを横目にしながら、俺はひとり考えていた。
大きな特徴のない店が多く立ち並ぶ繁華街。カードを持って周りをキョロキョロ見回していたら、通りすがりのどこかのお店の人が気さくに声をかけてくれたのだ。
街中ではよくあることだ。迷ったのかな、うちの店を探している人かもな、などと思って声をかけてきてくれる人。悪い例だと親切めいて声をかけ、話で気を引いているうちに迷い人の鞄の中の財布を抜き取る泥棒など。
これらはクラースさんなら特に多い。人に道を尋ねられる方になるが。彼が声をかけられる側になることが多いのだ。
道端に俺が出ても、衛兵以外の人に声をかけられることなど一度もなかった。それが今日、初めてそういう親切な人が現れた。突然だ。本当に今までいなかったのだ。そんな人は。
何かがおかしい。何かが変わった。それが自分ではわからなかった。メイドの小娘たちのように、単に肝が座っている人だったのか。ばあちゃんはその辺のことを言わなかった。しまった、ちゃんと確認しておけばよかった。
「常勤の話、真面目に考えておきます。女性だけじゃ絶対危ないと思いますし」
「是非お願いねー。いま夫はアトリエに詰めてるから、機会があったら紹介するわね」
「ママー、パパリンまた嫉妬するからしばらくしてからのほうがいーよ」
「それもそうね。あの人もコドモよねぇ」
「コドモじゃない男なんてこの世に存在するわけねーし。あたし今シンカクを突いた」
『核心を突いた』だろ、と小娘の発言に内心で突っ込みながら、小傷が多く年季を感じる焦げ茶色のカウンターと、そこに置かれたグラスの汗を指で拭いながらしばらく黙って考えていた。
突然の転職話。宿の仕事は体力を使う。ただでさえ呪術というのは体力を削ってしまうのに、このままずっとギリギリまで続けられるかはいささか疑問ではあった。
寿命を削るまでは行かずとも、操作を誤れば次の日に響いてしまう。駄目だ、これは持ち帰りだ。クラースさんに相談しよう。
「いらっしゃいませぇ」
「おー、アーベルさんじゃん。お疲れー。てか見てるだけでめっちゃ暑苦しいんだけど。脱ぎなよ上着ー」
「よう、メルヤ。相変わらずだな、そのざっくばらんな接客がよ。ママはいつ見ても綺麗だね!」
「ありがとねぇ、アーベルさんも男前よぉ。お外に出る仕事は暑くて大変でしょー」
「そりゃあもう暑いよ! 今年はどうなっちゃうのかね! 去年よりはマシだといいけど」
「でも冷やした米酒が美味くなるじゃん。アーベルさんアレめっちゃ好きじゃん」
「めっちゃ好きよ! 大好きよ! でもママに注いでもらわないと僕、美味しく飲めなーい。直接お口に注いでー?」
「ったく手のかかるオッサンだなー。ほら駆けつけ一杯。キンキンだよ!」
「僕ママがいいって言ったよね!? 悔しいっ。でも飲んじゃうっ」
……ばあちゃんから場所はサロン、と聞いたときは、落ち着きのある紳士淑女がしっとりと上品な口調で会話を楽しみ、時には商談にも使うような大人の場所、というのを想像したことを覚えている。
メルヤは大口を開けて笑っているし、ママはおっとりとした上品な口調でガンガン下ネタを飛ばしている。仕立ての良さが一目見ただけでよくわかるスーツを着た、外商かなにかの仕事帰りなのであろう男性客は、まるで中身だけが下町のオヤジにすり替わったようである。
会話を楽しむ、くらいしか合っていない。ゲラゲラという笑い声が響き続けるこの場所で、俺の占いは果たして買ってもらえるのだろうか。あの高級宿屋の仕事はしばらく続けたほうがいいかもしれない。
ママさんに『じゃあ洗いものだけよろしくねぇ』と依頼され、空いた時間は適当に掃除をしたり本を読んだりして過ごしていた。これで今日一日終わるかもなあ、とそのときはぼんやりそう思っていた。
こういう主に酒を扱う店では、よっぽどのことがない限り衛兵を呼ばないそうだ。他のお客さんが醒めてしまうから。お客さん側もそのことはわかっていて、ふざけていても基本的に行儀は良いと。
俺の占いを売る機会は案外早く訪れた。酔客の一人が騒ぎ出したのがきっかけだ。
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