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28.8月23日

a.

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ーーー8月上旬。

「うわー、めっちゃあちー。珍しいね、真春が海行きたいなんて」

「入るのは嫌だけど、見るのは好き」



夏休みに入った頃、『夏休みどこ行く?旅行とか行きたくない?』と恭介からメッセージが来た。

真春はクリスマスにしらす丼を食べたところに行きたいと返した。
なんとなく、この地に全て置き去りにしたくて。

サーフィンをしている人、日焼けをしている人、ナンパしてる人、海の家の客を呼び込む声…。

夏だなぁ…と思う。

2人はあてもなく海岸沿いを歩いた。
次第に夕暮れを迎え、夕日を見ながら尽きない話をする。

本当に恭介とは、気が合う。
なんだって曝け出せる。
だけど、何か足りない…。

それが何か知ってしまったんだ。
今までにない感情だった。

人に"恋をする"という気持ち。

そんな気持ちの先が、振り出しに戻ることもあるかもしれない。
だけど私は、あなたでは感じられないその気持ちを知ってしまった。

ごめんね…。
こんなに愛してくれていたのに。


「恭介…」

「ん?」

「……」

だめだ…言えない。

「どした?」

真春は耐えられなくて、ボロボロと涙を零した。
泣くなんて最低だ。
最低の逃げ方なのに、涙が止まらない。

「ごめんっ…」

しばらくの沈黙の後、恭介は「俺は真春のこと、幸せにしてやれないよ」と言った。

「他に、好きな子いるんだよね?」

「へ…」

「去年のクリスマス、ここのホテル来たっしょ?ヤってそのまま寝て、起きたら真春がいなくてさ。探しに行こうと思ったら、ドアの外で電話してたんだよ」

真春は硬直した。
まさか…聞かれてた…?

「好きな子、カエって子でしょ?」

「……」

「俺、その子に勝てないって思っちゃった。あの時聞いた真春の声、俺の聞いたことのない声だったもん」

恭介は「その子に、恋してるのかなぁって思っちゃった」と言った。

「真春が好きと思ってる人と一緒にいてくれる方が、俺は幸せだよ。真春のこと幸せにしたいって思ってたけど、俺だけそう思ってても……それは違うじゃん。真春の幸せが違うなら、俺は真春とは一緒にいられない」

「ごめん…。あたし…恭介のことも好きだけど、それとは違うの……ごめん」

「謝らないで。素直になった真春は強いし、偉い。カエちゃんも、嬉しいと思うよ」

恭介は「真春のそういう真っ直ぐなとこも好きなんだけどね」と笑った。

「男女関係なく好きになれるところも、真春らしいな。真春なら、カエちゃんのこと幸せにしてあげられると思うよ。…俺は、真春が彼女ですごく幸せだったから」

恭介は「別れよう、真春」と言った。

真春は何も言えず、コクンと頷いた。
言わせてしまった。
本当は、言わなきゃいけないのは自分なのに…。

「ごめん…」

「なんで謝るんだよ。謝ったら…カエちゃんに悪いだろ」

「……」

「これからも友達でいような。…真春とは、ずっと友達でいたいから。あ、ライブとかまた誘っていい?」

「…うん」

「飽きるまでライブ行こ!あ、許してくれたらでいいけど、カエちゃんも誘っていいからね!」

「なにそれ…。別れ話の時のテンションじゃないよ」

2人で笑い合い、いつものような会話が始まる。
こうやって、恭介はいつだってやわらかい空気にしてくれる。
とても優しい人。

だからこそ、この先も幸せになってほしい。
私も、幸せになるから。
恭介の気持ち、絶対に無駄にしないから。

背中を押してくれてありがとう。
今まで、ありがとう。
あなたの彼女でいられて、幸せでした。



ーーー。

目覚めたのは6:20。
真春は体内時計に従って起きた。
リビングに行くと、母が忙しなく動いていた。

「…あれ?今日、仕事?」

「そうよー。最近介護士さん足りないからこれからショッカイに行かなきゃいけないの。状態よくないおばあちゃんもいるし、心配よー」

母は専門用語を並べて「大変だぁーっ」と言いながら7時前には家を出て行った。

大変そうにしながらも、絶対に文句は言わない母を尊敬する。
むしろ、大変さをバネにしているように見えるからすごいと思う。

真春はソファーに寝転んで肌触りの良いクッションを抱き締めながら、ずっとついていたテレビを眺めた。

朝って、ぼーっとしてしまってなにもする気が起きない。
低血圧も相まって、その場からしばらく動けない。

休日はいつも三度寝くらいしてからリビングに来るので、目覚めてすぐにこうしてソファーまで辿り着けた今日は奇跡だ。

20分後、起き上がってキッチンにあるケトルのスイッチを入れる。
お湯が沸くまでの間、テレビを眺める。
占いが始まった。

母は介護施設で働く看護師。
一応、主任をしているらしい。

真春が小さい頃は病院で働いていて、とても忙しそうにしている母の姿しか思い出せない。
あまり遊んだ記憶もない。

しかし介護施設で働くようになってから、よく話すようになった。
看護師の良いところも悪いところもたくさん聞いたが、それでも真春は看護師になりたかった。

看護師として働いている母が、最高にカッコ良かったから。

父親は近所でイタリアンレストランを経営している。
そこそこ有名らしい。

よく釣りや市場に行き、新鮮な魚を持って帰ってくる。
もちろんお店に必要のない分を。

ちょっとクセのある家庭に生まれ、それでもごく普通の女の子として育ってきた。
ひとりっ子で、なに不自由なく過ごしてきた。

今日これから、自分は違う世界へ一歩踏み出す。

世の中が作った当たり前とは、ちょっと違う世界。
きっと、そのうち普通になるかもしれないけど、今は"普通"とは認識されない世界。

でも、葛藤の中で自分が決めた道だ。
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