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25.最後の試練
b.
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22時までのシフトの香枝は真春に「ラスト、頑張ってくださいね」といつものように声を掛けて帰って行った。
次に会う時にはおそらく夏が来ているだろう。
「お疲れ。またね」
手を振った香枝の笑顔が脳裏に焼き付くのが分かった。
こんな笑顔でたくさんの子供達とふれ合う香枝は、きっと慕われるんだろうな、と想像する。
小さい子供がいる家族連れのお客さんとの関わり方は、バイトリーダーのさやかよりも上手いと真春は思っていた。
きっと香枝なら素敵な先生になれるはずだ。
裏口のドアが閉まった後も、真春はデシャップ台を掃除しながら意味もなく暗い通路を見続けた。
しばらく会えないと思うと胸がざわざわと音を立てたが、真春はその音が聞こえないフリをした。
締め作業を終えた後、真春と未央はクリスマスの日に行ったバーに向かった。
店の扉を開けて中に入ると「お好きなとこどうぞ」と店員に笑顔で言われたので、一番奥の隅の席に座ることにした。
「ここに来る時は、いつも香枝の話ですね」
椅子を引いて背もたれに薄手のジャケットを掛けながら未央が笑った。
「まだ2回目だよ」
ドリンクのメニューを眺め、真春は「普通のビールにしようかな」と言って未央にメニューを渡した。
「じゃああたしはまた黒ビールにしようかな」
「ハマったの?」
「いえ、2回目ですけど。ここ来るとなんとなく黒ビールって感じがして」
ビールとおつまみを注文して店員が去った後「で、何があったんですか?」と未央は待ちきれないといった様子で真春の言葉を待った。
「いきなりだね。何から言えばいいのかな…」
「いきなりも何も、その話をしに来たんじゃないっすかー」
未央が「焦らさないでくださいよー」とまたニヤけた時、ビールと小皿に盛られたお通しのジャーマンポテトが運ばれてきた。
「はい、乾杯」
「かんぱーい」
カチッとグラスが当たる。
どこから、何から話せばいいのか何も考えていなかったので、いざ言うとなると頭の中が真っ白になってしまった。
代わりに一気に流し込んだアルコールと吸い始めたタバコのニコチンが頭の中を巡る。
「でも、悪い感じじゃなさそうですよね」
未央はジャーマンポテトを箸で突きながら言った。
「うん…悪い感じではない。…なんて言うのかな。とりあえず、友達だよ香枝は」
真春はタバコの先端の火に目を向けて言った。
「友達ですか。でも真春さんは香枝のこと好きなんですよね?香枝だって真春さんのこと好きだし」
「じゃあ、未央はあたしのこと好き?」
「えっ?」
「好き、嫌い、どっち?」
「そりゃ好きですけど…って何言わせるんですか!」
未央は困ったような笑顔を向けた。
「そういうこと」
「え?全然意味分かんないです。っていうか、旅行で香枝と話せました…?」
煙を見ながら「うん」と真春は答えた。
その先に見えた端整な顔は、少し期待が込められた笑みを浮かべていた。
真春は深呼吸した後、ゆっくりと語り始めた。
律にキスされたところを香枝に見られたことがきっかけでギクシャクしたこと。
香枝に告白されたこと。
旅行中の出来事。
香枝の家まで行って『友達でいよう』と話したこと。
全部、香枝とのことは何も包み隠さず言った。
さすがに奈帆と律の関係と、奈帆に相談したということは言えなかった。
話し終わる頃にはジョッキに入ったビールは空になっていた。
興奮していてあまり酔いが回っていないような気がする。
何でだろう…話せば話すほど、苦しくなる。
未央はからかったり話を遮ることもせず、時折笑顔を見せながらずっと頷きながら聞いてくれた。
空になったグラスをテーブルの端に寄せて、未央が店員を呼ぶ。
真春は少しだけ残っていたビールを飲み干して同じようにグラスを端に寄せると、すぐに来た店員に未央と同じビールをお願いした。
「香枝からも少し聞いてましたけど、ただ好きってだけで、どうなりたいとかは分からないって言ってました」
「あたしと同じだったんだね」
「そうなんすよ。ちゃんと話せて良かったですね」
「うん、よかった」
言葉を紡ぐたび、嘘ばかりが出ているような気がする。
まるで、そう言えともう1人が操っているかのように。
3杯目のビールが運ばれてきて、空のグラスと交換された。
「2人なら、ずっと…なんなら老後までいい関係なんじゃないっすか?」
「あははっ。そうだといいな」
乾いた声が漏れた。
未央と話してると、何でか分からないけど自分の気持ちが隠しきれなくなる。
時間差でアルコールが回り始め、同時に涙腺も緩み始めた。
「真春さん?」
涙目がバレないようにタバコを吸おうとしたけど、未央にはしっかり見られていた。
もう、ダメだ。
「あたし…香枝と話してる時、本当に自分って最低だなって思った。それに、だんだん香枝よりも自分に友達でいなきゃって言ってるような感じになってきちゃってさ」
「真春さん…やっぱり、まだ香枝のこと好きなんですか?」
今まで渦巻いていた感情がぶわっと溢れ返り、どうしようもなくなる。
「正直、分かんない。でも…」
真春は大きく息を吸って、吐いた。
「あたし…恭介のこと、こんな風に好きになれないんだよね」
「そっか…」
「でも、そんな自分が最低だと思うし、彼氏がいるのに香枝にこんな気持ちっていうか…ダメだとも思うし…」
「真春さんは、どうしたいんですか?」
「え?」
「彼氏と香枝と、どっちが好きなんですか?」
そう言われてしまい、真春は黙った。
気持ちは完全に香枝の方に向いてしまっている。
でもこんなに窮地に立たされても、どちらも選べない。
ハッキリできない。
「分かんない…」
「彼氏は?好きなんですか?…って、だから付き合ってるんでしょうけど」
「でもあたし、好きだから付き合うっていうか…。告白されて、好きになれたらいいなって思って付き合ってたから…」
真春は「恭介のことは好きだけど、香枝に対する好きとは違うんだよね」と俯いた。
「何が違うんですか?」
「なんか…なんだろ…。香枝が側にいるとドキドキするっていうか、一緒にいたいなぁって思うっていうか…。うわー!もう、考えたくない…」
今口から出た言葉は本音だ。
だけど、何故か悪いことのような気がしてしまう。
「完全に恋じゃないっすか」
「でもあたしには恭介がいる」
真春は両手で顔を覆った。
やっぱり自分は最低だ。
「まー…すぐに気持ち切り替えるのって、難しいですよね」
「……」
「好きなのに友達でいようって言うのも言われるのも、辛くないですか?」
「うん…」
未央の言う通りだ。
現に、まだ気持ちが揺らいでいる自分がいるのは確かだ。
「今すぐには無理かもですけど…時間が経てば少しは気持ちに整理つくかもしれませんし。ゆっくり考えましょ」
未央はビールをひと口飲んで微笑んだ。
年下なのに、未央っていつも落ち着いている。
本当に年下なのだろうか…。
「あとそれから、律さんのことっすよね」
そうだ、律への対応も考えなくては。
「真春さんのことまだ好きなんですか?」
「よく分かんないんだけど、そうみたい」
冷たくなったジャーマンポテトを、意味もなく爪楊枝でつつく。
「全然諦める気なくて、また同じようなことされそうだし。説得しようとも思ったけど、そもそもあの律を説得するとか…無理な気がする」
「それは難しいっすねー。話聞くと、一方的に攻められまくってますしね」
未央はクスクス笑った。
ため息をついた真春は「全然笑えないよ…」とタバコを灰皿に押し付けた。
「ははっ、すみません。あ、それとなく律さんに探り入れてみましょうか?」
「どうやって?」
「とりあえず、真春さんの事が本気で好きなのは分かったんで…。あ!」
未央は目を輝かせて真春をまっすぐ見た。
その目には少し悪戯っぽさが見え隠れしている。
「香枝と付き合ってるフリして下さい!」
「えっ?!やだよそんなの!」
真春の声が店内に響いた。
入口近くの席に座っているカップルがこちらを見た。
「いや、無理でしょ」
演技とはいえ、そんな事をしたらまた香枝の事を好きになってしまいそうな気がする。
せっかくたどり着いた答えにまた終止符が打てなくなる。
「律さんは真春さんが香枝と何もないって言ったから、チャンスだと思ってるんですよね?だったら『彼氏と別れた。今は香枝と付き合ってる』って言っちゃえば諦めてくれるんじゃないんですか?」
「いや、でも…」
「律さんの恋敵は香枝なんすから。真春さんの本気を見せつけられたら、律さんだってさすがに諦めるんじゃないっすか?」
未央は「律さんがいる時だけ、香枝とやたら仲良くして下さいよ!」とワクワクした表情で言った。
「え」
「で、帰り際に律さんに付き合ってるって言えばオッケーです」
「オッケーって…」
「じゃあこのまま律さんが真春さんにキスしたり、色々されたりしてもいいんですか?」
「それは…やだ」
よく考えたら、律と香枝と真春が同じ日にバイトに入るのは、土日くらいしかない。
真春も香枝も実習があるし、一緒に働く確率は限りなく低い。
たった1日だけなら、頑張るしかない。
「わかった…」
「あたしも協力するんで!」
未央はなんだか楽しそうだ。
「てか香枝と付き合うフリしなくても、律に言うだけでよくない?」
「それはダメですよー」
「なんで?」
「信憑性に欠けるじゃないですか。あの律さんですよ?バッチリ証拠見せつけないと、またどんな手使ってくるか分からないじゃないすか」
「たしかに…未央、律のことよく分かってるね」
そう言った真春は半ばうわの空状態だった。
香枝と付き合うフリだなんて大それたこと、考えもしなかった。
「真春さん実習終わるのいつでしたっけ?」
「7月の半ばかな」
真春は息を詰まらせながら答えた。
想像しただけで心臓がバクバクして、今まで飲んだビールを全て吐き出してしまいそうだ。
視点が定まらなくなってきた。
「真春さん、今から緊張してるんですか?」
「へっ?!」
ジョッキを持ったまま固まってしまっていたようで、未央は真春のその姿を見て「ホントに真春さんってギャップ萌えって言葉が似合う」と笑った。
「なにそれ、どういう意味」
「サバサバしてると見せかけて、今から緊張しちゃってるし。めっちゃ女子っぽいとこあるし」
「本当はこんなんじゃないんだってば」
真春はジョッキをテーブルに置いて、両手で顔を覆った。
香枝を好きになってから、知らなかった自分がどんどん見えた気がした。
本当に好きな人ができると、こんな気持ちになるのだと初めて分かったのだ。
恋い焦がれるということがどんなことなのか、初めて実感したのだ。
「いいじゃないですかー」
「でもなんか…ちょっと怖い」
「なにがですか?」
真春は「香枝のこと、諦められなくなりそうで」と言おうとしたが、喉まで出かけたその言葉を飲み込んだ。
もうダメだと、誰かが強く押し潰した。
「えっと…律がそれでも諦めないって言ったらどうしようって思って」
「んー…まぁそうなっちゃったら、また考えましょ!大丈夫ですよ」
真春は力なく頷いた。
決戦の日はおそらく真春と香枝が夏休みに入ってからだ。
香枝には直前に作戦の内容を伝えることにした。
上手くいくかどうかは分からないが、とにかく…やるしかない。
次に会う時にはおそらく夏が来ているだろう。
「お疲れ。またね」
手を振った香枝の笑顔が脳裏に焼き付くのが分かった。
こんな笑顔でたくさんの子供達とふれ合う香枝は、きっと慕われるんだろうな、と想像する。
小さい子供がいる家族連れのお客さんとの関わり方は、バイトリーダーのさやかよりも上手いと真春は思っていた。
きっと香枝なら素敵な先生になれるはずだ。
裏口のドアが閉まった後も、真春はデシャップ台を掃除しながら意味もなく暗い通路を見続けた。
しばらく会えないと思うと胸がざわざわと音を立てたが、真春はその音が聞こえないフリをした。
締め作業を終えた後、真春と未央はクリスマスの日に行ったバーに向かった。
店の扉を開けて中に入ると「お好きなとこどうぞ」と店員に笑顔で言われたので、一番奥の隅の席に座ることにした。
「ここに来る時は、いつも香枝の話ですね」
椅子を引いて背もたれに薄手のジャケットを掛けながら未央が笑った。
「まだ2回目だよ」
ドリンクのメニューを眺め、真春は「普通のビールにしようかな」と言って未央にメニューを渡した。
「じゃああたしはまた黒ビールにしようかな」
「ハマったの?」
「いえ、2回目ですけど。ここ来るとなんとなく黒ビールって感じがして」
ビールとおつまみを注文して店員が去った後「で、何があったんですか?」と未央は待ちきれないといった様子で真春の言葉を待った。
「いきなりだね。何から言えばいいのかな…」
「いきなりも何も、その話をしに来たんじゃないっすかー」
未央が「焦らさないでくださいよー」とまたニヤけた時、ビールと小皿に盛られたお通しのジャーマンポテトが運ばれてきた。
「はい、乾杯」
「かんぱーい」
カチッとグラスが当たる。
どこから、何から話せばいいのか何も考えていなかったので、いざ言うとなると頭の中が真っ白になってしまった。
代わりに一気に流し込んだアルコールと吸い始めたタバコのニコチンが頭の中を巡る。
「でも、悪い感じじゃなさそうですよね」
未央はジャーマンポテトを箸で突きながら言った。
「うん…悪い感じではない。…なんて言うのかな。とりあえず、友達だよ香枝は」
真春はタバコの先端の火に目を向けて言った。
「友達ですか。でも真春さんは香枝のこと好きなんですよね?香枝だって真春さんのこと好きだし」
「じゃあ、未央はあたしのこと好き?」
「えっ?」
「好き、嫌い、どっち?」
「そりゃ好きですけど…って何言わせるんですか!」
未央は困ったような笑顔を向けた。
「そういうこと」
「え?全然意味分かんないです。っていうか、旅行で香枝と話せました…?」
煙を見ながら「うん」と真春は答えた。
その先に見えた端整な顔は、少し期待が込められた笑みを浮かべていた。
真春は深呼吸した後、ゆっくりと語り始めた。
律にキスされたところを香枝に見られたことがきっかけでギクシャクしたこと。
香枝に告白されたこと。
旅行中の出来事。
香枝の家まで行って『友達でいよう』と話したこと。
全部、香枝とのことは何も包み隠さず言った。
さすがに奈帆と律の関係と、奈帆に相談したということは言えなかった。
話し終わる頃にはジョッキに入ったビールは空になっていた。
興奮していてあまり酔いが回っていないような気がする。
何でだろう…話せば話すほど、苦しくなる。
未央はからかったり話を遮ることもせず、時折笑顔を見せながらずっと頷きながら聞いてくれた。
空になったグラスをテーブルの端に寄せて、未央が店員を呼ぶ。
真春は少しだけ残っていたビールを飲み干して同じようにグラスを端に寄せると、すぐに来た店員に未央と同じビールをお願いした。
「香枝からも少し聞いてましたけど、ただ好きってだけで、どうなりたいとかは分からないって言ってました」
「あたしと同じだったんだね」
「そうなんすよ。ちゃんと話せて良かったですね」
「うん、よかった」
言葉を紡ぐたび、嘘ばかりが出ているような気がする。
まるで、そう言えともう1人が操っているかのように。
3杯目のビールが運ばれてきて、空のグラスと交換された。
「2人なら、ずっと…なんなら老後までいい関係なんじゃないっすか?」
「あははっ。そうだといいな」
乾いた声が漏れた。
未央と話してると、何でか分からないけど自分の気持ちが隠しきれなくなる。
時間差でアルコールが回り始め、同時に涙腺も緩み始めた。
「真春さん?」
涙目がバレないようにタバコを吸おうとしたけど、未央にはしっかり見られていた。
もう、ダメだ。
「あたし…香枝と話してる時、本当に自分って最低だなって思った。それに、だんだん香枝よりも自分に友達でいなきゃって言ってるような感じになってきちゃってさ」
「真春さん…やっぱり、まだ香枝のこと好きなんですか?」
今まで渦巻いていた感情がぶわっと溢れ返り、どうしようもなくなる。
「正直、分かんない。でも…」
真春は大きく息を吸って、吐いた。
「あたし…恭介のこと、こんな風に好きになれないんだよね」
「そっか…」
「でも、そんな自分が最低だと思うし、彼氏がいるのに香枝にこんな気持ちっていうか…ダメだとも思うし…」
「真春さんは、どうしたいんですか?」
「え?」
「彼氏と香枝と、どっちが好きなんですか?」
そう言われてしまい、真春は黙った。
気持ちは完全に香枝の方に向いてしまっている。
でもこんなに窮地に立たされても、どちらも選べない。
ハッキリできない。
「分かんない…」
「彼氏は?好きなんですか?…って、だから付き合ってるんでしょうけど」
「でもあたし、好きだから付き合うっていうか…。告白されて、好きになれたらいいなって思って付き合ってたから…」
真春は「恭介のことは好きだけど、香枝に対する好きとは違うんだよね」と俯いた。
「何が違うんですか?」
「なんか…なんだろ…。香枝が側にいるとドキドキするっていうか、一緒にいたいなぁって思うっていうか…。うわー!もう、考えたくない…」
今口から出た言葉は本音だ。
だけど、何故か悪いことのような気がしてしまう。
「完全に恋じゃないっすか」
「でもあたしには恭介がいる」
真春は両手で顔を覆った。
やっぱり自分は最低だ。
「まー…すぐに気持ち切り替えるのって、難しいですよね」
「……」
「好きなのに友達でいようって言うのも言われるのも、辛くないですか?」
「うん…」
未央の言う通りだ。
現に、まだ気持ちが揺らいでいる自分がいるのは確かだ。
「今すぐには無理かもですけど…時間が経てば少しは気持ちに整理つくかもしれませんし。ゆっくり考えましょ」
未央はビールをひと口飲んで微笑んだ。
年下なのに、未央っていつも落ち着いている。
本当に年下なのだろうか…。
「あとそれから、律さんのことっすよね」
そうだ、律への対応も考えなくては。
「真春さんのことまだ好きなんですか?」
「よく分かんないんだけど、そうみたい」
冷たくなったジャーマンポテトを、意味もなく爪楊枝でつつく。
「全然諦める気なくて、また同じようなことされそうだし。説得しようとも思ったけど、そもそもあの律を説得するとか…無理な気がする」
「それは難しいっすねー。話聞くと、一方的に攻められまくってますしね」
未央はクスクス笑った。
ため息をついた真春は「全然笑えないよ…」とタバコを灰皿に押し付けた。
「ははっ、すみません。あ、それとなく律さんに探り入れてみましょうか?」
「どうやって?」
「とりあえず、真春さんの事が本気で好きなのは分かったんで…。あ!」
未央は目を輝かせて真春をまっすぐ見た。
その目には少し悪戯っぽさが見え隠れしている。
「香枝と付き合ってるフリして下さい!」
「えっ?!やだよそんなの!」
真春の声が店内に響いた。
入口近くの席に座っているカップルがこちらを見た。
「いや、無理でしょ」
演技とはいえ、そんな事をしたらまた香枝の事を好きになってしまいそうな気がする。
せっかくたどり着いた答えにまた終止符が打てなくなる。
「律さんは真春さんが香枝と何もないって言ったから、チャンスだと思ってるんですよね?だったら『彼氏と別れた。今は香枝と付き合ってる』って言っちゃえば諦めてくれるんじゃないんですか?」
「いや、でも…」
「律さんの恋敵は香枝なんすから。真春さんの本気を見せつけられたら、律さんだってさすがに諦めるんじゃないっすか?」
未央は「律さんがいる時だけ、香枝とやたら仲良くして下さいよ!」とワクワクした表情で言った。
「え」
「で、帰り際に律さんに付き合ってるって言えばオッケーです」
「オッケーって…」
「じゃあこのまま律さんが真春さんにキスしたり、色々されたりしてもいいんですか?」
「それは…やだ」
よく考えたら、律と香枝と真春が同じ日にバイトに入るのは、土日くらいしかない。
真春も香枝も実習があるし、一緒に働く確率は限りなく低い。
たった1日だけなら、頑張るしかない。
「わかった…」
「あたしも協力するんで!」
未央はなんだか楽しそうだ。
「てか香枝と付き合うフリしなくても、律に言うだけでよくない?」
「それはダメですよー」
「なんで?」
「信憑性に欠けるじゃないですか。あの律さんですよ?バッチリ証拠見せつけないと、またどんな手使ってくるか分からないじゃないすか」
「たしかに…未央、律のことよく分かってるね」
そう言った真春は半ばうわの空状態だった。
香枝と付き合うフリだなんて大それたこと、考えもしなかった。
「真春さん実習終わるのいつでしたっけ?」
「7月の半ばかな」
真春は息を詰まらせながら答えた。
想像しただけで心臓がバクバクして、今まで飲んだビールを全て吐き出してしまいそうだ。
視点が定まらなくなってきた。
「真春さん、今から緊張してるんですか?」
「へっ?!」
ジョッキを持ったまま固まってしまっていたようで、未央は真春のその姿を見て「ホントに真春さんってギャップ萌えって言葉が似合う」と笑った。
「なにそれ、どういう意味」
「サバサバしてると見せかけて、今から緊張しちゃってるし。めっちゃ女子っぽいとこあるし」
「本当はこんなんじゃないんだってば」
真春はジョッキをテーブルに置いて、両手で顔を覆った。
香枝を好きになってから、知らなかった自分がどんどん見えた気がした。
本当に好きな人ができると、こんな気持ちになるのだと初めて分かったのだ。
恋い焦がれるということがどんなことなのか、初めて実感したのだ。
「いいじゃないですかー」
「でもなんか…ちょっと怖い」
「なにがですか?」
真春は「香枝のこと、諦められなくなりそうで」と言おうとしたが、喉まで出かけたその言葉を飲み込んだ。
もうダメだと、誰かが強く押し潰した。
「えっと…律がそれでも諦めないって言ったらどうしようって思って」
「んー…まぁそうなっちゃったら、また考えましょ!大丈夫ですよ」
真春は力なく頷いた。
決戦の日はおそらく真春と香枝が夏休みに入ってからだ。
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