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22.捻れる境界線
c.
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翌朝、あれだけ雨に打たれたのに目覚めはスッキリだった。
11時に出勤すると、真春の本能が求めていた声が聞こえてきた。
「真春さーん!おはようございます」
一足先に来ていた香枝がいつもと変わらぬにこやかな笑顔でデシャップから手を振っている。
心なしか疲れているように見えるのは気のせいだろうか。
「おはよ。…なんか、やつれた?」
「授業始まったばっかなのに課題がすごくて…。睡眠不足な上に季節の変わり目でやられちゃいました。ちょっと喉と鼻の調子が…」
香枝はへへっと笑うと、鼻をすすった。
確かに、少し鼻声だ。
「風邪の引き始めじゃん。無理しないでね」
「大丈夫ですよっ!今日は真春さんとラストだから楽しみにしてたんですから」
「キツかったら言ってね。なんならあたし1人でラストやるから」
「だからー、大丈夫ですって」
香枝は「しつこいー」と言って笑った。
久しぶりに一緒に働くこの感じ、なんだかむず痒い。
真春は浮き足立った気持ちでホールに出た。
そろそろ休憩を回し始める14時が近くなった頃、今まで適度な混み具合だったのが一気に大混雑に変わった。
たまにある謎の激混みでキッチンもホールもてんやわんやで、みんなややハイテンションで働いていた。
忙しさを穏やかさでカバーし、時に笑いに変えてくれる戸田さんは、今日もその能力を発揮していて、忙しくても終始気持ちよく働けた。
ようやく休憩となったのは15時を過ぎてからだった。
「ごめん、今日は1時間でいいかな?」
「大丈夫ですよ」
「じゃあ、白石さんと永山さん休憩入っちゃって」
「はーい」
真春はお冷のグラスをパントリーに運んでいる香枝に「休憩入れる?」と声を掛けた。
が、返答がなく、フラフラとパントリーに入って行く香枝。
真春はパントリーを覗いて「香枝?」ともう一度声を掛けた。
「大丈夫?休憩、行ける?」
肩をポンと叩くと、香枝はビックリした顔でこちらを見た。
「あっ…すみません。大丈夫です、行きましょ」
ニッコリ笑った香枝は帽子を外し、結んでいたポニーテールを解いた。
真春も帽子を外して事務所に向かった。
「疲れたねー。なんなんだろ、あの混み方」
「ホントですよね。なんか疲れちゃった…」
香枝は眠そうな声で言った。
「まかない頼みに行く?」
真春はパソコンを操作して休憩の打刻をしながら香枝を見た。
香枝は椅子に座り、テーブルに突っ伏したままピクリともしない。
なんだか様子がおかしい。
「香枝?」
「んー…」
「具合悪い?」
「ちょっと眠いだけです。…まかないは、いいです」
そう言うと、香枝は腕に顔をうずめた。
薄手のワイシャツ1枚だと寒そうだったので、真春は香枝のロッカーから上着を取り出して香枝に掛けてやった。
「ひひ…ありがとうございます」
「無理しないでね」
あんなに元気のない香枝を見たのは初めてだ。
少し休めば良くなるだろうか。
真春はロッカーからマウンテンパーカーを取り出して羽織り、コンビニに向かった。
たまにはコンビニのご飯でも食べようかな、と思いながら店内をウロウロする。
お菓子のコーナーを通り過ぎた時、清水さんが好きだというチョコレートが目に入った。
あれから約1年が経とうとしている。
何も考えずに香枝と楽しく話していた日々を思い出して、自然と遠い目になってしまう。
だめだ、考えるのはやめよう。
おにぎり2つと、香枝にプリンを買って真春はコンビニを後にした。
結局休憩中、香枝はずっと眠っていた。
16時半に休憩から戻り、さやかと未央と入れ替わる。
「あー、お腹空いた」
さやかが伸びをしながら言った。
「とりあえず洗い物は全部片付けたのと、あとサラダバーの補充が途中だから残りお願い」
さやかは真春に紙切れを渡した。
あとどれくらいの野菜を補充すればいいのかが正の字で書かれている。
「ありがとうございます。了解です」
さやかと未央がまかないを頼んで事務所に行った後、真春は一緒に話を聞いていた香枝に「体調、どう?」と小声で聞いた。
「はい、大丈夫です。寝たらちょっと良くなりました」
香枝はいつもの調子で言っているつもりなのだろうが、明らかにぼーっとしている。
「本当?」
「全然大丈夫ですって!元気元気!あ、プリンありがとうございました。あとで美味しくいただきます」
「いいえー。…じゃあ、あたしサラダバーの補充してていい?」
「はい、お願いします。あたしホール見てきますね」
香枝は頑として認めないので、真春はそれ以上何も言わなかった。
サラダバーの補充が終わったのは17時半。
終わったというより、強制終了の方がしっくりくる。
ランチの忙しさがそのままスライドされたかのように突然混み始めたのだ。
「なんか今日激しくない?」
休憩から戻ってきたさやかが笑いながら言った。
「あたし補充代わるからホールお願い」
「はーい」
久しぶりにホールに出ると、席は半分以上埋まっていた。
香枝に丸投げしてしまっていて申し訳なかったな。
声を掛けて謝ろうと思い香枝を探すと、ちょうど3人組のお客さんを案内しているところだった。
真春はお冷を準備しにパントリーに戻って来た香枝に「任せっぱなしでごめんね」と言った。
「ん?あ、大丈夫ですよ…」
帽子でよく見えないが、さっきよりも目が虚ろに見える。
大丈夫?と言おうとしたが、香枝はそそくさとお冷を出しに行ってしまったので何も言えなかった。
それからピークを迎えて少し落ち着くまで香枝となかなか話すことができなかった。
団体客が帰ったお座敷席をバッシングしていると、香枝が「手伝います」と言って靴を脱いで座敷に上がってきた。
その瞬間、香枝がよろめいて転びそうになった。
運良く通路の近くでバッシングしていた真春は、反射的に香枝の腕を掴んで支えた。
真春は驚くと同時に、やっぱり…と思った。
「すみません…」
「香枝、熱あるでしょ」
「……」
真春は香枝の顔をまじまじと見た。
顔がほのかに赤くなっていて、目も潤んでいる。
ものすごく怠そうに見える。
真春は何も言わない香枝の額に右の手のひらを当てた。
驚くほど熱い。
「何で黙ってたの?」
「帰らなきゃいけなくなるから…」
「帰らなきゃダメだよ。無理して働いてたって辛いし、もっと悪くなったら大変だからさ。戸田さんに言って帰ら…」
「やだ」
「えっ?」
香枝は潤んだ瞳で真春を見据えた。
こんな時でもドキドキしてしまう自分はどうかしている。
「帰らない」
「なんで…。ラストはあたし1人で大丈夫だよ。それか、さやかさんも未央もいるから、もしかしたらどっちかラストまでやってくれるかもしれないし」
「違う…」
「違うって何が?」
「真春さんとラストまで働きたいの」
なんでこんな時に子供みたいな駄々をこねているのだろうか。
真春は困惑した。
なんて言うべきなのだろう。
「真春さんまた実習始まっちゃうし、あたしも学校が忙しくてバイトどころじゃないから、もうこういうシフトもほとんどないと思うから…」
「そんなこと言ったって…」
「…お願いします。みんなに言わないでください。真春さんにも迷惑かけないようにするので」
香枝は更に酷くなった鼻声で「お願いします」と言った。
これは何を言っても聞かなそうだ。
真春は「分かった」と降参という風にため息をついた。
「じゃあ約束ね」
「…え?」
「重いもの持つ時は1人でやらないで、あたし呼んで。バッシングも一緒にやるから」
「はい…」
「あと、辛かったら我慢しないでね。すぐあたしに言うこと」
真春は半分呆れながら「いい?」と俯いた香枝の顔を覗き込んだ。
すると香枝は「ありがとうございます」と微笑んだ。
無理矢理にでも帰らせない自分はバカだ。
普通にバカだ。
でも、香枝に言われた事を考えたら、それもそうかもしれないとなぜか納得してしまったと同時に寂しさが押し寄せてきたのだ。
もっと一緒に過ごしたいと思ってしまった。
これで香枝の状態が悪化したら自分のせいだ。
なんとしてでもフォローしなければ、と考え続けた3時間は、特別な時間だった。
他のスタッフにバレないように、真春はさりげなく香枝をフォローし続けた。
そのため、いつも働いているよりもずっと長い間香枝と一緒にいることができた。
何回「大丈夫?」と声を掛けただろうか。
この世で一番その言葉を使った自信がある。
具合が悪いのを見ているのは心苦しかったが、この状況を喜んでいる自分がいたのもまた事実だった。
22時半で真春と香枝以外のスタッフが上がっていったが、案外真春の行動に疑問を持つ人は誰一人としていなかった。
ようやくラストオーダーの時間になった頃、香枝がレジ横の椅子で少し休んでいるのを見つけた。
「大丈夫?」
香枝は虚ろな目でコクリと頷いてから「すみません、こんなとこで…サボってるみたいですね」と言って身体を起こした。
「全然。休んでていいよ」
「いえ…ちゃんと最後までやります」
お客さんが全員帰ったのは23時半。
残りの洗い物を済ませて、全て終了した。
香枝はぎこちない笑顔で戸田さんに挨拶をした。
事務所に戻ると、香枝は昼間と同じようにテーブルに突っ伏した。
「帰れる?」
「はい…」
更衣室で着替えを済ませて出ると、まだ香枝は同じ体勢でいた。
真春はパイプ椅子に座って、香枝の隣で頬杖をついてその姿を眺めた。
心なしか、少し息が荒いような気がする。
「香枝…」
呼び掛けると、香枝は「…はい」と、くぐもった声で返事し、うずめていた眠そうな顔をこちらに向けた。
寝起きのような、怠そうな弱っているその顔が愛おしすぎて思わず抱き締めたくなってしまう。
「大丈夫?帰れる?」
「帰れます」
「それとも少し休んでく?」
真春がそう言うと、香枝は「早く帰らないともっと怠くなりそうだから、帰ります」と言って立ち上がり、フラフラと更衣室に入って行った。
着替えを終えた香枝は「寒い」と言ってジャケットを羽織った。
外に出た時、ふわっと生温い風が2人を包んだ。
ほのかに緑が香る、湿った4月の風。
「家まで送るよ」
「大丈夫ですよ…」
「だいじょばない」
「なんですか、その日本語」
香枝はクスクス笑った。
ゆっくり歩きながら、香枝の家まで向かう。
相当怠いのか口数は少なかったが、一緒に歩く帰り道はとても幸せだった。
暗い住宅街を香枝の歩調に合わせて歩き、日付が変わって15分以上経った頃、ようやく香枝の家の前に着いた。
「すみません、真春さんも疲れてるのに」
「全然。てか香枝があんなに意地っ張りだったとは思わなかった」
香枝は自転車を駐車スペースの傍に停めるとこちらへ歩いてきて「今日はありがとうございました」とお辞儀した。
「真春さんがずっと側にいてくれて安心だったし、嬉しかった。将来、真春さんに看病される患者さんが羨ましいなって思いました」
「なにそれ。具合悪いのにそんなこと考えてたの?」
真春は手の甲を口に当ててクスッと笑った。
「考えてた」
前から思っていたが、たまにタメ語になってしまうところが可愛らしい。
「でも、最後まで何事もなく終わってよかったよ。あったかくして寝なね」
「はーい、白石先生」
「看護師は先生って言わないよ」
「あはは、そっか」
香枝は鼻をすすりながらヘラヘラ笑った。
「さっき寒いって言ってなかった?」
「はい、実は混み始めた時もすごく寒くて…」
そう言って虚ろな目をした香枝の額に、真春は手を当てた。
さっきほどではないが、熱はありそうだ。
「これからまた熱上がるかもね」
「…そんなことされたらドキドキする。もっと具合悪くなりそう」
「あ…ごめん」
真春は笑いながら温もりが残る手を引っ込めた。
気持ちをストレートに伝えてくる香枝に、真春の心臓は止まってしまいそうだった。
今日はどうしてこんなに照れ臭い言葉がなんの迷いもなく出てくるのだろう。
熱のせいだろうか。
「うそ」
香枝が間近でヒヒッと笑った。
その笑顔の破壊力はすごかった。
これ以上はダメだと毎度ながらに思う気持ちを一瞬でゼロにする。
「具合悪いと、なんでこんなに人恋しくなるんだろ」
「分かるかも。なんでだろね」
「弱ってると、ブレーキ壊れがちですよね」
「今の香枝はちょっと壊れがち」
真春が困ったように笑うと、香枝は微笑んで「それじゃあ、また。ありがとうございました」と言って玄関へと向かって行った。
「…お大事に。じゃあね」
真春は軽く手を振って香枝が家の中に入っていくのを見届けた後、自転車を漕ぎながらはち切れそうな胸をなだめることに集中した。
友達でいるために境界線を引かなければ、と昨日考えていたばかりなのに。
その決意は轟音とともに崩れ去った。
香枝のことを思うたびに、胸が疼く。
よほどの強い意志がないと無理そうだ。
胸が苦しくてタバコを吸う気にもなれない。
緑の匂いで肺が膨れ上がる。
この緑は、一生ここに残り続けるかもしれない。
11時に出勤すると、真春の本能が求めていた声が聞こえてきた。
「真春さーん!おはようございます」
一足先に来ていた香枝がいつもと変わらぬにこやかな笑顔でデシャップから手を振っている。
心なしか疲れているように見えるのは気のせいだろうか。
「おはよ。…なんか、やつれた?」
「授業始まったばっかなのに課題がすごくて…。睡眠不足な上に季節の変わり目でやられちゃいました。ちょっと喉と鼻の調子が…」
香枝はへへっと笑うと、鼻をすすった。
確かに、少し鼻声だ。
「風邪の引き始めじゃん。無理しないでね」
「大丈夫ですよっ!今日は真春さんとラストだから楽しみにしてたんですから」
「キツかったら言ってね。なんならあたし1人でラストやるから」
「だからー、大丈夫ですって」
香枝は「しつこいー」と言って笑った。
久しぶりに一緒に働くこの感じ、なんだかむず痒い。
真春は浮き足立った気持ちでホールに出た。
そろそろ休憩を回し始める14時が近くなった頃、今まで適度な混み具合だったのが一気に大混雑に変わった。
たまにある謎の激混みでキッチンもホールもてんやわんやで、みんなややハイテンションで働いていた。
忙しさを穏やかさでカバーし、時に笑いに変えてくれる戸田さんは、今日もその能力を発揮していて、忙しくても終始気持ちよく働けた。
ようやく休憩となったのは15時を過ぎてからだった。
「ごめん、今日は1時間でいいかな?」
「大丈夫ですよ」
「じゃあ、白石さんと永山さん休憩入っちゃって」
「はーい」
真春はお冷のグラスをパントリーに運んでいる香枝に「休憩入れる?」と声を掛けた。
が、返答がなく、フラフラとパントリーに入って行く香枝。
真春はパントリーを覗いて「香枝?」ともう一度声を掛けた。
「大丈夫?休憩、行ける?」
肩をポンと叩くと、香枝はビックリした顔でこちらを見た。
「あっ…すみません。大丈夫です、行きましょ」
ニッコリ笑った香枝は帽子を外し、結んでいたポニーテールを解いた。
真春も帽子を外して事務所に向かった。
「疲れたねー。なんなんだろ、あの混み方」
「ホントですよね。なんか疲れちゃった…」
香枝は眠そうな声で言った。
「まかない頼みに行く?」
真春はパソコンを操作して休憩の打刻をしながら香枝を見た。
香枝は椅子に座り、テーブルに突っ伏したままピクリともしない。
なんだか様子がおかしい。
「香枝?」
「んー…」
「具合悪い?」
「ちょっと眠いだけです。…まかないは、いいです」
そう言うと、香枝は腕に顔をうずめた。
薄手のワイシャツ1枚だと寒そうだったので、真春は香枝のロッカーから上着を取り出して香枝に掛けてやった。
「ひひ…ありがとうございます」
「無理しないでね」
あんなに元気のない香枝を見たのは初めてだ。
少し休めば良くなるだろうか。
真春はロッカーからマウンテンパーカーを取り出して羽織り、コンビニに向かった。
たまにはコンビニのご飯でも食べようかな、と思いながら店内をウロウロする。
お菓子のコーナーを通り過ぎた時、清水さんが好きだというチョコレートが目に入った。
あれから約1年が経とうとしている。
何も考えずに香枝と楽しく話していた日々を思い出して、自然と遠い目になってしまう。
だめだ、考えるのはやめよう。
おにぎり2つと、香枝にプリンを買って真春はコンビニを後にした。
結局休憩中、香枝はずっと眠っていた。
16時半に休憩から戻り、さやかと未央と入れ替わる。
「あー、お腹空いた」
さやかが伸びをしながら言った。
「とりあえず洗い物は全部片付けたのと、あとサラダバーの補充が途中だから残りお願い」
さやかは真春に紙切れを渡した。
あとどれくらいの野菜を補充すればいいのかが正の字で書かれている。
「ありがとうございます。了解です」
さやかと未央がまかないを頼んで事務所に行った後、真春は一緒に話を聞いていた香枝に「体調、どう?」と小声で聞いた。
「はい、大丈夫です。寝たらちょっと良くなりました」
香枝はいつもの調子で言っているつもりなのだろうが、明らかにぼーっとしている。
「本当?」
「全然大丈夫ですって!元気元気!あ、プリンありがとうございました。あとで美味しくいただきます」
「いいえー。…じゃあ、あたしサラダバーの補充してていい?」
「はい、お願いします。あたしホール見てきますね」
香枝は頑として認めないので、真春はそれ以上何も言わなかった。
サラダバーの補充が終わったのは17時半。
終わったというより、強制終了の方がしっくりくる。
ランチの忙しさがそのままスライドされたかのように突然混み始めたのだ。
「なんか今日激しくない?」
休憩から戻ってきたさやかが笑いながら言った。
「あたし補充代わるからホールお願い」
「はーい」
久しぶりにホールに出ると、席は半分以上埋まっていた。
香枝に丸投げしてしまっていて申し訳なかったな。
声を掛けて謝ろうと思い香枝を探すと、ちょうど3人組のお客さんを案内しているところだった。
真春はお冷を準備しにパントリーに戻って来た香枝に「任せっぱなしでごめんね」と言った。
「ん?あ、大丈夫ですよ…」
帽子でよく見えないが、さっきよりも目が虚ろに見える。
大丈夫?と言おうとしたが、香枝はそそくさとお冷を出しに行ってしまったので何も言えなかった。
それからピークを迎えて少し落ち着くまで香枝となかなか話すことができなかった。
団体客が帰ったお座敷席をバッシングしていると、香枝が「手伝います」と言って靴を脱いで座敷に上がってきた。
その瞬間、香枝がよろめいて転びそうになった。
運良く通路の近くでバッシングしていた真春は、反射的に香枝の腕を掴んで支えた。
真春は驚くと同時に、やっぱり…と思った。
「すみません…」
「香枝、熱あるでしょ」
「……」
真春は香枝の顔をまじまじと見た。
顔がほのかに赤くなっていて、目も潤んでいる。
ものすごく怠そうに見える。
真春は何も言わない香枝の額に右の手のひらを当てた。
驚くほど熱い。
「何で黙ってたの?」
「帰らなきゃいけなくなるから…」
「帰らなきゃダメだよ。無理して働いてたって辛いし、もっと悪くなったら大変だからさ。戸田さんに言って帰ら…」
「やだ」
「えっ?」
香枝は潤んだ瞳で真春を見据えた。
こんな時でもドキドキしてしまう自分はどうかしている。
「帰らない」
「なんで…。ラストはあたし1人で大丈夫だよ。それか、さやかさんも未央もいるから、もしかしたらどっちかラストまでやってくれるかもしれないし」
「違う…」
「違うって何が?」
「真春さんとラストまで働きたいの」
なんでこんな時に子供みたいな駄々をこねているのだろうか。
真春は困惑した。
なんて言うべきなのだろう。
「真春さんまた実習始まっちゃうし、あたしも学校が忙しくてバイトどころじゃないから、もうこういうシフトもほとんどないと思うから…」
「そんなこと言ったって…」
「…お願いします。みんなに言わないでください。真春さんにも迷惑かけないようにするので」
香枝は更に酷くなった鼻声で「お願いします」と言った。
これは何を言っても聞かなそうだ。
真春は「分かった」と降参という風にため息をついた。
「じゃあ約束ね」
「…え?」
「重いもの持つ時は1人でやらないで、あたし呼んで。バッシングも一緒にやるから」
「はい…」
「あと、辛かったら我慢しないでね。すぐあたしに言うこと」
真春は半分呆れながら「いい?」と俯いた香枝の顔を覗き込んだ。
すると香枝は「ありがとうございます」と微笑んだ。
無理矢理にでも帰らせない自分はバカだ。
普通にバカだ。
でも、香枝に言われた事を考えたら、それもそうかもしれないとなぜか納得してしまったと同時に寂しさが押し寄せてきたのだ。
もっと一緒に過ごしたいと思ってしまった。
これで香枝の状態が悪化したら自分のせいだ。
なんとしてでもフォローしなければ、と考え続けた3時間は、特別な時間だった。
他のスタッフにバレないように、真春はさりげなく香枝をフォローし続けた。
そのため、いつも働いているよりもずっと長い間香枝と一緒にいることができた。
何回「大丈夫?」と声を掛けただろうか。
この世で一番その言葉を使った自信がある。
具合が悪いのを見ているのは心苦しかったが、この状況を喜んでいる自分がいたのもまた事実だった。
22時半で真春と香枝以外のスタッフが上がっていったが、案外真春の行動に疑問を持つ人は誰一人としていなかった。
ようやくラストオーダーの時間になった頃、香枝がレジ横の椅子で少し休んでいるのを見つけた。
「大丈夫?」
香枝は虚ろな目でコクリと頷いてから「すみません、こんなとこで…サボってるみたいですね」と言って身体を起こした。
「全然。休んでていいよ」
「いえ…ちゃんと最後までやります」
お客さんが全員帰ったのは23時半。
残りの洗い物を済ませて、全て終了した。
香枝はぎこちない笑顔で戸田さんに挨拶をした。
事務所に戻ると、香枝は昼間と同じようにテーブルに突っ伏した。
「帰れる?」
「はい…」
更衣室で着替えを済ませて出ると、まだ香枝は同じ体勢でいた。
真春はパイプ椅子に座って、香枝の隣で頬杖をついてその姿を眺めた。
心なしか、少し息が荒いような気がする。
「香枝…」
呼び掛けると、香枝は「…はい」と、くぐもった声で返事し、うずめていた眠そうな顔をこちらに向けた。
寝起きのような、怠そうな弱っているその顔が愛おしすぎて思わず抱き締めたくなってしまう。
「大丈夫?帰れる?」
「帰れます」
「それとも少し休んでく?」
真春がそう言うと、香枝は「早く帰らないともっと怠くなりそうだから、帰ります」と言って立ち上がり、フラフラと更衣室に入って行った。
着替えを終えた香枝は「寒い」と言ってジャケットを羽織った。
外に出た時、ふわっと生温い風が2人を包んだ。
ほのかに緑が香る、湿った4月の風。
「家まで送るよ」
「大丈夫ですよ…」
「だいじょばない」
「なんですか、その日本語」
香枝はクスクス笑った。
ゆっくり歩きながら、香枝の家まで向かう。
相当怠いのか口数は少なかったが、一緒に歩く帰り道はとても幸せだった。
暗い住宅街を香枝の歩調に合わせて歩き、日付が変わって15分以上経った頃、ようやく香枝の家の前に着いた。
「すみません、真春さんも疲れてるのに」
「全然。てか香枝があんなに意地っ張りだったとは思わなかった」
香枝は自転車を駐車スペースの傍に停めるとこちらへ歩いてきて「今日はありがとうございました」とお辞儀した。
「真春さんがずっと側にいてくれて安心だったし、嬉しかった。将来、真春さんに看病される患者さんが羨ましいなって思いました」
「なにそれ。具合悪いのにそんなこと考えてたの?」
真春は手の甲を口に当ててクスッと笑った。
「考えてた」
前から思っていたが、たまにタメ語になってしまうところが可愛らしい。
「でも、最後まで何事もなく終わってよかったよ。あったかくして寝なね」
「はーい、白石先生」
「看護師は先生って言わないよ」
「あはは、そっか」
香枝は鼻をすすりながらヘラヘラ笑った。
「さっき寒いって言ってなかった?」
「はい、実は混み始めた時もすごく寒くて…」
そう言って虚ろな目をした香枝の額に、真春は手を当てた。
さっきほどではないが、熱はありそうだ。
「これからまた熱上がるかもね」
「…そんなことされたらドキドキする。もっと具合悪くなりそう」
「あ…ごめん」
真春は笑いながら温もりが残る手を引っ込めた。
気持ちをストレートに伝えてくる香枝に、真春の心臓は止まってしまいそうだった。
今日はどうしてこんなに照れ臭い言葉がなんの迷いもなく出てくるのだろう。
熱のせいだろうか。
「うそ」
香枝が間近でヒヒッと笑った。
その笑顔の破壊力はすごかった。
これ以上はダメだと毎度ながらに思う気持ちを一瞬でゼロにする。
「具合悪いと、なんでこんなに人恋しくなるんだろ」
「分かるかも。なんでだろね」
「弱ってると、ブレーキ壊れがちですよね」
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真春が困ったように笑うと、香枝は微笑んで「それじゃあ、また。ありがとうございました」と言って玄関へと向かって行った。
「…お大事に。じゃあね」
真春は軽く手を振って香枝が家の中に入っていくのを見届けた後、自転車を漕ぎながらはち切れそうな胸をなだめることに集中した。
友達でいるために境界線を引かなければ、と昨日考えていたばかりなのに。
その決意は轟音とともに崩れ去った。
香枝のことを思うたびに、胸が疼く。
よほどの強い意志がないと無理そうだ。
胸が苦しくてタバコを吸う気にもなれない。
緑の匂いで肺が膨れ上がる。
この緑は、一生ここに残り続けるかもしれない。
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