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19.すれ違い

a.

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「おはようございます」

2日後、18時から出勤の真春はパソコンでシフトインしようとした時に聞こえてきた声に過剰に反応した。

「え?香枝?どうしたの?」

驚いた、まさかこんなタイミングで会うとは。
最悪すぎる。

「おじいちゃんのとこは…?」

「お母さんが急な仕事が入っちゃって、おじいちゃんのとこはまた今度行くことになったんです」

「そっか…残念だったね。今日バイト入ってるの?」

「そうですよ!戸田さんから、今日人少ないから入れるなら入って欲しいって連絡来たんです」

なんでこんな時に限って香枝を選んだのだろうか。
戸田さんを恨みたくなる。

「おみやげ買ってこれなかったー。すみません」

香枝は真春の顔を見て、力なく笑った。

「いいよ全然。じゃ、今日よろしくね」

「はい」

この会話を律に聞かれていないかと真春はキョロキョロと周りを見渡した。

今日は律も17時から働いており、ますます気分が悪くなる。

どんな顔をして律に会えばいいのだろう。
香枝とはどう接しよう。

考えてもいい答えなど出るはずもなく、18時になる前に真春は戦場に行く気分で出勤した。


「おはよう、真春」

「おはよ」

何事もなかったかのように挨拶をしてくる律。

「今日、急遽香枝も入ることになったね」

律の声色はこの状況を楽しんでいるように聞こえ、顔は悪意に満ちているようにも見える。

「だから何。いつも通りでいいでしょ」

そう言い放ったものの、真春は心の準備が出来ていなさすぎて焦っていた。

2人とどう接するべきかを、ガラガラのホールを必要以上にゆっくりと歩きながら真春は考えた。
正月休みも終盤に差し掛かり、ますますお客さんは少なくなっていた。

こんなことなら、わざわざ香枝を呼ぶ必要なんてなかったのに。

ホールを一周歩いて戻ってきても結局何もいい案が思いつかず、真春はなるべく香枝と律と話さないようにすることにした。

忙しければ話すこともあまりないのだが、今日は残念ながらここ最近の中で首位を争うほどの暇さだった。

真春は2人を避けながら掃除に没頭した。

無駄に汚れていないドリンクバーの機械を拭いたり、並び替えなくていいコップを潔癖症のように綺麗に並べたり、普段なら絶対にやらないような所まで丁寧に掃除した。

時折、香枝と律が話しているのを見掛けると不安になって吐きそうになるのに、こんな日に限って真春はラストまでで、香枝と律は22時上がりだった。

最悪のシチュエーションだ。

律が香枝にあの事を言ってしまうかもしれない。

「お疲れ様でーす」

律と香枝の声が聞こえた。
一緒に裏口から出て行く後ろ姿を目で追う。

そういえばいつもなら香枝は先に上がる時、「ラスト、頑張ってくださいね」と言ってくれるのに、今日はそれがなかった。

まさか、律はどこかのタイミングで香枝にキスのことを言ったのだろうか。

考えたらまた吐き気がしてきた。
あの2人の間に何もない事を祈るしかない。



翌日も2人とシフトが被っていた。
今日はロングだが遅めの12時出勤。

「おようございまーす」

行きたがらない身体で無理矢理出勤すると、香枝と律はすでに働いていた。

「おはよー」

律とはいつも通り挨拶したが、香枝はデシャップにいたにも関わらず、真春の方は一切見ずにどこかへ行ってしまった。

聞こえていなかったのだろうか。

そう思っていたが、やはりなんだか様子がおかしいと思ったのはランチがピークを迎えた時だった。

普段なら料理やお冷やを出しに行くと必ずお礼を言ってくれる香枝だが、今日は全くそれがない。
他のスタッフには笑顔で言っているのに。

完全に無視されている、と肌でひしひしと感じた。


「香枝に何か言ったでしょ」

レジでお会計を済ませたお客さんを見送った律に、真春は半ば怒り気味で言った。

「何も言ってないよ。なんで?」

「一言も口聞いてくれないんだけど。律が何か言ったとしか思えないんだけど」

「本当に何も言ってないって。考えすぎじゃないの?」

律は真春の言葉を軽くあしらうと、ホールに向かった。

その後も結局、香枝とは一言も話さなかった。
一緒に働くのがどんどん憂鬱になっていく。


この日以降、出勤前にシフト表を確認して香枝がいると、気分が落ち込むのが自分でもよく分かった。

胸の奥がえぐられるような感覚に襲われ、深いため息が出る。

前なら、一緒に働けるだけで嬉しかったのに。
どうして、こんなことになってしまったのだろうか。


そんな状態で迎えた新年会当日。

「あけおめー!ことよろー!」

早くお酒が飲みたくてウズウズしているさやかの簡単な掛け声で始まった新年会を真春は心から楽しめなかった。

なぜなら隣には律が座っているから。
また何か企んでいるのだろうか。
香枝は向かい側のかなり端の方に座っている。

「真春、勝負しない?」

「なんの?」

「どんだけお酒飲めるか」

なんだそれ、と思ったが断ると「香枝に言っちゃうよ?」とかまた訳の分からない脅しを仕掛けてきそうなので、真春は渋々のることにした。

絶っっっっっ対に負けない、と思いながら水のようにお酒を飲む。

「真春さん、今日はよく飲みますね。あ、いつもか」

未央がフライドポテトを食べながら真春を見た。

「体が欲してるからね!」

嘘だ。
こんな気分で飲むお酒なんて、美味しくもなんともない。

ビールを3本は飲んだであろう頃、みんなは既に出来上がっていた。

隣に座るさやかがデザイナーの仕事について熱く語るのをみんなで聞いていると、律が「お酒強くない言ってたの嘘?」と小声で耳打ちしてきた。

嫌な気分である意味興奮しているせいか、真春はあまり酔えなかった。
少し頬が熱いくらいだ。

「嘘じゃないけど。今日はそういう気分じゃない。でも少し酔ってるみたいだけど」

「なんだー、つまんないの。酔ったらキスしようと思ったのに」

律は真春を見つめながら目を細め、悪魔のような口調で囁いた。

真春がイライラしながら缶に残っているビールを飲み干した時「なに2人でコソコソ話してるんだよ~。ラブラブなの?」とさやかが急にこちらを向いて真春の腕を引っ張った。

「え?んー。一方的に受けてる感じです」

真春は苦笑いした。

「真春もタメの子が入って来たからやりやすいっしょ?よかったよー。しかも律、めっちゃ面白いからホント好きー!」

「さやかさん、律のことめっちゃ好きですよね」

このまま律をさやかの方に押しやりたいところだ。

「当たり前よー。ホント、いいキャラしてんだもん!」

その言葉に律は「あは、ありがとうございます」とさやかの手元にあった梅酒の缶に乾杯する仕草をした。

さやかもそれに応じ、2人は缶に口をつけてグビグビとお酒を流し込んだ。

「でも」

律は空になった缶を端に避けて「あたしが好きなのは真春なんで」と、とんでもない事を口走った。

真春は目を見開いて律を見た。
香枝に聞こえていませんようにと瞬時に神に祈る。

「マジかー、フラれたわ」

笑ったさやかがふざけているのは当然のように分かったが、律の目の本気具合は恐ろしかった。
なんだか変な空気になっている。

「あ!お菓子食べたーい!たくさん買ってきてくれてるじゃん!最高!」

「あたしも食べたーい!」

未央と奈帆がお菓子が入ったビニール袋を見つけてくれたおかげで、少し空気が和んだ。

真春がホッとしたのも束の間。

奈帆はポッキーの袋を取り出すなり「ポッキーゲームしようよ!」と恐ろしい提案をしてきた。

ポッキーゲームとは、2人で1本のポッキーの端と端をくわえて食べ進めていくゲームだ。

キスするか恥ずかしくて途中で脱落するかのどちらかだが、真春も友達とやったことがあるがキスまで至ることの方が多かった。

「未央さん、ポッキーゲームしよー!」

「いーねいーね!」

2人は1本のポッキーの端と端を口にくわえた。

「いっちゃえいっちゃえー!」

律は楽しそうだ。

間もなくして、未央と奈帆の唇がぶつかる。
2人とも酔っているせいか、恥じらいもないらしい。
キャッキャと楽しそうに笑っている。

「はい、じゃ次は2人の番!」

そう言って奈帆は真春と律にポッキーを1本差し出した。

「やったねー。やろ、真春」

律の目がギラギラしている。

みんな、酔っ払っているのだ。
いつもみたいに、何も考えずに、ただ、楽しめばいいのだ。

「いいよー!」

真春はテンションが上がったフリをして奈帆からポッキーを受け取り、チョコがついていない方をくわえた。

「ん」

そう言って真春は律の方を向いた。
律ももう一方をくわえる。

ポキポキと細い棒が軽い音を立てて少しずつなくなっていく。
それと同時に律の顔がどんどん近付いてくる。

その向こうに、少しだけ、香枝の姿が見えた。
こっちを見ている。

お願い、見ないで。

その時、唇同士が触れた。

「ゴールイン!やばいねー!もっかいやろ!」

奈帆は手を叩いて大声で笑った。
完全に酔っ払いだ。

真春は立ち上がってマウンテンパーカーを羽織り、靴を履いた。
すかさず、律があとからついてくる。

「どこ行くの?」

「外」

「タバコ?」

「うん」

「あたしも行く」

ついてくるな!と思ったが放っておくことにした。
真春は律の言葉を無視して外に出た。

外は寒かった。
しかし真春の気分の方がもっと冷ややかだ。
喫煙所の赤いベンチに座り、タバコに火をつけてぼーっと火を見つめる。

律は向かいのベンチに座って、持ってきた缶ビールを飲んでいる。
飲みたいなら、ついて来なければいいのに。

「最近、香枝と喋ってる?」

「喋ってないよ。無視されるから」

真春は煙と共に吐き捨てるように言った。
誰のせいだよ、と思いながら。

「まだ疑ってる?香枝には本当に何も言ってないよ」

少し茶色がかったロングヘアを掻き上げて、律は言った。

帰国子女という言葉がとても似合う、どことなくグラマーな彼女は、タイプで言えばオラオラ系男子にモテそうな見た目だし、偏見かもしれないが、毎晩お酒を浴びるように飲みワンナイトラブなんてお手の物といったイメージを持つ。

それがレズだなんて。
全く想像できない。

「じゃあなんで?律が言ったとしか思えないでしょ?」

「そんな疑わないでよ。あたしも気になってるんだから」

「昨日はどうだったの?あたし喋ってないから全然分かんないけど」

「まぁ別に普通って感じだったかな。いつもの香枝だったよ」

律はビールをひと口飲んで「いる?」と缶を差し出してきた。

「間接キス」

「いらない」

真春はタバコを灰皿に投げ入れて立ち上がった。
みんなのところに戻る気分になれない。

裏口から中に入り「トイレ行ってくるから先戻ってて」と律に告げると、律は何も疑うことなくお座敷へと向かって行った。

真春は再び裏口から外へ出ると、階段は降りずに手すりにもたれかかりながらタバコに火をつけた。

忘年会の日、ここで香枝にキスをしたことを思い出す。

香枝は優しく受け止めてくれた。
しかし今はもうそれも過去の出来事だ。
一生、あの時のようにふざけてでも香枝に触れることなど出来ないのだろう。

理由も分からずに好きでしょうがない人に無視されるなんて、辛い以外の言葉が見つからない。

それと同時に、自分はこんなにも香枝のことが好きだったのだと、その思いが本物だったのだと、改めて痛感した。

この先、どうなってしまうのだろうか。
タバコが燃焼し切る頃、真春はまた涙を流していた。
このところ、涙もろすぎて自分でも驚く。

もう、香枝の顔を見るのが辛い。

こんな気持ちになったのは初めてだ。
真春はその場で静かに泣き崩れた。
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