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9.ふつふつと

b.

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香枝を見送り家に帰ると、真春は部屋に戻るなりベッドに身体ごと倒れ込んだ。
布団に顔を埋めて息を吸い込むと、脳が香枝の匂いと温もりを思い出そうとした。

1人になると走馬灯のように色々な場面が脳裏に現れ始めて、何故かひとつひとつが少しずつ美化されていく。

無心で昨日からの出来事を脳内でリピートさせていると、ベッドに埋もれていたスマホのバイブが鳴った。

手探りで探し確認する。
香枝からのメッセージだ。
胸がキュッと締め付けられる。

いつからか、メッセージが来ている時、香枝からだといいなと毎回思っていた。

やっぱり自分は、香枝のことが好きだ。
でも、そんなことを思う自分に疑問を抱く。


これって同性愛だよね?


友達としての"好き"ではないことに真春は気付いてしまった。
香枝の事を考えては妄想を繰り返してしまう。

香枝と一緒に寝ること、香枝と頬や唇にキスすること、香枝がバイトで抱きついてくること…。

恋人同士がするようなことを妄想していた。


でも、香枝はそんなこと望んでないよね。


自分のことは、ちょっと仲のいい先輩くらいにしか思ってないに違いない。

『真春さん!今日はありがとうございました。真春さんのお家、また行きたいです!』

沈んだような初恋のような例えようのない複雑な気持ちで開いた画面には、お礼のメッセージが映し出されていた。

バイトの時言えばいいのにと思いつつ、なんだかんだメッセージが来ることを密かに期待していた自分が情けなくなる。

『また来てね!いつでも大歓迎だよ』

真春は布団にうつ伏せになったまま返事を返して、スマホをベッドに放り投げた。
再び布団に顔を埋める。

自分はどうしたいのだろう。
よくわからない。
今日これからどんな顔で香枝と会えばいいのだろうか。

誰か教えて。



そのまま眠ってしまっていた。

部屋が薄暗くなっていたので、まずいと思い時間を確認すると16時半だった。
シャワーを浴びてバイトに行く支度をし、少し早めに家を出た。

紺色と紫色が混じった夕空の下、自転車をゆっくりと漕ぐ。
18時15分前にお店に着いた時には、空は更に暗くなっていた。

「おはようございまーす」

真春はノロノロと事務所に入っていった。

「あ、真春さーんっ!おはようございます」

香枝はもう来ていた。
さっきと同じ顔、いつもと変わらない態度。
いつもと変わらない、綺麗な栗色のポニーテール。

「おはよ」

やんわりと笑うその顔を見て、すぐ目を逸らす。

更衣室で着替えている時、足が震えている事に気付いた。
ドキドキして仕方ない。

どんな顔をすればいいだろうか。
さっきの反応、おかしくなかったかな。
着替え終わり、扉を開けると香枝がパソコンの前でシフトインしていた。

「あれ?もうそんな時間?」

「そうですよー。真春さん着替えるの遅すぎですよっ」

パソコンの時計を見ると、もう18時2分前だ。
緊張して動作が緩慢になってしまっているようだ。

「真春さんの分もやっておきますね」

香枝はそう言うと再びパソコンを操作し、今度は真春の名前でシフトインした。

「あ、ありがと」

「じゃ、行きましょっか!」

香枝はなんとも思ってないの?

こんなに浮かれて緊張して我を忘れそうになっているのは自分だけだ。
真春は両頬をペチペチと叩いて自分に気合いを入れた。

とりあえず、一旦忘れよう。


キッチンからホールに出ようと思ったその時、洗い場が荒れ放題になっているのが見えて、アイドルタイムの忙しさを物語っているようだった。

これはきっとディナーも戦争になるに違いない。

そう構えていたが、予想に反してお客さんは全然来なかった。
続々と早上がりさせられる中、戸田さんに「白石さんと永山さん、どっちか22時上がりでもいい?」と声を掛けられた。

そりゃそうなりますよね。

稼ぎたい気持ちはあったが、明日からまた実習なので真春は「あたし22時に上がります」と立候補した。

「悪いねー」

「いえ、全然。明日も実習なので、むしろ助かります」

「また実習かー。看護師さんになるのも大変だねぇ。頑張ってね」

「はい。ありがとうございます」

なるべく締め作業が楽になるように、使わないところから片付けをしながら戸田さんと話していると、香枝が口を開いた。

「真春さんと一緒にラストだと思ってたのにー。寂しいですよ」

香枝はいつもの穏やかな口調で言った。

「暇だから仕方ないよね」

あたしも寂しい、という言葉を飲み込んで真春は苦笑いした。

「次のバイトはいつですか?」

「んー…また週末かな?」

「そっか…」

分かりやすく落胆する香枝を見て、胸がトクンと疼いた。
香枝に触れて、抱きしめたい。
いや、ダメだダメだ、冷静になれ自分。

香枝はきっといつもと同じテンションで言っているに決まってる。
何か言おうと迷っていた時、お会計を告げる呼び出し音が鳴った。

「あ、行ってくるね。…戸田さん、このお会計済ませたら上がります」

「りょうかーい」

真春は逃げるようにその場から立ち去った。
香枝を目の前にすると、頭の中が真っ白になってしまう。

実習でまた少し期間が空けば、この気持ちはおさまるのだろうか…。

次の日の朝、また香枝から"今日も頑張って下さいメッセージ"が来た。
脱ズボラをしたのか、それともあの夜言った言葉を守ろうとしているのだろうか。


今回の実習は附属の大学病院で急性期の実習だ。
運悪く、真春を小馬鹿にする大橋とまた同じグループになってしまった。
実習の後に図書館で本を借りて帰ろうとした時、早速絡まれた。

「白石、ほんとついてないよなー。あのリストの中じゃ一番ヤバい患者つけられちゃって」

「一番ヤバいってどういうこと?」

「超難しそうじゃん。既往歴多すぎだし、疾患も難しそうだし。先生が大丈夫かなーって言ってんの聞こえちゃったんだよね。確かに、すぐご臨終とかありえそうだもんな!」

なんて不謹慎なことを言うやつなんだ、と真春は呆れた。
看護師になろうとする人間が、これでいいのか?
いいのは頭だけだ。
思いやりも優しさのかけらもないクズ男。

「白石が受け持ちとか大丈夫かよ。心配だわー」

「うるさいな。ほっといて」

真春は心の中で大橋を十分に罵った後、何も言わずその場から立ち去った。

帰りの電車で、真春は香枝に返事を返した。
朝はなんて送ればいいかと考えているうちに返しそびれてしまったのだ。

『実習終わった!あたしお疲れ!笑』

『お疲れさまです♪お酒飲みたいよー』

『この間飲んだばっかりだけどね!でもあたしも飲みに行きたい!』

『また真春さん家で飲みたーい!』

『いいよ、来る?』

『いいんですか?やったー!』

そんなやり取りをして、また土曜日に真春の家で宅飲みをすることになった。
メンバーはこの間と同じ。

『未央にも連絡しときますねっ!』

香枝とこんなやり取りをできただけで、また遊べると考えただけで、真春は幸せな気分になった。

口角が上がるのを抑えきれなくて、少し上がってしまったのを隠すように左手の甲をさりげなく口元に当てた。

翌日から真春は土曜日のために頑張った。

毎日目まぐるしく変化していく患者さんを受け持つ真春は、グループの誰よりもつまづいていた。

大橋にバカにされたこともあり、真春のイライラは倍増していた。

急性期ということもあり手術前後の患者さんを受け持つ学生が多いが、真春の患者さんは術後に合併症を引き起こす可能性が高いと言われていた。

そして、頑固な性格であり元々手術には反対していて、家族に説得され渋々受けることにしたのだと、火曜日の夕方、実習担当の先生に言われた。

「白石さん、本当についてないわね。あ、そんなこと言っちゃダメね」

「…はは」

「明日、病棟に戻ってくる予定だから。頑張って」

「はい」

真春はその患者さんと術前から関わっていたが、それはもう絡みづらいおじいさんだった。
頑固すぎるし、ものすごく拒絶されていた。
何故、学生の受け持ち患者として同意してくれたのか、分からなかった。

無事に手術を終えた患者さんが集中治療室から戻ってきた日。

患者さんは状態が不安定でまだリハビリも進んでいなかったが、口だけは達者でベッド上で暴言を吐いて周囲の人々を困らせていた。

翌日には点滴を引っこ抜いたり勝手にトイレまで歩いたりともはやお手上げ状態だった。

金曜日にはなんとか身体を拭かせてもらったり、先生の許可が下りて一緒に歩く練習をしてくれるようになったが、暴言は相変わらずだった。

おまけに状態が安定しない日々が続いており、勉強した術後の経過とは程遠かったので、毎日のカンファレンスでもみんなとは少し違った意見も多く、また大橋に「何言ってんだコイツ」と言わんばかりに鼻で笑われ、その度にイライラして散々な1週間だった。


先生の「白石さんの患者さんはちょっと難しいからね…」というフォローは優しさだったのだろうが、爆発しそうな真春には響かなかった。
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