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9.ふつふつと

a.

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朝、真春は寒さで目が覚めた。
香枝に布団を全部持ってかれていたのだ。
幸せそうに眠る香枝が隣にいる。
夢ではなかった。

香枝が好き。

その気持ちがありえないほどのスピードで膨れ上がって、もうはち切れそうになっていることに真春はやっと気付いた。

今まで気付いていながら、あやふやにしたり見ないフリをしたり、忘れて冷めてしまうこともあったりと感情の浮き沈みが激しかったが、この状況をこの上なく幸せだと思ってしまうのは、もう取り返しのつかない気持ちになってしまった証拠だ。

でも、どんな好き?
付き合いたい?

いや、違う。

一体どうしたいの?
ただ、好きなだけ?

その愛おしい寝顔にキスしたいと思ってしまうのは異常なのかな。

真春は香枝を起こさないようにそっと起き上がり、寝癖を直しながらベッドから降りた。
部屋は昨日のまま、空き缶やおつまみの残骸などがテーブルだけでなく床にまで散らばっている。

真春が床に放られたコンビニの袋にゴミを入れて片付け始めると、布団で寝ていた未央が「今何時ですか…」としゃがれた声を絞り出した。

「ごめん、起こしちゃったね。んーと…9時だよ」

「9時ですか…」

未央は半分寝ぼけているようだった。
起き上がったはいいものの、座りながらまた寝ている。
寝起きの乱れたロングヘアが色っぽいって、羨ましいなと真春は思った。

「おはようございます…」

今度は香枝が起きた。
寝ぼけ眼をこすり、小さくあくびをする姿を見て胸がキュンとした。

「おはよ」

香枝は一緒に寝たことをどう思っているのだろうか。
もしかしたら、なんとも思っていないかもしれない。

答えを知りたいような、知りたくないような、複雑な思いが巡る。
なんだか、香枝の顔を見ることができない。

「2人ともコーヒー飲む?」

「いいんですか?ありがとうございます」

「わーい!いただきます」

真春はゴミを入れた袋を片付けがてらリビングに向かった。
お湯を沸かしている間、真春は夜の出来事をずっと考えていた。

全身から離れようとしない香枝の温もりと寝息、可愛い寝顔…。

「真春ー、昨日は何時まで起きてたの?ずいぶん楽しそうだったじゃない」

庭で洗濯物を干している母の言葉にはっとなる。

「え?うーん…何時だろ。覚えてない」

彼氏の話になった時、未央が気になる人と今日遊びに行くと話していたのを今思い出した。
その話が一番盛り上がっていたな。
階下まで聞こえるなんて、相当うるさかったのだろう。

「若いっていいよねー。あ、スコーンあるからお友達に持って行ってあげて」

「ありがと」

コーヒーを淹れ、戸棚の中にあったスコーンをお皿に出しお盆に乗せて再び部屋へ戻ると、2人は布団を綺麗に畳んでくれていて、顔も先ほどよりはいくらかスッキリとしていた。

「はい、どうぞ」

片付けられたテーブルの上に3人分のコーヒーとスコーンを置く。

「スコーンもあったから、食べて」

「ありがとうございまーす!」

香枝はコーヒーを一口飲むと「うぇー!にっがーい!」と叫んだ。

「真春さんいつもこんなの飲んでるんですか?」

「うん。分からなかったからとりあえずブラック持ってきたんだけど…。砂糖とミルクあるから使って」

真春がスティックシュガーとミルクをテーブルに置くと、香枝は「いっぱい砂糖入れよっ」とミルク1つとスティックシュガーを3本入れた。

「入れすぎでしょ」

笑った未央の声はまだ少し掠れていた。

「未央、時間大丈夫?」

「これいただいたら、帰りますね」

「おっけー。準備しっかりしないとね!てか二日酔い大丈夫?」

「意外とそんなに残ってないですよ!あ、でもちょっとお酒臭いですかねー?」

あんなに飲んだのに、3人とも奇跡的に二日酔いは軽度だ。
真春はほとんど眠れていなかったが、睡眠不足なんて言っていられない精神状態だ。

スコーンを頬張る香枝の横顔を無意識に見る。
また胸がトクンと鳴った。

「未央、今日上手くいくといいね」

真春はコーヒーをすすりながら自分の中で頭を切り替えた。

「頑張ります。…って頑張るっていうのもちょっと変ですね」

「まー、未央なら大丈夫っしょ!」

真春の言葉に香枝もうんうん、と頷いた。
コーヒーを一口飲んで、真春がスコーンをかじると未央は「真春さん、甘いものあんまり好きじゃないって言ってませんでした?」と驚いたような顔をした。

「スコーンはそんなに甘くないから嫌いじゃない」

「えー!そうなんですか?分かんないなー」

「生クリームとか、ブラウニーとか甘ったるいのが無理なの」

「じゃあ、タルトは?」

「タルトは好き」

「えぇ?!じゃあじゃあ、ソフトクリームは?」

「うーん…微妙だな。ジェラートとかかき氷とかの方が好きかな」

「むずっ!真春さんって意外とワガママなんですね」

「ワガママじゃないよ!」

真春と未央が盛り上がっていると、香枝が一言「真春さんっぽい」と笑った。

「なんか真春さんそのものみたい。すっごい甘いわけじゃないし、かといってすごいサッパリしてるわけでもなくて、ちょうどいい甘さといい意味のサッパリ感っていうか…」

香枝の言葉に、真春と未央は一瞬考えた。

「なんとなく言いたいことはわかるけど、2割くらいしか伝わってこない」と、未央。

真春は褒められているのかそうでないのかよく分からなかったが、香枝が「なんて言ったらいいか分からないけど、とにかく良いってこと!」と必死になって伝えようとしているのを見て、顔がじわじわと熱くなっていくのを感じた。

「あー、真春さんちょっと顔赤くないすかー?」

「へ?赤くないでしょ」

「照れちゃってー。そういうとこ、可愛いですよね」

「うるさいな!あ、未央そろそろ行かないとじゃない?」

未央は「話逸らされたけど、リアルにヤバいんでそろそろ帰ります」とバッグを持って立ち上がった。

「下まで送るよ」

真春は未央を玄関の外まで見送った。
今日も快晴だ。
午前10時の空気は、寒さと暖かさの入り混じった不思議な味がした。

「道、分かる?送ろうか?」

「大丈夫です、なんとなく分かるんで」

自転車のスタンドを上げながら未央は言った。

「ありがとうございました!また宅飲みしましょうね!」

「うん、また。じゃあ、今日は頑張って」

「はい、それじゃまたバイトで」

未央に手を振り、近くの角を曲がるまで美しいロングヘアをなびかせる後ろ姿を見送った後、真春は部屋に戻った。


部屋のドアを開けると、先程までコーヒーを飲んでいた香枝がベッドの上に寝そべってスマホをいじっていた。

香枝と部屋で2人きりという状況に、真春の心臓はめまいがしそうなほどにのたうち回り始めた。

真春は「香枝、どうする?帰る?」と言おうとした。
けど、言いたくなかった。

帰ると言われたらどうしよう、もっと香枝と一緒にいたいと瞬間的に思ってしまったから。

帰るタイミングを逃した香枝は一体何を考えながら自分のベッドに横たわっているのだろうか。
ドアを後ろ手に閉めて、真春は香枝に気付かれないように深呼吸した。

「未央、帰っちゃいましたね」

香枝は起き上がると、ベッドの上で胡座をかいていつもの調子で話した。
息が詰まりそうになる。

「香枝は、どうする?」

返答に困った真春は迷った挙句、結局その言葉しか出てこなかった。

一瞬の沈黙。

そして、

「あとちょっとしたら帰る」

香枝が答えた。

ほっとした。

真春が大きく息をつきながらテーブルの前に座ると、香枝に「ため息ですか?」と笑われた。

「え?あ、違うよ。なんか寝不足だし、ちょっと二日酔いだし」

異常なほど高鳴る胸に気付かれないように、真春はコーヒーをひと口すすった。
香枝は今度は体育座りをしながらスマホをいじり始めた。

部屋にはテレビはないし、パソコンは父親が仕事で使わせてほしいと言って、貸出中だ。

何もすることがなくて、香枝は楽しくないと思っているに違いない。
時間が経つにつれ、真春は徐々にそんなことを思い始めた。

ただの友達ならば、もっとオープンに接することができたはず。
でも香枝だから、色々なことを考えてしまう。

次はどうしよう。
何をしよう。
何を話そう。

ただ、時間だけが過ぎていく。

「あ!」

無意識に真春も体育座りになってコーヒーを飲んでいた時、香枝が突然声を上げた。

「オセロやりたい!」

香枝は本棚の一番下の段に本と一緒に並んでいるオセロの箱を見て言った。

「香枝、オセロ好きなの?」

「あたし、オセロ結構強いですよー!」

香枝はまだ少し眠気の残る顔を綻ばせると、ベッドから降りて本棚からオセロの箱を引っ張り出した。
テーブルに箱から出した盤を置き、白黒の石を並べてオセロを始める。

「真春さん先いいですよ」

「なにそれ。余裕ぶっこいてるね」

「譲ってあげます」

真春は笑いながら「むかつく」と言って、右下の白い駒を黒にひっくり返した。


ゲーム中、一喜一憂する香枝を見て真春はまた深呼吸がしたくなった。
第1回戦は真春の圧勝。

「もういっかい!」

「香枝弱ーい。強いんじゃなかったの?」

「計算ミスですー。次は絶対勝ちます!」

負けず嫌いの香枝はその後もリベンジを申し出た。
強いと豪語したわりに、勝ったのは1回だけだ。

コーヒーを追加したり何回もオセロをやっているうちに、気付いたら12時を過ぎていた。

「あー、もうお昼過ぎてるよ」

「本当だー。さすがにそろそろ帰ります。長居しちゃってすみません」

荷物を整理しバッグを手に取り、部屋を出て行く香枝について真春も部屋を後にした。
玄関を出て、眩しさに目を細める。
本日2回目の外は、先程よりも大分暖かく感じた。

「コーヒーとスコーン、ごちそうさまでした」

「いーえ」

微妙な空気が流れる。

「あ…道分かる?大通りまで送ろうか?」

真春がそう言うと、香枝は「ありがとうございます」と微笑んだ。

住宅街をゆっくりと並んで歩くのは、さやかさんの家からの帰り道以来だ。
香枝が押す自転車から、カラカラと空回りする音が聞こえる。

あの絶望的な日々を乗り越えて、香枝はなんとかバイトを辞めずにここまで頑張った。
優菜に対する否定的な感情を初めて自分に打ち明けてくれた時、香枝との距離がぐっと縮まった気がした。

でもきっとそれは、そんな気がしただけで香枝は何とも思っていないのかもしれない。
自分じゃなくても良かったかもしれない。

今までのことを考え、そして昨日から今日にかけての出来事を考える。
思い出すだけで、少しばかり落ち着きを取り戻した心臓が再び暴れ出す。

「今日、バイト入ってますか?」

不意に香枝に声を掛けられて、ドキッとする。
ぐるぐると考えているうちに、大通りまで出てきていた。
交差点の信号は赤に変わってしまったばかり。

「…あ、うん。18時から」

「じゃ、またあとでですね!」

「そうだね、またあとで」

ふと見た香枝の顔はまだ少し眠そうだった。

あの時、一体何を考えていたのだろう。
酔っ払っていて覚えていなかったりして。

綺麗な鼻筋を見ていると、香枝が鼻をすすったので真春は急いで視線を信号に移した。

「真春さん」

「ん?」

香枝に呼ばれてそちらを向く。
大通りの信号が赤に変わり、青い右矢印がパッと出た。
車は止まり、右折の車だけが綺麗なカーブを描いている。

「寝癖」

香枝は真春の左耳の丁度上の方を優しく手で撫でた。
近付いた香枝と目を合わせることができなかった。
顔は赤くなっていないだろうか。

「ありがと…」

香枝はやんわり笑うと、「じゃあまたあとで」と言って自転車に跨り青信号になった横断歩道を渡って行った。

風と一緒に香枝の匂いがふわっと真春の鼻を掠める。
香枝の後ろ姿がどんどん小さくなっていく。

真春は香枝に撫でられた部分をくしゃっと掴みながら、その小さな後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた。
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